更新 2017年12月10日
私の理論物理学者としての歩みの原点は、1978年のLeo P. Kadanoffとの出会いです。それ以来、彼が2015年に亡くなるまで、
生涯の師と仰ぎ、彼の学生であったことを誇りに思ってきました。その出会いは、多くの偶然によるもので、
それは5年ほどさかのぼります。
1973年に東京大学工学部物理工学科を卒業してすぐに国分寺にある日立中央研究所に入所しました。
物理ができるという甘い考えを持っていましたが、最初に配属されたのは、電子回路を研究する部署でした。
何も分からないうちに、高速のアナログ・デジタル変換器を作れというという命令でした。これは物理と関係ないし、
大学時代に取った電気回路の授業が恐ろしくつまらなかったこともあり、積極的にはなれませんでした。
仕方ないのでせっせと集積回路素子、抵抗、コンデンサーなどを集め、電子基盤の上でハンダごて作業を進めました。
当時の部長が目をかけてくれて、しょっちゅう会っては、私が文句ばかり言っていました。
それでアナログ・デジタル変換器が完成したら、レーザー関連を研究する部署に移って良いことになりました。
そして新しい部署ではレーザーを作ったり、それでレーザー写像器、レーザープリンターなどを作ったりしていましたが、
どれも実用にならず、日立もずいぶん無駄なことをしていたと思います。私の文句は止まらなかったのですが、
研究所では特別待遇でした。当時は、日立製作所が電気業界最大手で業績が良く、おおらかな時代だったのでしょうか。
後に有名になる外村彰さんがおられて、ホログラフィー電子顕微鏡の開発を始めていました。
理論物理に興味を持ったので、研究所の通常業務の他に東京大学の渡部力先生の指導のもとで、原子衝突の研究を始めました。
論文を3本共著で書きましたが、理論物理を本格的にやり始めようという気持ちになり、渡部先生と相談しました。
その結果、渡部先生の推薦で、Chicago大学のUgo Fanoのところに留学することになりました。
FanoはFano効果その他多くの業績があり、原子物理学、放射線物理学の世界的権威でした。
1976年にChicago大学物理学科大学院に入学しました。最初にFanoが指示したのは原子衝突、
原子核衝突に現れる角運動量の量子論でした。しかし明確な研究目的が与えられたわけでなく、
ただ単にあのとてつもなくややこしい角運動量の代数の計算をやっていましたが、それを熟達しました。
Chicago大学の物理学科では、大学院入学してから博士資格試験に合格する必要がありました。私はそれに2番で合格しました。
(その時の1番が、あのh-Indexを提案したJorge E. Hirschでした。)しかしながら、Fanoは私のことをずっと頭の悪い学生だったと
思っていたようで、そのような扱いで, あまりまともな議論をしてくれませんでした。
ある日角運動量代数の本にない新しいかなり複雑な公式を見つけて、Fanoに報告しました。それがどういう訳か
Fanoの機嫌を損ねたようで、このようなことで物理はどこに行ったのかと、激しく叱責されました。さすがに翌日には謝っていました。
そのあとFanoは私の前で公式をまるっきり等価な式に置き換えていき、あまり代わり映えのしない変換を
これが物理だと言いながらやっていました。その時はかなりしらけてしまいました。
南部陽一郎先生が角運動量代数などのことを聞いてくだり、京都大学の教授に関連する仕事があると教えてくれました。
さらに南部先生がちょうど日本へ出張してその京都の人と会う機会がありました。残念ながらその方は
その角運動量代数のことはすっかり忘れていたそうです。このようにしてFanoのところがすっかり嫌になり、2年間無駄な時間を過ごしました。
それで新しい分野を探すことになり、南部先生のいる素粒子論グループとChandrasekharのいる天体物理グループを考えました。
南部先生ですが、素粒子論では就職が極めて難しいこととその他のことで学生をほとんど取っていませんでした。
ほかの教授の授業を取っていたので、その人に頼みにいきました。初めはOKをもらいましたが、
のちに私が日立にいただけ年齢が上だということで御破算になりました。天文物理ですが、以前Robert Waldの相対論の授業を
受けたことがありました。そこでEinsteinの重力方程式のSchwarzschild解などを求めていました。Waldに話したらOKでした。
彼は私の ルームメイトがGary T. Horowitzなのでちょうど良いと言っていました。GaryはChicagoで最初に会った同級生で、
すぐに親友になり一緒に旅行などもしました。お前のおじさんはVladimir Horowitzかと聞いたらそうだといっていました。
彼が現在 Santa Barbaraにいる著名なString, Black holeの研究者です。そうこうしているうちに学科主任がやってきて、
今度Kadanoffという有名な人がChicagoに来るが、その人と仕事をしてはどうかと言ってくれました。
私はその当時、Kadanoffという名前を知りませんでし、何をやる人だかも知りませんでした。
有名ならそれでいいという程度の認識で、学生にしてもらいました。
このような経過でKadanoffの指導を受けることになるのです。最初の問題は古典スピンモデルの相転移をくりこみ群により
解析することでした。ここで見放されては大変だと思い、本当に真剣に取り組みました。
3ヶ月ぐらいで最初の論文を書くことができました。その次の問題が大変でした。
その当時、Sato-Miwa-JimboのIsing modelの相関関数の理論が提案され、それが統計力学のトップの人たち、
例えばMichael Fisherなどに熱狂的な期待を持たれていました。それに沿ってIsing Modelの相関関数を計算せよという事でした。
ところがSato-Miwa-Jimboの論文は連続してありましたが、どれも極めて難解で、どうしたら良いか解りませんでした。
それでも1年間必死になって頑張りましたが、3点相関関数をかろうじて計算できただけで、まるっきり行き詰まってしまいました。
それでKadanoffと共著の「SMJ’s Analysis of Ising Model Correlation Function」という半分reviewの論文を
Annal. of Phys.に出版しました。この結果は不十分でしたが、その分野の第一人者たちからは注目されました。
後になって分かってきたのですが、そのような人たちは私の名前を初めて覚えてくださったようです。
SMJ理論はこの後、結果を出すことができず、忘れさられることになりました。
この後、Ashkin-Teller modelという二次元古典スピン系の相転移、臨界現象の研究により、
1981年Chicago大学よりPh Dを取得しました。このモデルの中にはKosterlitz-Thouless 転移もありました。
この後、ポストドクとしてWhasington 大学でThoulessと研究をすることになります。
ここでまた自分よりはるかに優れた人と接することになるわけです。ここでThoulessがHofstadter問題に
興味を持っていたことが大きな幸運になりました。
当時、Wannier functionでよく知られているGregory WannierがOregon大学にいて、私が着任する前に
Washington大学でセミナーをしたそうです。Wannier はDouglas HofstadterのPh D 指導教官で、
有名なHofstadter’s butterflyは博士論文によるものです。Wannier はHofstadfter 以前に重要な論文を残しています。
1980年に量子ホール効果が発見されました。その脅威的な精度のホール電導度は、それまでの物性物理の常識の範囲を
超えるものでした。このような状況の中、実際の半導体界面からはかけ離れていますが、
ある意味理想的なHofstadterにおけるホール効果を調べるのは意味があることだと思いました。
その研究の成果がThouless-Kohmoto-Nightingale-den Nijs 共著のTKNN論文です。この経緯は物理学会誌に書きました。
そして私はIllinois大学へ移りますが、そこでまず大野さんと高分子のくりこみ群による研究を行い,大変な計算でしたが
論文を2本書くことができました。それからHofstadter問題に戻り、それを表す一次元準周期Harper方程式の
金属、絶縁体転移をスピン系の相転移との類推で調べました。ここで金属相というのは、すべての波動関数が広がってる相で、
絶縁相というのは、すべての波動関数が局在している相をいいます。論文を書いて提出したら、
すぐにCal Tech の数学者Barry Simonから電話がかかってきて、お前の論文は間違っていると、まくし立てられました。
それから手紙のやり取りと電話で議論をしました。結局、数学者の定義に従っているかどうかだけの問題でしたので、
私にとってはどうでも良いことでした。数学者は何しろ定理を証明しなくてはいけないので、
準周期そのものに正面から取り組まざるを得ません。私のような物理学者が考えるようにまず周期系を調べ
その極限としての準周期系を考える、そして必要なら数値計算の助けを得るという感覚は、彼らには馴染みのないことです。
Simonは色々と名前をつけるのが好きで、準周期Harper方程式をAlmost Mathieu方程式と名付けています。
これはHarper方程式が、特殊関数論で有名なMathieu方程式を離散化したように見えるからです。
Almostというのは、quasi periodicというところを数学者はよくalmost periodicというからです。
Almost Mathieu 方程式は数学者にはよく知られていて、多くの研究がなされています。
Kadanoffと考えた準周期系のモデル(KKT) があります。これを解くのに従来の方法を取らずに、
力学系の写像(trace map)による考察により、エネルギースペクトル、波動関数の臨界性、スケール普遍性、
Fractalまたはカオスなどが明らかになります。実は力学系の写像で解析されるようにモデルを作ったのです。
ですからポテンシャルは、一見非常に特殊に見えます。このモデルのエネルギースペクトルを数値的に求めましたが、
これを解析すると、すぐにこれが常に臨界的であることがわかりました。
というのは、準周期Harperモデルでは、金属相、絶縁相があり、その境界では系は臨界的になり
エネルギースペクトルはsingular continuousであることを示していたからです。
KKTモデルのエネルギースペクトルは常にこのような様子を示します。これが1983年の論文です。
これにもBarry Simonが早速かみつき、なぜsingular continuousなのか執拗に聞いてきました。
のちに力学系の写像の性質を詳しく調べ、厳密ではないがほとんど異論が出ないような解析を行いました。
また後に数学者がKKTモデルのエネルギースペクトルがsingular continuousであることを厳密に証明しています。
このKKTモデルとその力学系の写像(trace map) に関して膨大の量の数学の論文があり、数学の一分野をなしています。
1984年にD. Shechtmanらの準結晶の論文が出ました。それに影響されて考えたのですが、
KKT論文の一見非常に特殊に見えたポテンシャルが、実は単にFibonacci数列を表しているのに過ぎないことに気がつきました。
このようになんとも笑えるようなことになりました。KKTモデルは1次元準結晶を表しているのです。
SimonとのHarper方程式に関する騒動のあと、Simonが主催する1983年夏にパリで行われたの
Schroedinger operaterに関する会議に呼んでくれました。そこにSimonの緊密な共同研究者であったYosi Avronも
出席していましたが、会うなりいきなりTKNNを絶賛されて、とても戸惑ったことを思い出します。
それはTKNN論文が出版された直後で、AvronとSimonがTKNN論文の重要性を認めてくれた最初の人たちです。
TKNNというのは名前付の好きなSimonによるものです。Simonは驚異的な頭脳の持ち主で一流の数学者です。
私の発表したKKTモデルのtrace mapによる解析を完璧に理解していました。彼の凄いすごいところは、
重要な論文をいち早く見つけすぐそれを理解することです。Berry Phaseをいち早く注目し、
それを数学的に解釈した論文を出版したのは、Michael Berryの論文以前のことです。
Avron-Seiler-Simonはhomotopy理論を使いTKNNを解析しました。それを説明されましたが、
数学の素養の乏しい私はよく理解できませんでした。彼らの結論は、何の対称性も仮定しないバンド絶縁体では
量子ホール状態以外のトポロジカル相は不可能ということです。
1次元準周期系の研究を一段落させて、量子ホール効果について再び考え始めました。
まず波動関数のk微分で与えられるベクトル場Aを考えます。これは現在ではしばしば「ベリー接続」と呼ばれます。
線形応答理論によるホール伝導度は、Aの回転をk-空間、磁気ブリルアンゾーン上で積分したものとして与えられます。
これは直接、線形応答理論では見えなく、多少の解析が必要です。磁気ブリルアンゾーンは実空間の単位格子が仮に正方形でも、
それを複数並べたものが実質的な単位格子になるために逆空間で長方形になります。TKNNではAの回転の積分をStoke’sの
定理を使い長方形周辺の線積分にします。これは長方形を1周する積分で、それが整数になるということを使いました。
この議論は便宜的に正しい量子ホール伝導度を与え、これをTKNN整数とよびます。しかしこの議論には重大な欠陥があります。
というのは長方形の左辺と右辺、下辺と上辺はそれぞれ同一なので、磁気ブリルアンゾーンはドーナツの表面、
つまり2次元のトーラスになるからです。これはトポロジーとして非自明です。この事実が電子状態のトポロジーを考える第一歩です。
もしトーラス全域でStoke’sの定理が適用できるとすると、トーラスには境界が無いのでホール効果は無いということになります。
これは磁場の無い時には全く正しい結果です。しかしながら磁場がある時には電子状態がねじれ、非自明なトポロジーが
あることがあります。ですからStoke’sの定理はトーラス全面で使うことができません。この状況は位相幾何学(トポロジー)という
数学の分野を使うことにより理解できます。磁気ブリルアンゾーンを底空間、波動関数の位相をファイバーとする
U(1) ファイバー束を考えます。TKNN整数はトポロジカル不変量のChern数になります。これらのことを詳しく記述したのが
1985年のAnn. of Phys. 論文です。この結果は、Hofstdterという一つのモデルにとどまらず、
それが新しいトポロジカル量子物性のパラダイムの基礎につながったようにも思えます。
その当時私は、電子状態にねじれがありそれがトポロジー非自明であるというような考え方は、興味深いことではあることではあるが、
それほど重要だと思っていませんでした。その原稿をTKNN論文の解説ぐらいに思って、SMJ論文の時と同じように、
Ann. of Phys.に投稿しました。その原稿がEditor から漏れたようで、著名な素粒子論の研究者たちが論文を送ってきました。
それでは少しは面白いのかという感想を持ちました。実はこの原稿を事前にThoulessへ送りました。
もし彼がトポロジーの観点から量子ホール効果を見るということに同意して、それに何か付け加えることがあれば、
共著にしても良いと思ったからです。彼のコメントは、液晶のtexureにアナロジーがあるとのことでしたが、私にはよく解りませんでした。
その後10年ぐらい経ってThouless の退職記念の会議がSeattleで盛大に行われました。そこでThoulessの講演を聞きました。
主にTKNNに関してでしたが、トポロジーに言及することはなく、Nightingaleとden Nijsの貢献を強調していました。
1984年にUtah大学に移りました。すぐDan MattisがやってきてHaldane gapの話を始めました。
その数年前、F. Duncan M. HaldaneがまだUniversity of Southern Californiaにいた頃、そこにいた真木和美さんと一緒に
彼の話を聞きました。Higher spin の話ですが、私は、その頃古典スピンのことばかりやっていましたし、
また量子スピンは1/2だと思っていましたので、その重要性はまるで気がつきませんでした。
それでHaldaneにそれは何か実験に関係あるのかと質問しましたが、いやな顔をしていました。
真木さんをその後 Utahに招待して、講演のあとスキーなどをしました。Salt Lake Cityには有名なスキー場がたくさんあり、
のちに冬季オリンピックの会場になりました。真木さんとは、またその後白石さん、森田さんと銅酸化物高温超伝導体の
量子渦を研究をすることになります。
そのようなことでHaldane gapにはあまり興味がなかったのですが、MattisがLieb-Schultz-Mattis論文の関連する部分の
コピーを持ってきて、Haldane gapが存在しないことを証明しろというのです。仕方がないので、しばらく式をいじって
ギャプレスの新しい状態を作りました。Mattisは喜んで早速論文を書き始めました。
私はその新しい状態が基底状態と直交しなければいけないで、確かめる必要があることをMattisに言いましたが、
それは大丈夫だという答えでした。しかし心配になり、確かめてみたのですが、確かにスピンが半整数の場合は直交するのですが、
整数スピンの時は直交しないのです。この場合は新しい状態というのは、基底状態そのものだということです。
それでしらけてしまい、Haldane問題を忘れてしまいました。しかしながら、よく考えるとスピンが半整数と整数の時の様子が違うことは、
重要な結果です。さらに半整数の場合、gaplessになることは、新しい結果だということは知りませんでした。
実際、1年後に同じ結果のAfflek-Liebの論文が出て、重要な成果とされています。私の結果を論文にすれば、
興味が失われることがなく、田崎さん、押川さん、山中さんと共同研究が出来たかも知れません。
Bill Sutherland ですがCalogero-Sutherland model が有名ですが、Six Vertex を解いたりもしています。彼はかなり変わった人で、
私が着任する以前はほとん大学に来なかったそうです。私が着任してから準周期系に興味を持ち、共同研究が始まりました。
彼は驚くほど頭の冴えた人で、多くの論文ができました。それが一段落した頃、高温超伝導フィーバーが起こり、
Sutherlandも超伝導の知識もあまりないにもかかわらず研究を始め、私とは一切口をきかなくなりました。
キテレツな理論を作っていましたが、当然ながらそれはすぐ消滅しました。当時このような例はしばしば見受けられました。
Calogero-Sutherland modelに多くの未解決な問題があり、そのような研究をできなかったのは残念です。
白石さんとも共同研究ができたかもしれません。
Utahでうれしかったことは、Yong-Shi Wuと出会い、生涯の友となったことです。彼は、あの悪名高い毛沢東の
文化大革命の被害を受けました。彼の父君も学者で大学の職を奪われました。この荒廃した時代に物理の研究を行ったことは
まさに脅威的です。有名なParisi-Wuの量子化はその時代の仕事です。彼は元来素粒子論の研究者なのですが、
物性物理でも優れた業績を残しています。物性研究所にもしばしば訪問して、多くの共著論文があります。
これらはお互いの最も多い共著論文数になっています。
2016年度のノーベル物理学賞ノーベル物理学賞の解説を田崎さんと押川さんが書いています。
田崎晴明:WebRonza 「今年のノーベル物理学賞のどこがすごいのか?
「無数の単純な要素が生み出す物語」を読み解く理論」
www.gakushuin.ac.jp/~881791/misc/WebRonzaTasaki2016.html
押川正毅:物性研だより第56巻第3号「2016年度ノーベル物理学賞「トポロジカル相
転移と、物質のトポロジカル相の理論的発見」」
www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/docs/tayori56-3_Part3.pdf
また佐藤さんには次の解説があります。
佐藤昌利:パリティ Vol.32 No.07 2017-07 p6「トポロジーによる古くて新しい物性物
理」
どの記事も私のノーベル物理学賞の業績に対する貢献に触れていてくれて、大変うれしく思います。また田崎さんと押川さんの
重要な業績についてもノーベル物理学賞の公式ホームページにあります。
www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2016/advanced.html
田崎さんの存在を初めて知ったのは彼がまだM1かM2の頃です。何の国際会議か忘れてしまいましたが京都で行われました。
まだ若い田崎さんが堂々と質問を繰り返していました。その時、高橋陽一郎さんと一緒にいたのですが、
ずいぶん生意気な学生がいますね、しかしすごく優秀ですねなどと話していました。高橋さんは高名な数学者で、
京都大学数理解析研究所の所長などもつとめられました。その当時KKTモデルのtrace mapの解析に数学の知識が
必要でしたので相談に乗ってもらっていました。次の思い出ですが、1988年の春で、すでに物性研究へ移ることが
決まっていた時期です。どうしたことか思い出せないのですが田崎さんがPrinceton大学にいることを知りました。
うまく連絡が取れてSalt Lake Cityに遊びに来てもらいました。その時の下心は、助手になって欲しいということでした。
もし実現すれば私の方が教えてもらうことが多かったですから、助手の方が偉いという面白い研究室ができたと思います。
しかし田崎さんはさっさと学習院大学に行ってしまいました。
押川さんとは共著の論文がありません。しかしそれに近かったことがあります。1994年ごろ押川さんが私の研究室にやってきて
カイラルフェルミオンを格子上で定義する困難性を明確にしたニールセン・二宮の定理と量子ホール効果の関連について
話し始めました。その時はあまりよく解らなかったので、あとでよく教えてもらおうと思っていました。
少し時間がたったある日、隣の部屋に行ってみると押川さんがパソコンの前に座って論文を書いていました。
のぞいてみるとなんと著者に私の名前がのっていました。なんの貢献もしていないので、残念ながら共著を辞退しました。
それがM. Oshikawa, Quantized Hall conductivity of Bloch electrons:Topology and the Dirac fermionPhys. Rev. B 50, 17357(1994)です。
これは現在のトポロジーによる物性物理につながる内容を含んでいます。このようなレベルの高い論文は大変印象的でした。
佐藤さんは1999年に助手として来ていただきました。江口徹さんの推薦です。私がChicago大学の大学院生だった頃、
南部先生がいらっしゃり江口さんはAsistant Professorでした。お二人とも親しくさせていただいたのですが、
さすがに南部先生は恐れ多くて物理の議論はしませんでした。しかし江口さんとはよく議論させていただきました。
素粒子論出身の人が物性物理において顕著な業績を上げるのは日本ではあまりないことですが、アメリカでは
そのような例が少なからずあります。私が直接知っているのはYong-Shi Wu, Shoucheng Zhang, Xiao-Gang Wenなどの人たちです。
ですから佐藤さんに関しては期待することはあっても心配することはありませんでした。事実彼はトポロジーによる物性物理で
顕著な業績を上げています。これには素粒子論のバックグラウンドも大いに役立っていると思います。それに加えて佐藤さんは、
研究室で行ってきた院生の指導、研究にも力を尽くしてくれました。
その例は分子モーター、化学ゲル、Rashba model, グラフィン、カントールセット中の光の伝搬などです。
私が初めてShoucheng ZhangとXiao-Gang Wenに会ったのは, 1987年Santa Barbara のKITPでした。
当時私は準結晶のワークショップで長期滞在していました。彼らはPh D
を取り立ての若いポストドクでした。その当時は高温超伝導フィーバーが始まっていて、準結晶は少し下火になりました。
ある日、廊下を歩いていたらいきなりRobert Schriefferがやってきて彼のspin bagモデルのことをまくしたててきました。
あまり良く解らなかったのでしたが、偉い先生が言うのでそれなりの理論ではないかと思っていました。
これにZhangとWenが飛びつき共同研究が始まりました。これが彼らが物性物理に転向するきっかけになったのでしょう。
Shrieffer-Wen-Zhangの失敗作になるのです。(他のほとんどすべての理論がそうであるように。)またZhangからUtah大学に
招待して欲しいと頼まれたので、コロキュウムをしてもらいました。これが彼の初めての公式講演でした。
このあと日本からStanford大学に数回訪問しています。
Santa BarbaraではJaques Friedelにも出会いました。あるセミナーの前、椅子に座っていたら隣にFriedelが座ってきました。
偉い先生がそばに来たので敬遠したかったのですが、いきなり何を研究しているかと聞かれ、のちに議論させていただきました。
RVB状態中のホールの振る舞いを調べていたのですが、これも高温超伝導フィーバーに巻き込まれていたからです。
論文を書いて彼に見せました。序文で高温超伝導では、これまで解明されていなかった強相関が本質であると書いたのですが、
このことが気に入らなかったようです。彼はBCS理論を高度に拡張することにより高温超伝導を理解できると言う立場でした。
翌年パリに招待してくださり数ヶ月滞在しました。しかしFriedelは、科学アカデミーや政府の仕事などで忙しく、
物理の議論はできませんでした。もっぱらGilles Montambauxと議論して,3次元の量子ホール効果の研究を行いました。
日本に帰ってしばらくしてしてからFriedelとの手紙のやり取りによる共同研究が始まり、それが10年以上続き、
4本の高温超伝導に関する論文があります。しかしそれらは残念ながらあまり成功したとは言えません。
しばしばパリを訪問して、2014年に亡くなるまで非常に親しくさせていただきました。
この拙文にある人たちに多大な影響を受けたことは貴重な財産となりました。
Leo P. Kadanoff, David J. Thouless, Bill Sutherland, Yong-Shi Wu, Jaques Friedel
渡部力、田崎晴明、白石潤一、押川正毅、佐藤昌利
そして残念ながら触れませんでしたが、その他多くの優れた共同研究者に恵まれたことは幸いでした。
「ファミリー・ヒストリー」という、NHKのテレビ番組をご存知の方も多いと思います。
誰しも、自分の両親や祖父母がどういうルーツだったのか、興味が湧くと思います。親戚が集まった折に、
そんなことを話題にすると大いに盛り上がったりしますよね。
【母方の祖父】
昨年のことになりますが、何年かぶりに松本に行った折り、松本城くらいは見ようと思い、
もう夕方でしたがお城の周辺を散策していました。
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〈堀にかかる埋橋から松本城の天守を望む〉 | <平成になって復元されたという太鼓門> |
ふと地図を見ると、「松本県ヶ丘(あがたがおか)高校」という名前が目に入りました。
この学校の名前を見たとき、私の母方の祖父がサッカーの指導者として赴任した高校
(当時は旧制松本二中)であることを思い出したのです。
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〈松本県ケ丘高等学校・写真はウィキペディアより〉 |
孫自慢ならぬ祖父自慢(笑)になりますが、この祖父はその名を「松本寛次」といいます。
松本寛次は、当時日本のサッカー史でも大きな影響を与えていた東京高等師範学校(現筑波大)の
蹴球部主将として活躍し、その腕を買われて赴任した広島一中(現広島県立国泰寺高校)では、
のちに日本蹴球会長となる野津謙を指導したと聞いていました。
そこで、帰宅後インターネットにより、祖父・松本寛次について検索すると、「日本サッカー史」や
「松本県ヶ丘(あがたがおか)高校サッカー部史」などに、その名を見ることが出来ました。以下がその結果です(要点のみ)。
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★日本サッカー史 松本寛次★で検索:
1911年4月(明治44年)広島の名門・広島一中(現 広島県立広島国泰寺高等学校)において、サッカーを校技にしたいと
考えた当時の校長(弘瀬時治)が、東京高等師範学校の主将だった松本寛次を教諭に迎えて、蹴球部が正式に発足。
当時のメンバーには後に日本サッカー協会会長となる野津謙らがいた。松本寛次の指導により始まった同校蹴球部は
全国屈指のサッカー強豪校となる。戦前の全国中等学校蹴球大会では2回優勝している。
******************************
★松本県ヶ丘(あがたがおか)高等学校 松本寛次★で検索:
長野県松本県ヶ丘高等学校(旧松本第二中学校)のウィキペディアで次の文が掲載。
1923年(大正12年)学校創立とともにサッカー部は創部された。初代校長(小松武平)がサッカーを校技として採用し、
入学者全員にサッカー靴の購入を義務づけ、初代監督に東京高等師範学校主将だった松本寛次(広島一中で野津謙を
指導)を教頭として招聘した。
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今にして考えれば、私が小学4年生の時に開催されたアジア大会(1958年開催・第3回大会)に、この祖父が来賓として招待され、
国立競技場のロイヤルボックスに座ったと言っていたこともうなずけます。
【父方の曾祖父】
これもやはり出張で福岡に行った際、叔母のところに顔を出しました。ひょんなことから父方の曾祖父(ひい爺さん)が、
長崎県島原市にある小学校の初代校長だったということを聞きました。なんと胸像も立っていて、
見に行ったことがあるとのことでした。
自宅に戻ってインターネットで検索し、確かに曾祖父の名前を見つけたときには、何か「お宝」を見つけたような気分になった次第です。
皆さんも、ぜひ「お宝」を見つけてみてください。
ヨドバシでWifiルーターを契約したら2万円のお買物特典を得た。その日限り一品の買物特典だ。
こんな天から降ったようなお金は無くてもいいが有ってもいいものを買うに限る。
そこで浮かんだのがアナログレコードプレーヤー。何故と言えばレコードが残存しているのだ。
30cmLPはとうに処分したが17cm版はまだどっさりある。
10代20代のコレクションで何時かは聴くかなと漠とした思いで抱えこんでいた。
早速PCへ接続、ピックアップをレコードに置いて曲を聴けばたちまち虜に。プレイバック青春時代。
無くてもいいなんてものではない。
今更レコードを買う人は余程の愛好家と思うが新しいレーベルではなく昔むかしのレコードを探しに行く。
これっていいではないですか。居ながらにして即時即決何もかも済んでしまうデジタル世界。
これに対して出掛けて探して見つけて持って帰ってプレーヤーを回して始めて曲と巡り会う。
アナログライフ。それは何とも焦れったくもワクワクする。まるで恋に落ちた時のような素敵なライフ。
それはともかくお宝がありました。御存知我らが卒業ソノシート。
これを聴けば当時の情景がありありと浮かんでくる。恩師の声に込められたメッセージが深く胸に響く。
今こそ聴くべき言葉だと知る。これを聴く機会を持つ人は少なかろう。
聴くすべを無くし聴きたいと思われる方々は多かろう。そのお手許に是非届けたい。
ネット配信を考えポピュラーなmp3にしてビットレートを聴くに耐える範囲で落としてみた。
ソノシート表裏に分けて1M以下になったのでどうにかセーフだろうか。
HP上の再生?ダウンロード?何とか小山氏に公開の方法を考えてもらいたいなあ。頼みます。
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以下にソノシートA面、B面の録音音声へのリンクを示します。
PCのブラウザによって動作は異なりますのでご了承ください(小山)