エッセイ 1  

更新 2017年3月26日

我が街再発見 湊伸一 2017年3月24日

気持ちは “日常住まう街も改めて見ると帰って寝るだけの場所ではない” 凡庸だが自分の住う街の再発見
ということで、共感いただけたら幸いです。

私の住む街 三鷹 それ東京のコルホーズ(今や死語)?無用な特快、特急停車駅?
そんなことありません。何故なら・・

東方都心から敷かれた街並は蒼林映す井の頭池から三鷹にさしかかり西方ヘ田園色を帯びつ延び、丹沢、高尾、
奥多摩の山並みへと吸い込まれてゆきます。晴れた日には秀麗な富士が望まれます。
日が傾き西空に浮かぶ雲が灼け山の端が刻一刻墨色に変わりゆく頃、この刻限から家路を急ぐ人々で三鷹駅改札
は賑わい出します。三鷹は中央線の中ほどに位置する総武線始発駅であり、特快停車駅であり都下ベッドタウン
です。
かつて太宰が颯爽とあたりを見わたした跨線橋。中央線が高架化した後も三鷹が地上駅であり往時の姿を留めて
います。ここに立てば誰でも太宰。そうは言っても林立するビルが時の流れを教えてくれます。
さらに電車好きにはこたえられない場所でもあります。電車目当の親子連れが引きも切りません。
色とりどりの電車が並ぶ操車場の傍らを通勤電車が行き交う中に時おり姿を現すのは あずさ。かいじ。
来たり遠ざかる列車のテールを追えば、ありふれた日常から遥か山並の彼方、甲州、信州の地へと誘われます。
三鷹には太宰のほかにも山本有三、森鴎外、赤とんぼの三木露風など文人ゆかりの地があります。
三鷹駅の発着メロディはめだかの学校です。これは作曲したのが三鷹に住んだ中田喜直氏にゆらいします。
駅南口には大型のデッキが組まれ、その一角にジブリの森直通バスの発着場があり国内外からの訪客が絶えません。
風の散歩道をテクテク行くのもお薦め。途中に瀟洒な造りの山本有三記念館があり路傍の石が出迎えてくれます。
俯瞰すれば三鷹は武蔵野市、小金井市、調布市、杉並区、世田谷区に囲まれた武蔵野の自然が色濃く残る地です。
調布方面から北上すると味の素スタジアム、調布飛行場の先にこんもり緑に覆われた東京天文台が現れます。
傍らを流れるのが野川。この辺りから三鷹で、緩やかな坂に三鷹一帯が高台になっていることを知ります。
市中を横切って流れるのは小金井で産声をあげ三鷹で暗渠から姿を見せる仙川です。
野川、仙川は共に添いつつ多摩川へと流れ落ちてゆくのです。
さらに江戸期に用水路として開削された玉川上水。太宰の入水で知られていますが三鷹駅を浮かべて流れる川です。
三鷹駅の下を流れているのです。ならばめだかの学校もあることで駅チャイムがめだかの学校なのももっともです。
それと神田川。井の頭池を水源とする三鷹始発の川です。同じく始発の総武線とはお茶の水付近で邂逅します。
井の頭線に沿って流れるこの川の周りに閑静な住宅が立ち並びます。かぐや姫の歌にある“神田川”はいずこです。
その昔一世を風靡した懐かしき青春ドラマ“俺たちの旅”の舞台もこの辺りです。
さして広くもなく変わりばえもしないかに見える三鷹、そう思いきや川の数だけでも立派なものではありませんか。
三鷹かいわい。少し足を延ばせば知らず隣接の地。この地の魅力は隣接エリアとの往来でもあるなあと気付きます。
三鷹駅の東隣はお洒落な吉祥寺。西隣は憩いの武蔵境。定期券で私が日々訪れる両駅は武蔵野市です。
佳子様の学舎のあることも言い添えておきましょう。と、いうことで THE END です。

皆さんの住む街はどうですか??

あとがき
’16同期会に出席し懐かしき人達と交流を深めた。同時に会を支える人達の奮闘ぶりを目にした。
とりわけ8組で席を同じくした小山氏のホームページ維持管理の労は並大抵のことではないと思った。
HPが会の結束発展に果たしてきた役割は大きい。微力ながらできる事は投稿と賛同者への呼び掛けだろう。
結果は独り合点一人相撲。この間一度投稿しながら取り下げたものを小山氏に促され投稿することにした。

カフェで思う私の来し方その先 湊伸一 2017年1月7日

午後のひとときを過ごすカフェがある。私のメニューはLカップのブレンドにモンブランとヨーグルト。
店に入るとオーダーするまでもなくどうぞと出してくれる。何冊かの文庫本や雑誌、好きなミュージツク、IPADで数刻過ごす。
思う存分羽を伸ばしまた羽を休めるそんなひとときだ。店のイスに腰掛けコーヒーを口にする時ふと思い出す事がある。
そこは行きつけのレストラン。
明るい声で迎えてくれる少女がいた。バイトで就活中。決まるといいね。頑張ります。そんなやりとりだった。
秋深まるころコーヒーチェーンに就職できたと言う。興味津々チェーンの何店かを歩いてみた。
素敵な店だったって伝えると嬉しそうだった。
彼女はバイトを辞め、私は気に入った隣駅のチェーン店の常連になった。それがこの店だ。彼女はどこかの店で働いているだろう。
お店が決まったら教えますねと言っていたその店がどこか知らない。きっと夢と希望を追いかけているに違いない。
店のスタッフに姿が重なる。
たわいもないわけだが居心地の良いここで眠気のさす合間に自分のこれまでのことを思い出しながら書いてみるのも一興だ。
傍らのIPADのメニューから7notesを開きペンを執った。この手書きの電子ノートはパシャパシャ叩くキーボードに比べとても快適だ。
では開始。

このつづら折れをあと何曲すれば峠だろう。森閑たる道は木々に隠れ先が見えない。顧みれば登り来たる道は遥か地平に霞む。
我が歩みもそれに似ている。先は知らぬが目を凝らし来し方を眺めてみよう。
秋田名物八森ハタハタ男鹿で男鹿ブリコ とは秋田音頭だがこの八森が出生の地。
さかのぼれば3歳位のこと、誰かに握らせてもらった凧の糸が日本海の浜風を受けて強く引かれる感触と飛ばされまいと
必死に身構える自分を覚えている。擦れがすれの記憶の一片だ。
その後県南は矢口高雄の釣りキチ三平で知られる成瀬川沿いの吉野という処に移り小学校に上がるまで過ごした。
西成瀬小学校に通う2歳上の姉がいて増田の幼稚園児だった私はよく寄り道した。先生の粋な計らいで作ってくれた後ろの席に
神妙に座って姉の帰りを待った。通ったバスの窓からハンカチをつまんで風に吹かれるさまが面白く何枚も空の彼方に飛してしまった。
秋田の冬はことのほか寒い。部屋にはストーブが赤々と燃えている。
その側で三輪車もろとも転び頬をストーブにぶつけてしまった。とっさ母は熱冷しに擂ったイモを頬に当てがい
白い布で顔をくるみ私をおぶると医者のもとに走った。この母の機転で私の頬には火傷の痕が残らずに済んだ。
小学校に上がる少し前、父に連れられ東京へ出て来ている。吉祥寺に当時佐藤栄作に師事し代議士をしていた祖母の弟がいて
国会に連れて行ってもらい赤絨毯を踏んだ。佐藤内閣では郵政次官だった。子供の無いご夫妻は私を養子に望んだが父が断った。
もし実現していたら別の形で皆さんとお会いしたかも知れない。

小学校は県北、ハチ公の秋田犬で知られる大舘からずーっと山あいに入った処にあった。比内地鶏を知っておられようか。
その比内町の立又だ。街が姿を消してから久しく現在その辺り一帯は土くれと草に隠され学校跡の石碑が立つのみだ。
ここで小学校4年の1学期まで過ごした。私にとってメルヘンの世界だった。
山ひだから幾筋もつたい流れる沢にはカニや鰍がいて年中水底を覗いていた。
少し道から入ればアケビや山ブドウ山菜はいくらでも採れた。秋、野山は錦繍に染まり冬、辺り一帯を雪が埋め白銀の世界に変わる。
40年振りの盛夏、一本の林道を踏み分けてこの地に立った。見渡せばぐるり囲む山の稜線は少しも変わっていなかったが
縦横に走り回った道に迫る藪には一歩も踏み入ることが出来なかった。もはや胸に抱いた世界は遠い昔日のことと知った。
だが秋田の山河が私の揺りかごであるのは変わらない。また累代の祖の眠る地でもある。
わが祖先は平安中期東北に盤踞した安倍貞任に行き着く。源頼義に厨川の戦いで敗れ一族は四散した。前九年の役として知られる。
安倍首相が宗任が先祖だと言っている事を何かで知った。貞任と宗任は兄弟だ。こんな縁も有る。
大正の頃までは素封家として知られ曽祖父は郡会議長を勤め祖父は早稲田に学んだ。その後衰運に遇い没落したと家史にある。
家屋は乗江院というお寺の本堂になったらしい。その豪壮雄大なる建築たることを知るべしとある。
祖母の生家は今も続く造り酒屋で兄弟にはドイツ留学の医学者がいたと聞く。学者一家としても知られていたようだ。
なに不自由なく育った祖父と祖母。だが二人は郷里を抜け駈け落ち同然に八森に居着いた。
何もかも捨てた二人の絆、熱情、町役場に勤め背筋をピンと伸ばし物静かに座る祖父からは想像もできない。
その祖父が秋田市に住む母を父の嫁にと足繁く訪ねたという。嫁は金のワラジで探すもの、とは祖父。
母には別の縁もあったが零落したとはいえ湊家は知られた家だからきっと良いことがあると母親に諭され嫁すことになったらしい。
その実、根負けしたのかも知れない。

3人の男子の次男として育った父は祖母にことのほか可愛がられたようだ。父はバスケで知られる能代工業の出身でバスケ部だった。
筋骨隆とした男前?の写真が残っている。その父が結婚に当たり付き合いのある女性と生木を割くように別れさせられた。郷里を捨
て真を貫いた祖母だが息子には許さなかったのだ。だが狭い町でお互い顔をつき合わせることも多い。そう簡単に事は終わらない。
母の苦悩は後々まで続くことになる。長兄は建築家として地歩を築きつつあったが早逝した。
そして祖母の意に染まず籍に入ることさえ許されぬ母娘が残された。私が父と東京に出たとき一緒だった。
北海道に住むと聞くが消息は定かではない。再会が叶えば60年余の歳月を超えてのこととなる。
末弟は母によればブロマイドばりの美男子で姉さんと慕い何かとかばい支えになってくれたという。
当時胸を患う女性と悲恋の中にあり自身も病魔に蝕まれ闘病生活を余儀なくされた。師範学校を卒業し後に校長県教委を務めた人だ。
苛烈に聞こえる祖母だが最も愛した第一子を幼少に失くしている。また殿様然とした祖父だ。
力仕事から何から髪を振り乱し身を粉にして働きづめだったようだ。時に母の髪を掴み引きずり回したという。
気性の烈しい姑だがカラッとした性格だったと振り返る。
祖母も身を揉む思いで生きた人生だったのだろう。業を生むのは時代なのか人なのかとの思いだ。
さてここ八森の住友金属鉱山が経営する発盛鉱山が父の勤務先だった。秋田を転々としたのは父の鉱山勤務のためだ。
立又鉱山を最後に退職した父は秋田市に出て鉄工所を始めた。話を聞けば父は願望と現実をゴッチャに語り
母の親兄弟親類縁者はてんてこ舞いだったらしい。ここを工場にしたいと言うので母の兄が土地の持主に掛合い顧みて父に問うと
どうやらお金は無いらしい等々。それでも市内でも指折りの機械工場の一角を借りて仕事ができる運びになった。
だが父は地道に続けることができない。
あげく稼いだ金を持って温泉場などに繰り出す。結果家族は悲惨な憂き目をみる。賃金未払いの職人が押し掛け母を責め立てた。
そうこうしているうち父は姿を消した。やむ無く一家は秋田を出奔し一旦バラバラになりながら東京に出る羽目になったのだ。
小学校は市中で2度変わり転居は5度。友と親交を深める間もなかった。

無事3年間を過ごした中学時代は置き捨てるように去ることになり封印した。
だが東京オリンピック聖火の伴走を務めた事、懐かしい恩師、友垣、この時期身に覚えのある御仁も多かろうが
目さえ合わせられぬ君もいたのだ。胸をつくものがある。私は秋田高校のはずが宇都宮、大泉と流れ着いたのである。
姉は秋田に残り母と弟は名古屋に向かった。

宇都宮に行ったのは叔父の熱心な勧めだ。自身恵まれぬ境遇で苦学の末大学を出、自衛官として後に連隊を率いた方だ。
宇都宮高校の素晴らしさを説かれ是非にと勧められた。宇都宮高校は男子校でゲタばきのバンカラ精神を旨とする。
県下のナンバースクールで街を歩けば敬慕の視線を受けるのだ。謂わば小紳士だ。ある朝支度が遅くなって通学のバスに乗った。
バスの行先は途中までだ。このままだと遅刻する。すると運転手さんが学校まで送って行くと言う。たった一人の送迎バスだった。
バス通学中カバンが引っ張られ、見ると女子生徒の膝の上にあった。私にとっては佳き日々であった。
だが官舎は狭く幼稚園小学校に通う2人の男の子がひとつ部屋にひしめくようにいて好意に甘えてばかりもいられなくなった。
集中力を失しない何も頭に入らない自分を情け無く思った事もある。時折訪ねて来ては妹の叔母と話し込んでは泣いている
母の姿を幾度も見た。自然、どうにかしても東京に集まろうとなった。
後日、叔母の話だが数学の先生が湊の授業料は倍だなと言っていたと聞いた。私は先生を追いかけるように質問をぶつけていた。
生物の先生が学年トップのT君(その後東大医学部)はその日習った事を復唱し終えるまで家に入らないと言った。
私はあやかって先生が黒板に書いた事を全部時間中に覚えようとした。これは疲れたし長続きもしなかった。
秀才は違う、身の程を知るというものだ。秋田では勉強と言えば試験前の一夜漬けだったが宇都宮では先生の存在が
私の向学心を駆り立てた。弱点だらけの私はそれを克服する度に着実にステップアップし学ぶ面白さを知りつつあった。
去りがたい思いが同居していたのも確かだ。

大泉に移って大きな変化は先生を見失ってしまった事だ。素晴らしい先生方が揃っているにも関わらず私には遠い存在になった。
卒業まで担任だった乙黒先生は私が興味の持てない化学の先生だった。
大泉時代はかぐや姫の神田川ならぬ西荻窪のアパート4畳半ひと間の暮らしで一歳下の弟との自炊生活から始まった。
コロッケ一個10円、豚コマ100g35円だったと思う。ご飯を炊いてキャベツを刻んでお味噌を溶かした鍋ものを作ったりして食べた。
名古屋の母が合流するのはずっと後だ。西荻から見れば大泉は遠い。荻窪に出てはるばるバスに揺られて行く。
雨の日は田舎でもあまり見ない泥道をハネを上げながら行く。もっと近くに豊多摩高校があった。
しかしその受験の前に大泉の入学金1800円を払わねばならない。払わねば取り消すと聞いて意を決した。
落ち着いたところで友達を作るには部活だと野球部に入りほぼシーズンオフの間在籍した。
何らチームに貢献出来ないのに下級生部員から先輩と言われるのはこたえた。ウサギ跳び、真っ暗な中でのボールとの衝突、
爪先立ち歩行、一試合一回だけ守備で出て痛恨のエラーが全てだ。この爪先立は身について今も自然切り替える。
大泉生活は楽しんだが学業を含め中途半端なものになった。授業を聞いても耳に入らず黒板もあまり見なくなった。
そんな中だが取り組んだことがある。英単語を覚えることだ。3年の夏休み1日500語づつ10日間で5000単語になった。
しかし中学以来の英語の酷さを克服するすることにはならなかった。中学の英語の先生は米軍上がりだと称して
ムチを鳴らしては生徒を叱ってばかりいた。私はこの時点でリーディングも文法も全くおろそかにしてしまったのだ。
今でも文法はからきしダメなのだ。英語の楽しさが学べたら良かったと後悔しきりだ。当然の如く一浪の憂き目をみる羽目になった。
もとより私立、遠地の選択肢はない。予備校にも行かなくていいさと勝手流で過ごした。能率も何もなく彷徨っているだけだった。
安直な気持で入った大学には直ぐ興味を失ないアルバイトに精を出し、あげく退学を決意した。
皿洗いをしながら聞いた曲、有線で繰り返し流れていた ミッドナイト東京 今聞くとほろ苦い。
私は大学の意味をちっとも理解せず見誤っていたかも知れない。だが後悔はなくその時私に大学は必要なかったのだと思う。

しかして私は2歳上の人達と一緒に就職試験を受けて社会人となった。そこはカリスマ社長が経営する調査会社だった。
何故応募したとの問いに コンピューターがあるのを見てと応えると現場を知ってからにせいとなった。
当時はコンピューターのあることが大きな宣伝文句だった。相手をしていろと愛人の預かり役を命じるなどは
剛腕でなるワンマンならではだ。EXPO70の調査取材の仕事に加わり期間中毎日のように入り浸る事ができたのは
願ってもない体験となった。面会調査中うちに来ないかと誘われることもあった。
面白い会社だったがモンスター化した組合のせいで会社はあえなく潰れた。私もロックアウトだとか仲間と共に息巻いていた一人だ。
公私共に信奉する先輩がいて、おう、何時でも電話しろと言う。真に受けた私は真夜中の2時に電話したら母上が出られて
こっぴどく叱られた。先輩はニヤニヤしていたがその先輩も失った。

ここから派生した会社に呼ばれ参加した。受注した仕事が調査データをコンピュータ集計しレポートするもので1週間後が納期だった。
入門書を片手に見よう見まねでプログラムし何とか間に合わせた。これがコンピューターを生業とするきっかけとなった。
マーケティングの分野では因子分析だとか数量化理論だとかワクワクするほど面白く夢中になったものだ。
世界に雄飛する企業の新人研修で講義する機会を与えられた。向こう見ずだが何者にも突き進む自分がいた。
その後銀行のビジネスシミュレーション開発スタッフ募集の広告を見て応募し採用された。
米国シンクタンクのレポートを元にプログラムした。バンカーが数チームに分かれ企業経営を模擬するパラメータを決定し
競い合うというものだ。この仕事を通じ財務諸表をコンピューターと結び付けて理解できた事は後々まで役立った。
しかし不沈に見えたその銀行はあろう事かバブル崩壊の渦に巻き込まれ姿を消した。コンピューターと言えば汎用コンピューターの時代。
際どい事もあった。某研究所の地震波解析のレポートを徹夜明け早暁書き上げた。全身に安堵の気持が湧いた。
忘れられないその日は私の結婚式当日だった。一路式場に駆けつけた。部屋一杯にドンと置かれたコンピューターの空調が壊れ
ドアを開け放ち何台も扇風機を持ち込みダウンせぬよう祈りながら使い続けた。さながら巨大な電熱器のごとくだった。
またとある研究所のバイト仕事で夜間門塀が閉まってから守衛さんの目を盗み闇夜に乗じ塀を乗り越えコンピューターを
使わさせてもらった事。口外すまい事等々。

そんな事柄をしり目に時は移りやがてパソコンの台頭が始った。当初は一つ一つの処理に結構な時間が掛かりコンパイル中で
他の用を足しデータコピー中で他の用を足すと言う間延びしたものだった。しかしみるみる進化し千万を超えるオフコンの
ビジネスシステムが百万程度のパソコンで実現できる事が見通せるようになってきた。
だが名だたるディーラーはマージンの良い前者を売ろうとする。このため商談は成立しない。
自力で見つけたユーザーで実証する機会を得た。このことは私に独立の気持をもたげさせた。
そう思えば矢も盾もたまらずたった一人の会社を設立したのは平成2年秋だった。40歳を越えた頃だ。
徒手空拳、売上見込み無し。有限会社でまともな会社に相手にされるわけはない。無謀だったが気力は横溢していた。
新幹線に飛び乗り仙台のとある企業のオーナー社長を訪ねた。社長は独立おめでとうとその場に担当者を呼び仕事をくれたのだ。
仕事第一号、嬉しさが体に溢れた。その後随分可愛いがってもらった。それにしても一人で営業し設計し製作し機材を調達し
設備して…とやりくりしなくてはならない。吹けば飛ぶ会社だが経理は知人の公認会計士に見てもらっていた。
車の後ろに秋葉原で現金買いしたパソコンや機材を積んで千葉だの福島だの出かけた。

ちなみに福島は原発事故以来封鎖されている大熊町の病院だ。仕事で寝泊まりのことも多く親身に世話になった大勢の
職員の皆さんがいる。なにせ朝食から寝具の賄いまで世話になる。電車で駅に着けば車で迎えに出てくれていたのは
卒業入所以来を知る家に帰れば元気ハツラツの若奥さんだ。お土産に山菜や時にシイタケの木など貰ったりした。
私は訪れるたび童謡に歌われる里山があるとしみじみ思ったものだ。皆皆散り散りになり今何処でどんな暮らしをしているのだろう。
胸が痛む。私の作ったパソコンシステムはあの日以来眠っている。

私の身上は即断即決直ぐやるだ。今行きます。今直します。それはいくらで何時まで出来ます。これは喜ばれたし他の追随を許さい。
人を雇う気は無く会社の拡張は考えないが時間はあった。何より自由があった。システム作りの定石に縛られず、どうすればいい?
と気が済むまで考える。その場所は河原だったり公園の芝生の上だったり。
90年代後半、大手流通チェーンの大商談会は2日間ホテルホールを借りきり行なわれる。
懇意の社長がこの組織の有力者で売上拡大を支援するシステム化は待ったなしだとして打診され引き受けた。
パソコンネットワークを組み100億にのぼる売上の速報システムを実現した。それまでは手集計で1週間後の概報を待つしかなかった。
開発費は勿論、機器はレンタル人手は派遣と極めてローコストなのだが処理速度は絶対の自信だ。
OCRで会場から上がってくるデータを読み込み、数人のオペレーターがただちに補正すると売上総額、明細が表示される。
役員さん、エラいさんが引きも切らずに見に来る。目標に届かない場合は担当が商談促進に各所を駆け回る。
私もパソコンも何かあったら大変だというので豪華ルームが割り当てられた。今は当たり前だがパソコンのネットワーク分散処理は
当時極めて斬新な取組であったのだ。その後数年して運営責任者が変わりコネを持つ大手メーカーの手が伸びこの仕事を奪われた。
むべなるかなである。社会的影響を考えれば何時消滅するか分からない個人企業の仕事ではないのだ。
お前が死んだらどうするとはよく聞かれたがそう言われつつまた呼ばれるのだった。

海外にはとんと縁の無い私だったが一度だけチャンスが巡って来た。お客先の事を考えれば長期に不在は許されない。
どうにか了解を得てロシアのウラジオストクへ赴いた。チームでの私のミッションはパソコン設営のコンサル。
10日ほど滞在したがそこはまるで別世界だった。もとより軍港のある特殊性も帯びている。
宿泊したホテルでは深夜官憲がドアをドンドン叩いて誰かを捜しに来た。窓外では喧嘩だろうか怒鳴り合いが聞こえる。
ロビーに出ればソファーにもたれる妖しい女性の群れ。おちおち寝ていられない。
レストランのメニューはまるでわからないから当て推量だが何をどう間違っても安いものだった。
凍てつく道路は信号無視や路地から飛び出す車など現地ドライバーの手腕に託すしかない。
愛嬌なのは日本の八百屋や魚屋などの屋号をそのまま付けた車が走り回る光景だった。
此の地はエネルギッシュな人種のるつぼなのだと強く感じた。街にはキヨスクが立ち並び朝鮮もしくは中国もしくは中東人?とおぼしき
人々が商魂逞しく息づいているのだった。この出張期間、国際電話オペレーターだった家内から何かとアドバイスを受け助けられた。
この頃彼女はロシア語に熱心でロシアの友人を家に招いたりしていて後に一人旅行もしている。

もう一つの事例。それは未明の電話から始まった。 湊さん助けてくれ 十数年ぶりの声の主は独立する前に可愛がってもらった
ドラッグチェーンの経営者の方だった。かつて諸氏居並ぶ中で俺の言うことが分かるのは湊さんだけだとおっしゃってもらった事がある。
切迫した声が伝えたのはコンピュータを切り回していたご子息が急逝され重要データが入ったパソコンのパスワードが判らず
開けなくなったと言うのだ。メーカーに相談したがらちがあかないと言う。訪ねるとご子息がだましだまし使っていたという
ポンコツ寸前のオフコンもハードディスクの劣化が激しく何時パンクするか分からない有様だった。
私はパソコンは分解しデータを取りだすことにしオフコンはパソコンネットワークに入れ換えることを提案した。
さらに20店舗のレジと連動させる。社長は業界誌に執筆もし流通の賞を貰った事もある方だ。
社長の考えるところを咀嚼しシステム上に実現した。これだ、こんなデータが見たかったと大そう喜んで頂いた。
日々使い続けるシステムを切り替える。これはあたかも動き回っている人を手術するのと同じだ。
資金が潤沢にある大手のシステム作りとは訳が違う。時間も人手も金もない。平行処理等悠長なことは言っていられない。
常に私に付きまとってきた課題だ。オペレーターが混乱しないように見かけの操作は同じだが中味は一新され処理スピードはケタ違いだ。
何十分も掛かっていた処理が数秒で終わり皆息を飲む。様々なテナントに入る20店舗のレジ入れかえ。これを一人で行なう。
常識ではありえないが何もかもの信頼を私に託した社長があったればこそだった。

しかしこうしたお客先のリクエストに応じるシステム作りも変わっていかざるを得ない。
時代はバブル崩壊と失しなわれた20年へと続く。お客先の疲弊はありありで大手の参入もなりふり構わないものになってきた。
仕事を奪われたり約束のマージン支払いを反故にされる事が続く。オーダーメイドシステムは廉価なパッケージへと急速に移行し始めた。
こうしたおり一千万の売掛金の焦げ付きが生じた。百万位の回収不能は幾度かある。こうなると仕方がない。
これを機に自分の旗は下ろし親交のあった社の経営に参加するようになった。50代半ばのことだ。
その後インターネット、クラウドと続く流れは私がもう一度生まれ直さなければならない。
何にもテンプレートがありオリジナリティは薄れていく。同時に興味も薄れていく。

その頃次第に老いゆく母が気になるようになった。ことが起きれば仕事に支障をきたす。ビジネス界から身を引く事を考えだした。
お客に周知し後継者に託すには時間が必要だ。実際離脱できたのは65歳だ。
最後となった仕事は何の因果か家内が勤める会社の顧客先の業務用携帯ネットワーク運用システムの仮想サーバー化だった。
面白いものでたまたま仮想サーバーに興味をもちWindowsだのLinuxだの放り込んで遊んでいる時に飛び込んできた仕事なのだ。
その後再三復帰の要請を受けるが要介護の段階に入った母の事を考えれば無理だ。
ある時母がポツリと呟いた ばかくさい その言葉がずっと耳に残っている。
父は40年余り共に暮らした女性に看取られ89歳で逝った。母は父が騙されやすい人だったと口にするが父に翻弄され
騙されたも同然なのは母の方だ。母は私達を育てるため工事現場で働らくこともあったし仕事の掛け持ちもしていた。
女性は男性と比較にならないほど強いものだと母を見て知った。苦労を重ねた母だが周囲には何時も心温かい人々がいた。
母は若い頃南京司令部に勤務したが同じ司令部に三笠宮様がおられた。宮様を囲む会は後々まで開かれ幹事の方からは
いつも声をかけて頂き欠かさず出掛けていた。住む世界がまるで違うが身近に接して頂きダンスのお相手をしたこともあるそうだ。
母のフォトアルバムを見つめ宮様の深い慈愛を思った。母に大泉の集りがあったよと話すと身を乗り出して話を聞く。
そして何故か花崎先生を覚えている。そういえば花崎先生がかつてお会いする度お母さんどうしてると私に聞くのだった。
担任でもなかった先生だが私共を心より心配して頂いたのだと思う。今更ながら何も知らず何も応えず過ごしたのが心に残る。

3人の子供のうち姉は30代半ばで病没している。この時母の白髪は一挙に増えた。
小学校では総代に選ばれ作文展に入賞するなど聡明な姉だったが多感な時期に置かれた困窮した生活の
一番の犠牲者だったかも知れない。西荻のアパートは余りに狭く姉は飛び出して行ったきりだった。母の悲嘆は長く続いた。
弟は医師になり周りの人はそれ故母のことは安心だと言う。だが人の関係は理屈ではない。
弟の存在は心強く助けになるが私に縋り付く母の心情が愛しくそれは一縷の青さを残す枯草が大地にある様に似て
私は母の大地たらんとするのである。立派そうだがそうではない。母のことがなければこの生を持て余すだろう。
母に感謝しなければならない。自分勝手な生き方についてきてくれた家内にも感謝しなければならない。
畳に額を擦り付けきっと幸せにしますと言って今は亡きご尊父にお許し頂いた後は放っておいた気もする。
だがゴロゴロしている様子は不幸ではないようだ。どうにか許してもらえるだろう。

男女女の三人の子供は其々社会人として自立しているが適齢期を越えてまだ独り身という怠けぶりだ。
だがこちらもいずれ可愛い孫を見せてくれるだろう。楽しみは先にとっておくものだと気楽に構えている。
私は学歴に無縁に生きることができたが子供らには大学院まで学ぶ機会を与えてしまった。結婚しない所以だろうか。
子供のころゲームに熱中した長男はポケモンGOで話題になった社の中堅技術者として今はゲームを作る側だ。
娘2人は埼玉の地場の会社に勤め生々働いている。

今私は三鷹に住むがそもそも三鷹にマンションを買ったのは家内が出産で里に帰っている間だった。
当時国分寺最寄りの小平市に住んでいた私は暇にまかせて不動産の店を覗いてみた。するとたちまちあちこち案内されて
その気になってしまった。その時新聞の折り込みパンフを見て現地に行った先が三鷹だったのだ。
こんな良い物件は滅多に出ないという営業マンの口車に簡単に乗せられた私は家内に、
考えてる場合じゃない今しかないなどと迫って買ったのだった。この後暫く山のかみに頭が上がらなくなったのは当然の成り行きだ。
だが性懲りもなくというか次子出産のおりは大枚をはたいてカメラやレンズを買いこんだがこちらは内緒だ。
その後バブルが急速に進んだ。いずれ手狭になる2LDKに対し子供の成長を見越し確保したい広さの物件はどんどん値上がりする。
世を挙げて不動産ブームだったと思う。打った手は子供部屋のつもりのワンルーム購入だった。2戸ほど近くに買った。
売り出し時の倍の価格だった。お隣の奥さんは子供達3人のピアノの先生だったが暫くして郊外に引越した。
その隣室に移り住んだ。3LDKの広さに変わった。そうこうしている内バブルは崩壊、3戸のマンションのローン返済が
重くのしかかってきた。お隣のご主人は国学院久我山の先生だったが奇しくも中高と3人の子達は揃ってそこに
お世話になり一時期は3人同時に在籍した。揃って自転車通学だった。長男が授業料免除の成績だったのを
先生が下の娘たちによく話すものだから大層厭がっていた。その後順に私国私と進学した。
教育費。これはまたばかにならないものだった。国立もちっとも安くはないように思った。共働きの妻の助けで何とかしのいだと言える。

同時代に生きたものはバブルが尾を引くなか大なり小なり住居費と教育費この2つの大きな荷を背負って歩んだのではないだろうか。
わずかな時期の違い、やりようで大きく明暗が分かれる時代でもあったと思う。ワンルームは現在いかばかりかの賃料をもたらす。
手こずった分私のメモリアルで業者は今売らないと損すると常にうるさいが価格はジェットコースターだ。アホクサと手持のままだ。

ともかくようやく下ろした荷に代えて今は温かみを感じながらおぶるものがある。母だ。比喩ではなく実際疲れた母をおぶることが増えた。
母におぶられた記憶が甦る。一つは先に触れた火傷の時。一つは小学校の運動会。親子競争で一等だった。
思わぬ母の健脚には驚いたしチョッピリ誇らしかった。90を越え記憶の衰えが目立つ母だが今なおスクッと立つし可愛い笑顔だ。
錦糸町に独り住まいする母を訪ね掃除洗濯お風呂の世話等をし一緒に住もうかと声をかけるが友人に囲まれた
今の場所から離れがたいようだ。そんな母に私はスカイプで何時でも話かける。海に行けば海を山に行けば山を見せる。
隣にいるのと同じだ。便利なツールだとつくづく思う。他に見守りカメラ、GPS携帯など重宝だ。

父のことは悪しざまに書いたがあくまで母を擁護する立場であり私個人としては何ら意趣を含むものはない。
幼少の頃は父親っ子ですらあった。母を守らなければならないと意識したのは成人してからだ。父には父の言い分があったろうが
己の生き様を通したのであれば言い訳など無用だ。激しく父を詰問したことがあった。
何か言いかけたが口を閉ざした父の目は弱々しかった。老いてからは無心に接した。

長たらしくなったが思い出という井戸は掘れば掘るほど湧き出すものらしい。ともすればありし日に彷徨うかのようだ。
ひとまず止めにしてこれから先の事に頭を切り換えよう。
さてカフェの外に目を移せば人々が思い思いに通り過ぎていく。人は皆向かうものを持っている。
カフェで働くスタッフの子がニコニコしながら言う。今度卒業です。ここにもまたひとり。
向かう先に見るものは、私もあらためて気付かされる。ささやかでちっぽけなものだが私もそうなのだ。
形は様々だが人が先に見るもの、それは夢と希望なのだ。

日本人がカリフオルニアで造る「まぼろし」ワイン 後藤和光 2008年8月7日 

大阪で生まれた私市友宏(きさいちともひろ)さんが、家業の酒販売に飽きたらず「本当のワインを自分で造ってみたい」と、
アメリカ人の奥さんレベッカさんと当時4歳の娘と一緒に、いきなりフランスに飛び出したのは湾岸戦争最中の1991年でした。
両親・友人達は「そんな夢まぼろしみたいなことを・・・」と猛反対したそうですが、コネがなかった私市さんは夢の実現のため、
ブルゴーニュの醸造元を一軒一軒訪れ、5軒目のジュヴレー・シャンベルタン村のドメーヌ・アルマンルソーのオーナーに雇ってもらいました。
そこで一年間葡萄の摘み取り方やワインの瓶詰め方法など、ワイン作りの基本を身につけた私市さんはアメリカへ移り、
カリフォルニア大学デービス校で奥さんと一緒に醸造学の勉強に励み、苦労を重ねてソノマ地域のセバストポールという町の南に
12エーカーのワイン畑を求め、1999年に初めて造った自分のメルローワインを、「まぼろし」というネーミングで世に売り出しました。

2008年5月22日、私は東京のあるホテルで開かれた「まぼろしワインの宴」で、私市友宏さんと親しくお話する機会に恵まれました。
「うちのカミさんが作ったワインです」と、気さくな言い方で「レベッカ」と名がついたピノノワール(注:ピノノワールというブドウ品種で
作った赤ワイン)を紹介してくれました。この仲が良い夫婦の間には、音楽家を目指すお嬢さんとスポーツに夢中な息子さんがいるそうですが、
二人とも両親の仕事は継ぎたくないと言っているそうです。「え、どうしてですか?せっかくのファミリービジネスなのに?」と私が聞くと、
「小さい頃から畑で一緒に働かされたので、嫌になったみたいですよ」と、苦笑いしながら私市さんは答えてくれました。
因みにレベッカさんが留学生として大阪で日本文学を研究している時に二人は知り合ったそうです。
「だからいまでもカミさんの日本語は関西弁ですよ」と、私市さんは笑って語っていました。

圧巻だったのは「まぼろしピノノワール」の垂直テイスティング!(注:同じ銘柄のワインで年代が異なるものを飲み比べること)
「2004年、2005年、2006年と三本並べて飲み比べました。「うちの畑のブドウは、かすかなハーブの香りがするんです」と
愛おしむようにグラスを回して香りを確かめ、「2004年は初めて作ったピノノワールなんです。
2006年はまだ現段階ではちょっと早いですかねぇ〜」と勧めてくれました。私は2005年物が一番良いような気がしたので、
「スミレの香りがしますね。同じ新大陸のピノノワールワインでも、ニュージーランド物に比べるとタンニンがしっかりしています。
バランスが一番良いのは真ん中の年だと思いますが・・・」と感想を述べました。私市さんは頷きながら、
「カリフォルニアでは面白いことに奇数年は出来が良いんですよ。緯度が違いますのでニュージーランド物みたいな
冷涼感はないと思いますが、私はブルゴーニュのピノノワールワインを目指しているんです。アメリカ人はどちらかというと
トロピカルフルーツのような感じのワインを好むんですが、私はピノは花畑の香りがして味はスキっとしていながら、
しっかり骨格があるものが良いと思います」と、解説してくれました。

それにしてもワインのこととなると、どうしてこう話が弾むんでしょうね。アンリ・ジャイエ(注:フランスブルゴーニュの
著名なワインの作り手)がこう言っていたことを思い出しました。「ワインは人の心を通じ合わせてくれるのだから、
一人で飲んだりしちゃ行け ないよ。テーブルに水しかなければ、政治の話でもすればいいだろう」うーん、
まさに至言ですね。  (2008年8月7日  後藤和光)

レベッカさんと私市さん 幻ワイナリー入り口 私市夫妻が作ったワイン

『偽名・ペンネーム』 後藤 和光 2008年4月16日

関連業者から費用丸抱え旅行や二百回以上のゴルフ・賭麻雀接待を受けながら、国会証言で「便宜供与は一切なかった」と開き直り、
昨年逮捕された守屋前防衛次官の言葉を、誰も信じるはずがありません。だって何の見返りも求めずに十年以上も関連省庁の
役人の接待を続ける民間会社なんて常識では有り得ませんし、百歩譲って守屋前次官の言う通りだとしたら、
それだけ接待されても「便宜を図らなかった」恩知らずの男を、十年以上も接待し続けたその関連業者の担当者は余程のバカで、
とっくに左遷されているはずです。

人は後ろめたいことをする時、身分を明らかにしたくない時に本名を隠すようです。皆さんも不倫相手と温泉旅行をする時、
宿帳に本名を書きますか?(笑)
上記元防衛次官守屋武昌(もりやまさたけ)氏は、供応を受けていた業者とゴルフをする時は、佐浦丈政(さうらたけまさ)の名で
サインしてプレーしていたそうです。「佐浦」は彼の母親の旧姓だそうで、「丈政」(たけまさ)は「武昌」(まさたけ)の反対読みと考えると、
呆れるほど単純な偽名だと思います。

それに比べると作家のペンネームは、蘊蓄やユーモアが有って面白いと思います。
大正昭和期の推理作家平井太郎(ひらいたろう)は、アメリカの推理小説家エドガー・アラン・ポーEdgar Allan Poeの名から
ペンネームを江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)としました。麻雀狂だった作家色川武大(いろかわたけひろ)は、
「朝だ、徹夜(麻雀明けだ)」から、ペンネームを阿佐田哲也(あさだ・てつや)にしました。
また岩田豊雄は百獣の王「獅子」、「文豪」(文五)を上回る「文六」に引っ掛けて、「獅子文六」(しし・ぶんろく)としたそうです。

『食べるということ』 後藤 和光 2007年5月1日

「食」という文字は「人を良くする」と書くことから、「食べる」ことは単に身体を作り健康を保つだけでなく、
心を育てることで、その結果性格にも影響します。偏食な人は偏った性格が多いと昔から
よく言われていますが、最近の日本の食事生活を見ているとすぐにキレたりムカついたりする子が
多くなったのは、家庭の食生活に問題があるのではと思えて仕方ありません。
現代の子供の食事スタイルは次の様に分類されるそうです。

(1)個食・・・家族それぞれが自分の好きなものをバラバラに食べる
(2)孤食・・・両親不在で子供一人でポツンと食事する
(3)子食・・・コーラ、ハンバーガー、菓子パンなど柔らかいものだけを食べる
(4)小食・・・ダイエットのため無理して少ししか食べない
(5)庫食・・・食卓に並ぶのはチンした冷蔵庫のレトルト食品 。

確かに家族揃って食事をする家庭が減っていますし、出来合いの総菜で済ませてしまう傾向は否めませんが、
お袋の味がマクドナルドのフライドポテトというのでは寂しいかぎりですね。

家族揃っての食事は会話もはずんで楽しくおいしいものです。「いただきます」で始まるのは、食事は生き物の命を「いただく」ものだから、
おろそかにしないことと感謝をこめて「いただきます」と言うのです。そして食事の最後は「ごちそうさま」で締めくくりますが、
この「ご馳走」は本来はもてなすための準備で走り回ることを意味しますから、食事を準備してくれた方に対する感謝の気持ちを表すものです。
母親は仕事のために子供を保育所に預け、大きくなった子供は塾の帰りにコンビニで買った食べ物を食べ、
父親は会社の同僚と夜遅くまで飲み歩き、たまに家族揃って食卓についてもTVを見ながら各人勝手に黙々と箸を動かす家庭が
増えているようです。「いただきます」と、「ごちそうさま」を言わなくなった日本人は食事毎に感謝する習慣を忘れ心がすさみ、
そういう家庭に育った子供達はまた将来同じような味気ない食生活を続けるのかと思うと、とても寂しい気持ちになります。
「食べること」は「人を良くする」こと、舌だけでなく心全体が幸福になることです。もっと大切にしなければいけませんね。

正月の習慣  土肥暁美 2007年1月11日

さて年賀状も毎日数枚ずつ頂き、文面から沢山の方の元気を頂きました。初夢も見ました。起きた時良く覚えているくらいですから
余り良い夢では無かったです。7日過ぎて松も取れ七草粥をいただきました。御供えもそろそろ黴がきて鏡開きをしてお汁粉でいただきました。
三が日は好天でしたが、遠出せず家でセーターを1枚編み上げました。本当に静かなお正月でした。
街は福袋を買い求める客で大騒ぎとニュースが報じていました。初詣の映像より取り上げ方が大きかったですね。
まるでお正月の恒例行事化しています。
処で、我が家はシンプルですが標準的な門松を立てます。ご近所は10軒中2軒だけでした。一昔はどちらの家々にも門松がありました。
そういえば子供の頃には日の丸の旗も掲げられていましたね。もう随分前から見ることがなくなりました。
今でも路線バスの前にはクロスして飾られているのでしょうか。日の丸といえば卒業式などでのあり方が話題になりますが、
そういうことより率先して個々の玄関に日の丸を飾ろう!なんてことは頭に浮かばないのかしら、と思う昨今の正月です。

「昨日・今日・明日」  後藤 和光 2006年8月5日

 昔大泉高校があった

「昔都立高校があった」(奥武則著:平凡社)を読んで、1967年に学校群制度が
導入される前の<大泉高校>の良さを知っている私は、学校群制度という愚行がそんなにも
易々と実現化してしまったのか、と無念な気持ちで一杯になりました。
同書によれば、定年直前の東京都の一教育長が「現在の高校制度は入試中心のゆがんだ教育であり、
出来る子も出来ない子も差別なく受入れることが民主主義であり、学校間に格差があるのは誤りである」
とぶちあげたのが発端だったそうです。朝日・毎日・読売といった大新聞が「そうだ!そうだ!」と
提灯記事を書いて煽り、たった三ヶ月の形式的審議で決定し翌年の三月から実行したのが、
志望校選択を認めず成績順に機械的に入学校を割り振るという、生徒の気持ちを無視した乱暴な
「東京都学校群制度」でした。

それからの都立高校は凋落の一方で、平等・格差解消を錦の御旗にしたものの現実には学力上位者を
私立校へシフトさせ、小学校から塾に通わせて中高一貫教育の私立学校に入れられる家庭の子しか
東大に行けなくなるという、皮肉な結果をもたらしました。その愚に気が付きようやく
1994年に学校群制度を廃止したのですが、
失われた
27年は甦るわけが有りません。どう逆立ちしても『日本のトップ企業で活躍する元野球少年や、
ピアノの先生をしている音楽部のマドンナも、落第スレスレのエレキ・デンデケデン野郎も皆同じクラスで、
名物先生の授業や体育祭を楽しんだ、個性豊かで楽しかった<あの都立高校>』は、もはや戻って来ないのです。

 今大泉高校が甦った

3年前の秋に突然、原宿で紅茶店「クリスティー」を経営する宮本正信君から
「また一緒に
PPM(ピーター・ポール&マリー)を歌おうよ」という
電話がかかってきました。中学校からビートルズに熱中し、
高校・大学とバンドを続け、卒業後も音楽関係の会社に勤めて
ギターを片時も離さなかった宮本君と違い、私が再びフォークギターを
手にしたのは高校三年生の文化祭
(1967)以来ですから、
実に
35年ぶりのことでした。もちろん音は外す、演奏は間違えるなど、
当初は一緒に歌う宮本君や荒井(高尾)真理子さんには
迷惑のかけっぱなしでしたが、不思議なもので何回か場数を踏むと。
三人でハモる楽しさに酔いしれている自分に気付きました。
もっとも周りの人は「ヘタの横好き」と言っているようですが。。。
「クリスティ」での定例演奏会の他に、池袋のホテルで開かれた
大泉高校
20期同期会の前で歌うようになると、
「もっとレパートリーを増やさなくては」と欲が出てきます。大泉高校時代の青春が、今甦った気持ちがしています。

 そしてこれから

私は現在中野で磁性材料を作る会社を経営しています。祖父から三代、
創業
83年と歴史だけは古いのですが、いわゆる町工場から発展した会社で、
ご多分にもれず日本で製造業を続けていく困難さをひしひしと感じていますが、
毎日、毎月、毎年が勝負といった感じで三十年間走り続けています。
もっともオフタイムは目一杯自分の好きなことをするという習慣は、昔から変わっていません。
中でも
20年来の趣味である英文ジョーク収集が昂じて、ジョークのホームページを運営していますので、
興味のある方はぜひご覧になって下さい。そしてこれからの人生は、イソップ童話の「アリとキリギリス」を頭に入れて、
アリのように働く時はしっかり働いて稼ぎ、キリギリスのように大いに人生を楽しもうと思っています。そういった意味で、
フォークソングを歌う楽しさを思い出させてくれた宮本君には感謝しています。大泉高校
20期の皆様、
また「クリスティ」で一緒に歌って飲みましょう。

私の会社のウエッブサイト http://www.nakano-permalloy.co.jp/

英語のジョークページ    http://homepage3.nifty.com/kazgoto/   

2006年8月5日 後藤 和光