お便り その8

更新 2018年6月9日

「すずめが来る」  関屋 収 2018年6月2日

 NHKの朝ドラを見るようになって2年が過ぎた。全体構想も日々の展開も良く練られていて、飽きない。
ゴルフや旅行に出かけ、1日2日空けても次に見る時に違和感がない。
この4月から始まった「半分、青い」も、テンポが速くこの先どうなるのか見当もつかないが、楽しく見ている。
ヒロインは、楡野 鈴愛(にれの すずめ)だ。

 ときおなじく2か月ほど前から我が家のベランダに雀が訪ねてくるようになった。朝食のパンの切れ端や、
仏様に差し上げたご飯のお裾分けなど、ベランダに置いておくようにしたところ、1羽2羽と寄ってくる。いわゆる餌付けだ。

 最近は、朝、目が覚めてカーテンを開けると、窓の近くからおねだりをするようにリビングを覗き込むようなしぐさが可愛い。
それでも、人家の近くに住みながら人口に比類するぐらいの数が生きているこの強かな種は、用心深くもある。
ガラスのこちら側で動いたり、カメラを構えたりするだけですぐに飛び立っていく。

 なかなか顔は覚えられないが、2、3日前から4羽で来る家族の雀に出会った。親と思われる2羽から、
幼鳥と思われる2羽に口から口へ餌を与えている光景が何とも微笑ましい。
きれいな鳴き声を聞かせてくれる鶯や、梅の木に似合うメジロなどと違って派手さやきれいさはないが、
この庶民的な毎日の来訪者のおかげで、我が家の朝食時、明るい会話の種がまた一つ増えた。

Shall we dance? 夜久有滋 2018年5月1日

 60歳台になりますと、光陰矢の如し、月日がアッと言う間に過ぎます。
柏市の某ダンススタジオの真っ赤な「社交ダンス」の看板に吸い寄せられて、社交ダンスの事は全く何も知らず、
ワルツの個人レッスンを受け始めて、早や4年半になりました。泥縄式にネットで調べると、社交ダンスには公式に10種類も有りました。
スタンダード部門にはワルツ、タンゴ、スロー、クイック、ウインナワルツ、ラテン部門にはルンバ、チャチャチャ、サンバ、ジャイブ、
パソドブレです。全てを踊れる人はTen dancerと言います。これはとても無理ですので、現在は、ワルツ、タンゴとルンバを習っています。
ダンスと言えば、ステップを覚えてその通りに動けば良いのかと思っていましたが、何と何と全く別世界で,男女が協力して、
三次元的に美しく動いていく事を目標にした、半格闘技的な世界でした。自分が若い時でも難しいと思います。
それが60歳後半(来年古希です。)になりますと、気持ちはとても若いですが(笑)、体はやっぱり.....。
先生はプロですので、上手に褒めて、丁寧に教えて下さるのですが、こちらは頭では理解出来ても(ホントかな?)、体が.....。
動かない!あちこち痛くなるし.....。しかし、高齢になると運動は大事ですので、当初は1/週でしたが、
今は木、土2/週で、毎回一時間のレッスンをこなしていると言うよりも、とにかく無理やり頑張っている状態です!。
かの日露戦争(古い話ですが)での山本五十六元帥の兵隊訓練の名言、「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、
褒めてやらねば、人は動かじ」を地で行く先生のレッスン。特に「褒めてやらねば」が上手な先生の「いいですね。
いいですね!!」の、おだてに乗せられて、私、夜久豚も思わず木に登ってしまって、降りるに降りられない状態になってしまいました。
今は、5月のダンスパーティに向けて、タンゴ+ワルツの特訓中です。曲はタンゴが「宇宙戦艦ヤマト」、ワルツが「あざみの歌」です。
これは自分で探して選んだ曲で、気に入っていますので、頑張りたいと思っています。
医師会事務局の「とにかく写真を!」が厳命でしたので、昨年の5月の教室10周年記念ダンスパーティでの、ワルツの写真を恥ずかしながら、
載せさせて頂きます。女性(先生です)がキックをした瞬間です。先生かっこ良いでしょ!私は必死に頑張っているのみの状態です。
最近は先生の「いいですね!」が少なくなっている気がします。少しは成長しているのかな?医師会のどなたか、ダンス仲間になりませんか?

鉄道模型展示会のご案内 坂江康治 2018年3月7日

恒例の鉄道模型展示会(池袋鉄道模型芸術祭)が3月末池袋芸術劇場で開催されます。勿論常連の坂江くんも出展します。

日時:平成30年3月24、25日 10時〜17時
会場:池袋芸術劇場地下1階 アトリエイースト
坂江の展示タイトル:Oゲージの魅力(大泉高校相撲部?のジオラマ等)
入場料 500円

初詣バスツアー 源 恭子 2018年1月4日

2018年1月2日、家族4人で皇居一般参賀を含む初詣バスツアーに行ってきました。
9時10分に横浜東口ベイクォーターの前に集合して、バスに乗り込み出発。数100mも進まないうちに止まってしまいます。
と、添乗員さんが「箱根駅伝の選手が走ってきます!」左側の車窓からパトカーの先導の後に一人走ってきました。
東洋大の選手だとか、実際に見ると本当に早い!あっという間に通り過ぎしばらくしたらまた一人が…。
そのあと少し間があいて3人、4人の集団が…。今日は箱根駅伝の日、TVで横浜駅前を通るのは見たことがありますが、
実際に見るのは初めて。快晴の天気といい、幸先の良いスタートです。
首都高を通りまずは皇居の一般参賀へ。行幸通りを通って皇居へ。すごい人出。途中で旗(配ってくれるのです)を受け取り、
平成最後と勘違いしている人もいるようだから特にすごいのかなとのろのろ進んでいくと、荷物のあるなしで左右に分れ、
娘と私は荷物検査の列へ、夫と息子は荷物なしの列へと離れてしまいました。やっと荷物検査が終わったと思ったら次には
ボディチェックを受け娘と順番待ちの列に並びます。10時前に着いたのに、この時点で10時半過ぎ。私たちよりもっと前から
待っていた列が動き、どうやら11時の回に入るよう。まだまだ先に待っている列があるし11時50分までの回に入れないと
集合時間に間に合わないのでどうなるかと内心ヤキモキしながら待っていました。警備の警官の人は「最終2時10分の回まであります」と
アナウンスはするものの、私たちの列が何時の回に入れるのか具体的なことは何も言ってくれません。
お天気が良く、風もあまりない状態なので待っているのがさほど辛いことがなかったのは本当にラッキーでした。
11時50分の回に間に合いましたが、前の人の頭でほとんど見えず、背伸びをしながらちょっと見えたのはガラスの向こうに人がいそう…

というもの。あきらめて旗だけ振っていました。終わって出るのも一苦労で、桔梗門から出るときも一旦停止の制限付きで
集合時間ギリギリに。夫と息子は集合場所から一番遠い乾門から出たら思ったより時間がかかったと早足で戻ってきました。
遅れる人がいて、12時50分出発の予定が30分遅れでやっと出発。
浅草までは車の流れはスムーズに行き、二天門のところで解散。雷門までいかないと仲見世にも入れない状態で、
3年前のお正月には楽に通れた仲見世の脇の通りを行ったのですが、ここも人、人、人…。
雷門の前で記念写真を…と思ったらそれも許されない状況の混雑ぶり。
最後の柴又帝釈天(帝釈天題経寺)は、到着が4時半過ぎということもありすんなりお参りができたのですが、
「ここってお寺だよね」の息子の突っ込み。薄暗い中では、話題の木彫もよく見えず残念!今夜はスーパームーン、
月を見ながら河川敷の駐車場へ。
帰途は葛西臨海公園のダイヤと花の大観覧車、お台場のパレット タウン大観覧車、みなとみらいのコスモクロック21と
3つの観覧車を車中から見ながら横浜東口に20時10分頃、帰宅したのは20時。約12時間の初詣ツアーでした。

「大変ですが、楽しく・元気にやっています」 山下道雄 2018年1月4日

2017年は、私の人生の中でも上位に来るほど変化が大きい1年であった。2015年に完全リタイア後、
家でのんびり過ごし、地域ボランティアでもしたいと考えていた。
そんな折、2月初旬に大学研究室の後輩から電話があり、「醗酵生産物の中の活性物資の単離・精製を指導・助言してくれる
専門家を探しているので、適任者が居れば紹介して欲しい」とのことであった。
東京大学大学院 医学系研究科 生物医化学研究室の野崎智義教授がプロジェクト(PJ)リーダーを務める、
『インドネシアの生物資源多様性を利用した抗マラリア・抗アメーバ新規薬剤リード化合物の探索』研究において、
活性物質は沢山見出されるが、3年目を迎えても1物質も単離出来ず、既知物質か新規物質かの結論も出せずにいるとのことであった。
このプロジェクトはJICA(国際協力機構)およびAMED(日本医療研究開発機構)の予算を得て進められている。
もう少し具体的な話を聞いたところ、インドネシア・ジャカルタの隣県に在る技術評価応用庁(BPPT)のバイオテック・センター(BC)の
研究員(管理職を除き全員女性)に対し、精製技術の伝授・指導をお願いしたいということであった。
また日本では東大大学院・野崎研に所属する熱帯地方の国からの留学生に対し、同様の指導して欲しいとのこと。
ただし、インドネシア出張時はホテル代など実費と多少の日当は出るが、東京大学での指導時には、交通費などの実費以外は
出せないとのことで、ボランティアのような状況とのことであった。これでは、子供に学費が掛かる現役世代を紹介するのは難しい。
ボランティア活動をしようと考えていた自分がお手伝いした方が現実的であると思えた。
また、この年になって自分の知識・経験が世の中に役立ち喜ばれることは、有難く嬉しいことでもある。
実際インドネシアに4週間以上滞在し仕事をするにはVISAの取得が必要で、4週間に一度日本に帰って大学院留学生を指導し、
インドネシアに戻りBCの研究員を指導するという生活を、東京大学・院・客員研究員という立場で行っている。
今までの会社員研究者人生の中では経験したことがない面白いエピソード、カルチャーショックなどが色々あるので、
また機会を見て紹介出来ればと思う。

管理職はほぼ男性だが、実験している研究者はほとんどが女性 JICA予算で購入した液体クロマトグラフィーなどの
機器には日の丸の下に「FROM the People of Japan」
と書かれたシールが貼られていた

仁科記念賞受賞 甲元眞人 2017年11月10日

10月の終わり頃、突然、仁科記念財団からメールが来て何だろうと思ったのですが、「トポロジカル量子物性の創始」に対して
今年度の仁科記念賞を授与することを決定した、ということでした。当然のことながらうれしかったのですが、
以前2回ほど「準結晶の電子状態」と「量子ホール効果」の業績で推薦されたことがありましたが落選していたので、
仁科記念賞のことはまるで頭にありませんでした。誰が推薦したかも謎で、何か不思議だという印象を持ちました

量子ホール効果に関する私とThoulessらによるTKNN論文は発表以来高く評価されてきましたが、
トポロジカル絶縁体の理論と実験の発展の後、被引用件数が急増しました。
それと共にとも私の単著によるトポロジーに関する論文(1985年、Ann. of Phys.)が広く認識されるようになって来ました。
さらに2016年にノーベル物理学賞が「トポロジカル相転移と、物質のトポロジカル相の理論的発見」について、
David J. Touless, F. Duncan M. Haldane, J. Michael Kosterlitz の三名に与えられました。
これらの流れが今回の仁科記念賞受賞につながったようです。

Thoulessのノーベル物理学賞受賞の業績の解説として、”1980年代,「量子ホール効果」をトポロジーの考え方を用いて説明した” とあります。
しかしながらこれには正確でない部分があります。その当時の経緯を物理学会誌に書きましたが、
それにつれて思い出したことを文章にしてみました。もしお読みになっていただけるのならメールをください。

mahito.kohmoto@gmail.com

筑波山 源 恭子 2017年11月1日 

2017年10月12日(木) 中学の友人たちと筑波山に行ってきました。
約10年前に高校の友人たちと登ったことがありますが、下りに大きな岩がごろごろして色々な名前がついていたのを
覚えているくらいです。
つくばエクスプレスの車窓から濃い霧が立ち込めた風景を眺め、霧の後は上天気になるのではと思いながら、つくば駅に到着。
「筑波山あるキップ」はバス代込みで秋葉原から往復で3,300円の一枚切符。バスに乗るときは切符を見せるだけです。
筑波山神社前で下車し、大きな鳥居の前で記念写真を撮ってから、筑波山神社に参拝し、登山の無事を祈ってから
御幸ヶ原コースを登り始めました。
道の両側には大きな木々が頭上に枝を広げ、足元は根っこが張り出してデコボコした登り路です。
所々泥が流れ落ちないように板で修復された同じような道が頭上に続いています。このまま頂上まで?と思っていたら
いつの間にか、岩ごろごろの山道に変わっていました。
2,3日前に降ったのか、少し顔を出している土がぬかるんだところもあり、岩も濡れているので滑らないようにご用心!
9人で登り始めましたがいつの間にか、3つのグループに分かれていました。私は真ん中のグループ。
滑らないように気を付けながらゆっくり登っていきました。途中でケーブルカーの線路が見えるところに出ました。
音がしているので待っていると上から降りてきた赤い車両が少し上のほうで停まりました。
見たら、線路が二手に分かれ、ここで下から来た車両とすれ違う場所です。緑色の車両が上ってきて、
すれ違う瞬間にお互いの運転手さんが敬礼をしているのがよく見えましたが、両方ともほとんどお客さんは乗っていませんでした。
10月なのに、27℃と高い気温の中、汗でびっしょりになった体には、立ち止まった時に樹間を吹いてくる風が気持ち良く感じます。
下のほうで二股に分かれた巨木に出会った時にはびっくり。上のほうは高すぎて見えないほどでした。
男女川(みなのがわ)の水源近くを過ぎると、丸太を並べた木道に変わりました。岩の道も歩きにくいけれど、
木道も案外歩きにくいものです。筑波山は登り中心であまり降りることがないので、効率的といえば効率的ですが、
見晴らしがきかないのでひたすら登るという感じです。
低いながらも百名山の一つで、前回来たときは、土、日だったせいで家族連れが多く、小さな子を背負って登る
お母さんにびっくりしたものですが、今回は、平日でも行きかう人が多く、地元の人なのか、
手ぶらですたすた登っていく人には驚いてしまいました。途中で話した地元の人は同世代位ですが、
60回位は登っているとか。ようやく上のほうに空が見えて、山頂が間近になったことが分かった時はとても嬉しくなりました。
到着したケーブルカー山頂駅付近は、遠足で来た小学生や幼稚園児でとても賑やかでした。
第3グループが到着するまでには少し時間がかかるようなので、女体山へ行くことにしました。
女体山の方が展望もよく標高も871mの男体山に比べ877mとわずかながら高いとのことです。
ところが、この女体山へのルートからは小学生が後から後からと、ひっきりなしに降りてくるのです。
お互いに譲り合いながらの登りには思ったより時間がかかりました。山頂には伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀った
小さなお社があります。その前を通り、大きな岩の上で記念写真を撮りました。頭上には蜻蛉が群舞していました。
霞んでいるので、見晴らしは今一つでしたが、晴れていると富士山まで見えるとか…。
下りはケーブルカーであっという間に下山し、露天風呂で有名な青木屋ホテルに直行。
屋上露天風呂からは麓の田園風景の眺めを堪能)し、汗を流してさっぱりしたところでつくば駅周辺の居酒屋さんに入り
ビールで乾杯。午後7時半前のつくばエクスプレスに乗り、無事帰宅の途につきました。

練馬地区の親睦会 小山 恵一郎 2017年5月5日

 毎年、5月の連休の頃になると、練馬の近くに住んでいる仲間が、練馬駅近くの中華料理屋さんに集まることが恒例になりました。
今年も連休のはじめに、小林さん、曽我さん、大槻さん、私が顔を合わせることができました。
お互い、最近の出来事や、スポーツ、健康、家族、趣味、旅行など、ありふれた話で盛り上がり、結構話題が尽きることがありません。
小林さん、曽我さん、大槻さんは幼馴染だそうですので、60年来の付き合いでしょう。
 これからもこのお付き合いを大切にしていきたいと思っています。
 皆さんは高校の友人とのお付き合いはいかがでしょうか

湊君のエッセイをよんで 木村(旧姓佐々木)邦子 2017年2月6日

湊君のエッセイを読んで感動しました。
小説より奇なりと言いますが正に激動の半生ですね。

文章から生きるエネルギーが溢れていました。
我々の頃は大きな会社に勤めて終身雇用というのが一般的な考え方でしたが、
こういうエネルギーの持ち主がベンチャーを起業出来るのだなと納得しました。

もう少し遅く生まれていたら、西海岸で活躍されていたかも知れませんね。

佐々木望先生の見た原爆 藤本 均 2017年1月12日

 皆さんは日本史の佐々木望先生を憶えておられますか。
私は授業の内容については忘れましたが、軍隊生活や、国士舘の学生と一緒にカラテを練習した、といったお話を憶えています。
それに関連して屈辱から最後に身を守るのは暴力だ、と聞いた記憶もあります。
 先生はひばりヶ丘にお住まいでした。進駐軍が来る時、マッカーサーを倒そうとして自宅裏の松林で手裏剣の練習をした、
というようなことも聞いたと思う。

 印象深かったのは、終戦直前に米軍が田無の方に原爆を投下したが、不発であったという、にわかに信じがたいお話。
先生は見ていたらしい。
 内容は@B29が一機、妙な飛び方をしてきたAそして爆弾を投下したが、いつもの爆弾より威力があった
Bその後、広島、長崎に原爆が投下されたC終戦後、直ちに米軍が来ていろいろ調べて帰った―といったあたりでしょうか。
 最後に「あれは原爆を投下したが不発だったのだと思う。ちゃんと爆発していたら、私なんか、もうこの世にいない。
影が残っているくらいですかね」(大意)と仰いました。
 このお話が確かなら、広島、長崎の前に東京も原爆で攻撃することになっていたが、不発だったので東京は助かった、
ということになりますね。

 以上のような経緯を確かに聞いた覚えがあったので、10月8日の2016年同期会で複数の旧友に、このことを尋ねてみました。
しかし当日聞いた範囲では、そんな話は知らない―という声ばかり。ちょっと自信が揺らぎました(微苦笑)。

 何故そんなことに拘っているかというと、ある資料を目にしたから。2016年2月、田無駅近くの小さな書店で手に入れた
「じゃがいも畑へパンプキン―西東京市にも落とされた模擬原子爆弾―」(西東京に落とされた模擬原爆の記録を残す会刊)
という小冊子がそれで、内容は以下の通り。

 実は広島、長崎に原爆を投下する前、1945年7月20日から米軍は爆撃の精度を上げる訓練として、
模擬原爆を各地に投下していたのです。それらは長崎に落としたものと同型、同重量で丸っこく、
黄色いことからパンプキンと呼ばれていました。当時最大とされていた1トン爆弾の4.5倍の爆薬が装填され、
B29一機に1発しか搭載できなかったとか。
 模擬原爆は50発ほど落とされましたが、うち1発が7月29日早朝、現在の西東京市柳沢1丁目しじゅうから公園
(当時じゃがいも畑)に落下、爆発。その結果、3人死亡、8人が重傷、3人が軽傷を負ったそうです。

 同書によれば、米軍が模擬原爆の投下訓練をしたことがわかってきたのは、1991(平成3)年頃からのこと。
愛知県の「春日井の戦争を記録する会」を中心とした調査・研究の結果、明らかになってきたといいます。
「爆弾の音は物凄く、又爆風もヒドいもの」(p20)とか「落ちた直後から日本軍の調査団がいっぱい来たと言うし、
終戦直後もアメリカ軍の調査団がいっぱい来たと聞いています」(p26)という、近所の人たちの証言も取り上げていますが、
これらは佐々木先生のお話と一致します。先生が見たのは、どうやら不発弾ではなく、模擬爆弾だったようです。

 いずみ会HPによれば佐々木先生は、1990年2月にご逝去されました。模擬原爆の存在が知られてきたのが
1991年頃からだとすれば、先生は生涯、不発弾と信じておられたことと思います。

ミステリーバスツアー 源 恭子 2017年1月6日

 今年の正月は、2日に家族そろってミステリーバスツアーに行ってきました。
8時20分、横浜駅西口天理ビル前を出発、天気予報ではお天気になると言っていたのに、どんよりした雲空、
雨が降らなければよいかと思っていました。
バスは、保土ヶ谷バイパスから東名へ。天気が良ければ富士山が見られるのに今日は無理かな、と思っていましたら、
添乗員さんの「富士山が見えますよ」の声。最初に見えた時は、頂上が雲に隠れていたのですが、
天気が良くなってくるにつれ上まではっきり見えるようになり、一日中、富士山を見ることができました。
 最初は丸子宿の駿府匠宿でミカン詰め放題。細長い机の上にミカンが積まれています。
横幅12,3pの小さな竹籠に詰めるというので、5,6個入ればよいかなと思っていましたら、それでも9個から11個は入り、
ビニール袋に移してのお持ち帰り。一口大の鞠子餅、安倍川餅を食べ、つるし雛を見学。日本三大○○とは、柳川のさげもん、
伊豆のつるし飾り、山形の傘福のことでした。つるし雛では今までに見たことのない、ピエロや、象、アシカ、モグラや
お地蔵さんなどが飾られていたのは面白かった。ここでは、ろくろを回しての陶芸や竹細工などの工芸体験もできるようです。
直径26p(?)のたい焼きも売っていましたが、さすがに一回には一枚しか焼かないようです。
 次は日本で一番大きな○○。何かと思ったら、木彫りでは日本で一番大きな千手千眼観世音菩薩が祀ってあるという焼津の大覚寺。
嵯峨天皇御領に、伝弘法大師作薬師如来を本尊として開創され、荘園郷主の槙田家の菩提寺として、
今の住職が赴任した24年前には檀家26(?)軒の荒れ寺だったとか、寺を継続してほしいと土地を寄進され、
まずはいつでも会いに来られる千手観音を作ったということ。
ツアーの誘致など住職も大変だなぁと説法でしゃがれた声を聴きながら思ってしまいました。正面下側から、また壇に登って斜めから、
正面2回に上って上から見ると観音様のお顔が違って見えるとのこと。
本当に下からは見つめていてくれるように上からは厳しく眺めているようにも見えます。
玄関など見えるところにずっと飾って良いというお守りを買い求め、甘酒を飲んで、昼食会場へ。
 石原マリンステーションにて、紅白寿司(マグロとイカ)刺身、白身魚の奉書焼、ワタリガニの味噌汁他。
写真ではとても美味しそうだったけれど…。
帰りは御殿場付近が渋滞とのことで、三島から箱根の山越えに変更だったのですが、事故でここも渋滞。
横浜着が予定の17:20を大幅に遅れて20:20。12時間の行程がすべて終わりました。

ゴルフのお誘い 青目 益博 2016年3月9日

ご無沙汰しております。たぶん皆さんと同様に一昨年リタイアしました。
家では粗大ごみと扱われながら、それなりに楽しく毎日が日曜日を過ごしておりました。
年に数回昔の仕事場の仲間との懇親会などをしている矢先、OBから仕事の話が舞い込んできました。
66歳になって来た仕事とはゴルフ場の副支配人をして欲しいとの事。ゴルフは好きな方ですが、
はたして体がもつのかと不安でしたが引き受けて現在頑張っております。約10か月経ちました。
今では毎日が充実しております。自宅までは1時間15分ほどで帰れますが、
単身赴任で週2〜3日の帰宅で今は独身生活を謳歌しております。
女房も、もう粗大ごみ扱いはしなくなりました。そこで皆さんにご連絡したいと思います。
土曜日、日曜日は予約でほぼ満場ですが、平日は十分プレー出来ます。
然も、20期の仲間で、副支配人(青目)を呼び出して頂ければ、予約、料金、コンペ等なんでも相談に乗りますよ。是非、連絡ください。

ゴルフ場; フレンドシップカントリークラブ 《開場52年目》

所在地 ; 茨城県常総市埼房1955−2 電話;0297−43−7311
携帯;090−5494−0704

アクセス; @ 東北自動車道久喜ジャンクションから筑波方面に向かい境古河で降りて
一般道を行く。【私の練馬の家から約1時間15分】
A 常磐道谷和原で降りて一般道を行く。【約1時間25分】

ゴルフ場の詳細についてはホームページを見て下さい。


ジオラマ展示のご案内 坂江康治 2015年11月13日

今年4月投稿 3年9組坂江康治です。 「もきち」は益々快調、来る12月26、27日「池袋鉄道模型芸術祭」東京芸術劇場5階展示室にて
私の拙作ジオラマが展示されます。よろしければご足労ご鑑賞下さい。入場料500円。
私のテーマは「ゆるまちノスタルジア」 半世紀も昔 僕らが大泉に集っていた頃の風物風景をジオラマにしてみました。
青ペンキの剥げ落ちた校舎が垣間見えます。

最近の大泉高校周辺 藤本 均 2015年8月1日

今年の1月25日初電から西武池袋線の石神井公園―大泉学園付近が上り線も高架になりました。校門直近の石神井公園8号踏切も完全に撤去されました。
その後、高架工事用地になっていた校門北側の土地も元通りになったようです。
シーズンには高架上の電車からも、校門付近の桜並木が見えましたが、桜も歳のせいか勢いがなくなったようで心配です。
3月下旬には校門周辺の模様替えがあったようで、現在は前の歩道から桜並木まで舗装が一体的になっています。校門の表面も若干変わりました。
今、高架の西武線から母校の方を眺めると、新しい校舎の線路向きに「都立大泉高等学校・附属中学校」の看板が見えます。
掲出している校章も新しいもので、別の学校のように感じられます。

このスポーツと半世紀…バスケットに感謝をこめて 関屋 収 2015年3月18日

 結婚39周年、会社生活43年、バスケットとは、なんと53年のお付き合いとなった。大泉中学に入学して、部活を選ぶ段階になって、
隣の席の友達が、「バスケに入らないか」と声をかけてくれた。第一志望の卓球部が人気で混んでいた。
背が高くなるというからやってみるか、と入部した。誘ってくれた友人は、間もなく退部したが、私は、続けることになった。
すでに160センチはあったと思われる田中 保らと共に、先輩の指導の下、毎日厳しい練習にいそしんだ。

 高校に進むと、後に東京教育大のキャプテンとなった一桁違うスキルを持った中川 恵と出会った。共に大泉に進学した田中 保、
リレー投稿で登場した堀 勇良、小川 康志、茶室 秀文、茂原 祥一らと共に、良いチームができた。
大学生の先輩がコーチとして指導に当たってくださり、200校以上ある東京都で、ベスト32に入った。平均身長は小ぶりだが、
関東高校など、強豪と呼ばれるチームにも善戦をして沸かせた。石神井高校とは当時から定期戦があり、文化祭などで交流戦を披露した。
冬に皆でスキーに行くなど、厳しいだけではない自由な雰囲気の素敵なチームでもあった。思い出には事欠かない。

 大学時代は、折からの紛争があり、バスケットとは一線を画した。
横須賀の造船所に就職すると、従業員はたくさんいるのに、バスケット部は休部状態とのこと、同期の仲間と相談し、バスケット部を立ち上げた。
高度成長時代ということもあり、若者の定着も目的で、人事が後押しをしてくれた。大阪の住友体育館で、全社大会も開催され、
社の厚生費で年に一度大阪へ行くような時代が数年続いた。オイルショックなど、たくさんの不況を経験し、厚生費の削減で、
部活の援助などはなくなった。しかし、この全社大会を維持しようと、自費参加での、横須賀、東京両チームの対抗戦はいまだに続き、
昨年も選手として参加した。

 3人の息子が、中学生になると全員がバスケット部に所属することになった。
横浜市立のバスケの名門、大道中学で、田臥 勇太とチームメートの次男は共に出場し、全国3位になった。
その2年下の三男も全国ベスト8となり、松山の会場まで日帰りで応援に駆け付けた楽しい思い出がある。
この息子達と、長男が高3、次男が中3、三男が中1の時に、NIKEが主催した全国3on3大会に、ファミリーの部に私を含め4人で出場した。
朝から晩までの戦いで、見事優勝を勝ち取った。その年、NBAの新人賞を取ったJason KiddがNIKEから表彰者として招聘されていた。
表彰を受けた後、子供達とKiddに一緒に撮らせてもらった写真はいまだに我が家で一番の家宝となっている。

 30年前から、社宅の近くの赤井フレンズ、しばらくして、引っ越し先の六浦南ペガサスで、小学生のミニバスケットボールを教えることになった。
これまで最高の成績は、神奈川県優勝、関東大会2位だが、子供達には自分に勝てと教えている。
これまで教えた子共の数は380名を超え、最年長は42歳、最年少は4歳である。チームのスローガンは、写真のチームフラッグにあるとおり、
「さわやかペガサス、されど熱く」で、フェアプレーとファイティングスピリットの大切さを教えている。

こうして、53年を振り返ると、このスポーツは、大きなものを私に与えてくれた。心身の鍛錬はもとより、たくさんの喜びと感動を経験できた。
そしてチームメイト、教え子、教え子の保護者、そして息子のチームメイトにいたるまで、多くの出会いを果すことができた。
中学1年生の時、隣の席に座って「バスケに入らないか」と誘ってくれた友人に、心から感謝したい。

スカイツリー 源(旧姓関根)恭子 2015年4月10日

2015年4月2日、昨夜の雨が嘘のように晴れ、絶好のお花見日和。11時20分に両国駅西口に集合し、
「築地日本海 両国店」で20種の寿司食べ放題のランチ後、シーバスで両国から浅草へ。浅草で30分位のお花見タイム。
添乗員さんの説明の最中に、風が吹いて桜の花びらが…。スカイツリーと桜をバックに写真を撮ったり、
見上げて満開の桜を楽しむ。それから東武浅草駅から電車で一駅、スカイツリー駅に。
スカイツリーに入る前に下から見上げるとやはり高い。中に入り団体集合場所で記念写真を撮った後にエスカレーターで上がり、
手荷物チェック(バッグを開けて中に危険物が入っていない事を確認)後、エレベーターでまず350mの展望デッキまで上がる。
エレベーターは4基あり、壁面がそれぞれ四季を表しているとか。乗ったエレベーターは「秋」鳳凰を思わせる鳥がデザインされ、
TOBUが隠し文字になっているとのこと。
せっかく来たのだからとその上の展望回廊まで一人1030円払い445mまで専用のエレベーターに乗る。
このエレベーターは奥の方が透明になっていて上の機械部分が見えるとのこと。ずっと高いところまでワイヤーが見えてスリル満点。
展望回廊は緩やかな上りになっていて知らない内に一般の人が上れる最高地点451.2mまで上がれる仕組み。
案内図を見ながら、隅田川沿いの桜を上空から楽しんだり、新宿副都心の都庁を探したり…。 
春霞で富士山や横浜のランドマークタワーが見えなかったのは残念でした。面白いと思ったのは、展望回廊にある女性用トイレは
3室あるのですが、待つのは外の回廊。入口に「使用中」表示が点いたり消えたりして利用状況が分かる仕組みでした。
「下界と一緒に写真を撮ります」というコーナーもあり、向かい側からカメラで写す時にガラスの内側でフラッシュが焚かれるので、
ガラスの反射が写らないんだよとは夫の説明。そういえば、団体写真のカメラマンも、このコーナーのカメラマンも女性でした。
展望回廊を満喫したので、展望デッキに下りると春休みのせいか子連れが多く賑わっている。100m下がったせいか、
下の景色がちょっと大きく見え親しみやすい感じになった気がする。ガラス張りの床では、真下が見えてちょっと怖い気がする。
ちなみに係員さんに聞いたら1平方メートル当たり800kgまで耐えられるとのことで、お相撲さんが乗っても大丈夫ですよ、
と笑って教えてくれました。
朝はちょっとひんやりしていたのに、天気が良くなり太陽が出たせいか歩いていると汗ばむほどに。
押上から都営地下鉄京急乗り入れ線で横浜まで、座れて良かったと思える一日でした。