更新 2020年3月4日
2月26日、いずみ会副会長の同期生荒井さんから声を掛けていただいて、母校大泉高校の附属中学3年生に
「職業講話」という授業を2コマ担当する栄誉を頂きました。
生まれて6カ月から22歳まで暮らした大泉の街が、時々は訪ねてはいたものの、今はどうなっているかなと、
30分早い電車に乗って駅に到着し、昔、住まい、通った道を歩いてみました。チェーン店やコンビニなど、
多くは今風の街並みに変わっている中、50年の年月を経て、昔からの姿、名前を留め、生業で今も生きてる姿を見つけた時は
とても嬉しい気持ちになりました。
流石にお寺は強いということで昔、縁日にも行った「妙延寺」。今風の洋品も扱う老舗の「いづみや呉服店」、
何かあると出前を頼んだそば処「松月庵」は共にきれいになったが、本業を離れていません。
当時4階建てのモダンなビルだったNTTは1階にセブンイレブン、民営化の生き残り努力です。
平屋10余坪の都営住宅だった私の家は無くなって6階建てマンション風の区営住宅へ。
昔、佐久間良子もニューフェース時代住んでいた東映独身寮は「大泉東映寮」と名前を変えて残っていました。
我が家から大泉高校までは、歩いて7、8分ですが、西武線が高架になり、正門から見る桜並木は大筋昔の通りでした。
授業は教室でやらせていただきました。「工学(技術)をみがいて世界に商品を!
自分をみがいて世界で活躍を!」というテーマです。
章立てを、Ⅰ.職業をどのように選びますか?、Ⅱ.私の選んだ職業(重工・機械
産業)と歩んだ人生(エンジニアから経営者へ)、Ⅲ.職業の準備段階としての大学、
Ⅳ.皆さんの高校生活に期待する、としました。中高一貫教育の中学3年生は大変優秀、しっかり聞いて、
的を得た回答、鋭い質問、我らが後輩たちは素晴らしいと改めて感心しました。
小一時間の故郷大泉の街の散策、優秀な後輩達との出会い、何とも幸せなひと時でした。
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倍光山 妙延寺 | いづみや呉服店 | |
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そば処 松月庵 | NTT大泉 | |
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練馬区営アパート | 大泉東映寮 | |
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昔の通学路:正面に高架化した線路 | 母校と附属大泉中学 | |
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附属大泉中学3年生:よく聞いています | 先生役は幸せそうです |
① 竪穴式住居は3,4年生になったら昔から誰でも見学に行くものだと思ってた
小学校3年生か4年生のころだったと思う。ある日授業で「竪穴式住居」というのを見に行った。
詳しくは覚えていないが、通っていた練馬区立開進第二小学校から立教グランド(今は城北中央公園というらしい)まで
子供の足で20分くらいだから、あの貧しい時代、今の小学校のように貸し切りバスなど使うのではなく歩いて行ったのだと思う。
土を1mくらい円形に掘り下げた住居跡と、それに円錐形の屋根をかぶせて再現した住居が並んでいるのを見て、
山腹に横に洞穴を掘ったものを「横穴式」と言い、縦に1m掘り下げたものを「竪穴式」というは、
ちょっと無理があるなと思ったのを覚えている。もっとも竪穴と横穴の解釈がそれでよいのかは今でも定かではないが。
とにかく竪穴式住居を見た後、鬼ごっこをしたり野山を駆け回ったりして遊んでから学校へ帰った。
そもそも何でそんなものを見に行ったのか。きっと社会科の授業で大昔の石器時代のことを習うので、
誰でもこれくらいの学年になると決まって見学に行くのだろうと思い込んでいた。
ところが3年くらい前にインターネットで探し物をしているとき、何かの拍子で「立教タイムトラベル」というページに出くわした。
それによると立教大学がかの地にグランドを作ったのが1956年で、その過程で竪穴式住居跡が見つかったとのこと。
ということは、僕らが見に行ったのは発見から3,4年後ということになるので、
誰でもある学年になったら見に行くというしろものではなく、担任の先生がその当時の最新の情報に
児童を触れさせよう思ってしてくれた課外授業だったのだろう。まったく、親の苦労子知らずとはこのこと。
先生、先生の親心を理解できず出来の悪い生徒で申し訳ありませんでした。
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② 古典「歴史の研究」はインテリの必読書だと思ってた
思い込みをもうひとつ。これも3,4年前になるが、読んでいた本の注釈欄に「歴史の研究 アーノルド・トインビー著」
という言葉をみつけ、半世紀前の学生時代の記憶が急によみがえった。
あの当時、この本を読むことがインテリへの第一歩、ないしは学究たらんとすればこの古典は必読と思い込んでいた
(結局インテリにはなれなかったけど)。インターネットは影も形もなく、理工系の学生だった私が、
なぜそんな風に思い込んだのだろう。大学生協の本屋に宣伝文があったのか、それとも意識高い系の友達から吹き込まれのか。
いずれにしろ、実際には見たことも手に取ったこともなく、いつかは読まねばと思いつつ、いつのまにか忘れ去っていた。
幸い職場の図書室に蔵書があったので借りることにしたのだが、地図や索引をいれると25巻もあり、
一巻が400~600ページもある。とりあえず第一巻を借りてみたのだが、ギリシャ神話と宗教から話が始まるので半分も理解できない。
理解が進まないうえに一巻が厚いから2~3か月かかって読み終えるころには、前半の内容を忘れてしまう始末。
読み終えるまで、3年半ぐらいかかったのだが、頭に残ったのは昔の宿題をどうにか終えたという自己満足だけ。
どうして当時こんなものに興味をもったのかが分かったのは、各巻に挟まっている5~6ページのパンフレットを読んだとき。
それによると、1930年代から始めた執筆が完了し、日本での翻訳も終わって日本語版の「歴史の研究」が出版されたのが、
ちょうど我々の学生時代。宣伝もかねて当人も来日したとのこと。
そんなこともあって、いろいろな宣伝がなされた結果、受け手のこちら側が勝手に「インテリ必読の書」の前に
「古典」とつけてしまったらしい。またこのパンフレットには、産業界の重鎮が採算を度外視して世のため人のため
出版に骨を折った様子も載っていた。昔の金持ちは偉かったね。いまの成金は六本木で怪しげな豪遊するか、
女優のネエチャンとプライベートジェットに乗るのが(ゴーンさんも利用してますが)、関の山みたいだけど。
まあー、ひがみと言えばひがみですが。
Anyway, 結果的にバケットリストにある一つがクリアされたのは、私にとってめでたいこと。
残された時間は減っていくいっぽう。さあ、次の項目に取り掛かるとするか。
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近況報告の前に、私が現在関わっているJICA(日本海外協力機構)から資金を得て実施しているプロジェクト(PJ)活動に
加わった「きっかけや縁」について書いてみたいと思います。
私は、1968年に大泉高校を卒業したのち、子供の頃から理科の実験が好きだったので、大学は工学部応用化学科に
進みました。教養課程を終了後、慶應義塾大学の梅澤純夫先生の研究室でアミノ配糖体の合成研究や土壌微生物が
産生する新規医薬品候補化合物の探索研究を行いました。土壌中の微生物が産生する「カナマイシン」などの抗生物質や、
「ブレオマイシン」などの抗癌抗生物質の発見で有名な梅澤浜夫先生(東京大学医科学研究所教授、微生物化学研究所長)
は梅澤純夫先生の実弟です。1975年3月に大学院修士課程を修了し、同年4月から、関西の製薬会社の研究所で
創薬研究・工業化研究をほぼ30年間行い、その間に手掛けた土壌中の微生物が生合成的に造り出す新規化合物の単離は
14種に上ります。それらの化合物のいくつかを論文としてまとめ、Journal of Antibioticsなどに投稿し、最終的に自身の
博士論文としてまとめ、出身大学に提出し、審査をパスし工学博士号を取得できました。
そのうち医薬品として開発し発売に至り、病気で苦しむ人々の役に立った化合物は3種あります。
1)免疫抑制剤:移植時の拒絶を抑制したりアトピー性皮膚炎の治療に使われたりする薬(プログラフ、一般名:タクロリムス)
2)抗真菌剤:高齢や病気などのため免疫が低下した方の肺などに感染し、最悪の場合死に至らしめる真菌感染症を
治療する薬(ファンガード、一般名:ミカファンギン)
これら2種の医薬品は自社開発品として日本だけでなく海外にも輸出されました。
3)HDAC阻害活性を有し皮膚がんの治療薬(ISTODAX、一般名:ロミデプシン)となり得る化合物として、米国の
ベンチャー企業に導出し、製品化されました。
この様に、子供の頃に抱いた医者になってがんを治したいと思った夢を膨らませ、結果的に一人ではとてもできなかっただろう
望外の成果を得られました。これらを諸先輩や仲間、後輩と共に成し遂げたことで、より大きな喜びとなりました。
製薬会社在職中に、財団法人日本生物工学会の副会長に推挙され、学会活動がスムーズに行えるように微力ながら
尽力しました。また、製薬会社を退職する前には、企業の社会貢献活動を行う公益財団法人アステラス病態代謝研究会で、
医学・薬学系の大学の先生方や医師の皆さんの研究助成金や海外留学補助金などの交付や、色々な患者会活動を
支援する助成活動に財団事務局長として関わりました。更に、企業の社会的責任を果たすための活動を計画立案し、
CSR部の部長として実施を牽引しました。
そして、65歳で退職後、そんな経験を生かして何か社会に役立つボランティア活動をしたいと思っていたところ、
大学時代の研究室の後輩から電話がかかり、「現在、国立感染症研研究所寄生動物部・野崎智義部長が、
インドネシアの国立研究所や国立大学の研究所の研究支援のため、JICA(国際協力機構) の
SATREPS(地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム)の予算を得て活動している。
しかし、微生物が産生する医薬品に成り得る可能性を有する化合物を見出し、高純度の活性物質を単離し、
その構造を決定したり毒性や有効性を調べたりする経験者が少なく、研究が滞っているので、それら研究所や
大学の研究員や学生達(主に留学生)の指導をしてくれる人を探している。海外での活動については渡航費やホテル代、
日当などの必要経費は出るが、国内での活動については交通費だけしか出せないということですが、
それでも引き受けてくれる人が居れば紹介して欲しいと頼まれました。どうでしょうか。」という趣旨の内容でした。
私の大好きな分野の研究に関われるし、これまた大好きな「若い人の教育・育成」ということで、2つ返事で引き受けました。
こうして私は、野崎先生が東大に移動し研究を再開することができるようになった、2017年6月から、
JICAのSATREPS(地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム)の「インドネシアの生物資源多様性を利用した
抗マラリア・抗アメーバ赤痢新規薬剤リード化合物の探索」というPJにボランティア参加しています。
年に数回、インドネシア・ジャカルタ郊外の国立研究所およびスラバヤのアイルランガ大学の熱帯病研究所で
「微生物二次代謝産物の精製指導」をしています。
日本においても、東京大学大学院 医学系研究科 国際保健学専攻 生物医化学教室(野崎智義教授)において、
客員研究員として、熱帯地方の国々からの留学生に対し、インドネシアと同様の指導を行っていて、
とても充実した日々を送っています。
興味がありもう少し詳しく知りたいと思ってくださった方は、「財団法人日本生物工学会化学会」からの依頼を受けて
私が執筆し投稿したものが、PDF版として学会HPに掲載されています。それにアクセスしてご覧いただくか、
小山恵一郎さんが管理・運営して下さっている「大泉高校20期同期会HP」にそのPDF版を掲載して下さると思いますので、
ご覧頂ければ嬉しいです。
元々、醗酵や生物工学分野の情報に触れる機会が少ない若者が、自分の将来の仕事について色々と考える時の
参考にして頂くための企画として始まったこのシリーズです。皆様のご家族、お知り合いなどにそのような情報を
探している若い方がいらっしゃいましたら、日本生物工学会のHPにアクセスして、大学・企業などで生物工学関係の
専門家として長く働いた経験をお持ちの先生方・経営者の方々が「バイオ系のキャリアデザイン」シリーズに
投稿された文章が沢山掲載(公開)されています、若い方々の進路選択・決定のお役に立つのではないかと思いますので、
ぜひご紹介して頂ければと思います。
「微生物が誘いざなってくれた豊かで充実した研究人生」(ご覧になるためにはpdfリーダが必要です)
9705_career_history.pdf へのリンク
私の父は大正11年生まれ、子供時代はめんこ、ベーゴマ、青年期からは囲碁、将棋、麻雀と遊び(勝負事)の大好きな人だった。
大泉高校の同期生が大学生になって我が家に来ると一緒に麻雀に加わって遊ぶこともあった。多くの遊びを私に教えてくれたが、
中でも凧揚げは、昭和30年私が小学校に入るころに、主に正月の遊びとして、父が私に伝授した。
大泉高校と東映撮影所(現在のOZ)の間にあった私の家の周りは畑で、冬枯れ霜柱のあぜ道があり、凧揚げには格好の場所であった。
当時は、凧と言っても和凧が主流で、和紙と竹ひご凧糸と、紙や糸でできたしっぽから成り立っていた。
芯を出して揚げるには、結構な知識と経験、技術が必要で難しい遊びだった。「誰の凧より高く揚がる凧でなくてはならない。」と、
凧糸だけは長い糸を用意しその高さを競った。
父は退職をして竜ケ崎市の牛久沼の近くに住むようになり、正月に家族で訪ねると、孫3人分として3つの凧を用意して
迎えてくれるようになった。昭和60年ころである。和凧はゲイラカイトと呼ばれるビニール製の洋凧に変わった。
芯だしの要領も簡単になり、上げやすい凧に変わったが、小貝川の堤防沿いの広い芝生の広場で、ここでも誰よりも高く揚げた。
それから約30年、平成25年ごろから今度は私が孫の凧を用意して正月を待つようになった。洋凧、ゲイラカイトが原型だが、
アンパンマン、妖怪ウオッチ、ミッキーマウスと絵柄は年齢に見合って多様。芯の出し方も、
強い風用・弱い風用の孔が選べるようになっており、顧客視点で簡単な遊びとなっている。
我が家は誰よりも高い凧を目指して長い糸を用意して臨む。横浜市金沢の海の公園は砂浜でここも格好の凧揚げ場所になっており、
ここでの凧揚げは正月の我が家の3世代参加の恒例行事となってきた。
孫達の空への憧れを、凧揚げが満たしてくれそうな気がする。競合は、紙飛行機、エンジン飛行機、ドローンと進化しているが、
シップルなこの凧はなかなかしぶとい。父から私へ、私から子達へ、そして孫達へ。
来年、令和初めての正月も、我が家の凧達が海の公園で元気に、誰のよりも高く揚がることになりそうだ。
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2019.1.2 海の公園 3つの凧 | 2019.1.2 海の公園凧揚げ 遥都と | |
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2019.1.2 凧揚げ 2 | 2019.1.2 凧揚げ |
小林さんの個展が開かれるというので、ギャラリーへ足を運びました。
およそ30点ぐらいが展示されていました。風景画が中心で、静物画もありました。
さらにお孫さんの絵もいくつか・・
小林さんは4年前にも個展を開いていますが、今回の作品はそれ以後のものだそうです。
ここに展示されている絵だけでも、4年間に描くことは随分と時間がかかったことを考えると、
趣味としても絵画に多くの時間をかけていることがよくわかります
絵のモチーフは、旅で出会った風景です。
フランス、ドイツ、イギリスなどを描いた絵が多く、海外いろいろなところに出かけていることもよくわかります。
日本の風景の場合は、木々の緑を主体とした絵が多いと思いますが、小林さんの絵では、中世からの城や石の建物でできた街並み、
教会の尖塔など、ヨーロッパならではの風景が多いようです
ギャラリーでは、それぞれの絵の作り方、色遣いの工夫など、絵を描いた人でしか語れない話をいろいろと聞いてきました。
油絵も趣味としては独立した次元の世界があるなあと思いました。
また、次の個展で新しい作品を見ることを楽しみにしています。
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2019年4月11日~16日
オレンジギャラリー
豊島区西池袋1-9-11-103
2019年2月17日(日)中学時代の仲間と大泉・石神井公園を散策しました。
大泉学園駅の改札口に12時半に集合し、最近大泉学園駅北口にできたグランエミオ3Fのファーマーズガーデンで
ビュッフェスタイルのランチをとりました。面白いのは、パンケーキやソフトクリームなど自分で作る形式のものがあること。
なかなか自分でソフトクリームを盛ることはないので楽しい経験でした。
食事中、話題に上った北口のKさんが住んでいた所(その向かいに私も中1まで住んでいたのですが)を見に行くことになりました。
大泉の南口の変わりようは実家に来る度に見ていた私ですが、来ることもなかった北口の変貌ぶりには驚いてしまいました。
駅の近くでも静かな住宅地だったのですが、今や商業ビルの多い賑やかな駅前になっていました。
踏切がなくなり地下に潜った道を通り南口のバス通りへと歩いていると自分がどこにいるのか分からなくなってきます。
子供の頃毎日通っていた道へ出てきても、知らない場所のようです。
牧野庭園へ行きました。最近放映された、牧野富太郎博士の生涯を取り上げたTVを見た人も多かったようです。
高校生の頃に訪れた時は古い家が奥の方にあったのですが、今は周りをコンクリートの建物が覆っています。
庭には以前見つけた牧野博士が妻の名にちなんでつけたスエコグサは、見当たりませんでしたが、福寿草の黄色があざやかでした。
学校の手前にあったラーメン屋さんは店じまいをしたし、向かい側にあって文房具を扱い、
木村屋のパンを取り次いでいた関口商店も今ではマンションになっているようです。母校も今は中高一貫校になり、
グラウンドで練習している野球部も中学生と高校生で、教えているコーチも外部の方の様でした。
小学校と共有していたプールは小学校が使い、新しくプールができていました。テニスコートの位置は変わっていませんが、
全天候式のコートでローラーをかける必要はなく、今の部員は楽だなと思いました。
「ここに体育館があったね」など昔の記憶をたどりながらの母校訪問でした。
大学の寮がある方の門(今はこちらが正門)から出て、石神井公園に向かいます。1年1組だった人は
道徳の時間に担任の先生に連れられて石神井公園に行ったと懐かしそうに話していました。
元日銀グラウンドだったところは、今は「石神井松の風文化公園」に変わり誰でも入れる公園になっています。
ふるさと文化館(分室)で「練馬区ゆかりの漫画家」展をやっていたので入ってみました。
「火の鳥」「あしたのジョー」「銀河鉄道999」「カムイ外伝」等々、高校生や大学生の時に夢中になって読んだ漫画が並んでいます。
皆、懐かしそうに眺めていました。また石神井に住んでいた檀一雄などの文学者についても展示されていました。
三宝寺池が見えるあたりに来ると昔の面影そのままで、オオバンやカルガモなどの水鳥が元気に泳いでいます。
東屋の方へ池を周り、石神井城址の石碑(初めて見ました)の所で記念写真をとり、茶店を左手に見てボート池側に。
ふるさと文化館では、練馬大根や昔の農機具、水車なども陳列されていました。
「うどんは終わっちゃった!」という声に休憩室を見ると武蔵野うどんが提供されているようです。
お土産を見ていると学園町に住んでいる友人が、家の近くにあるローレライ洋菓子店のお菓子だけれど、美味しいよと教えてくれます。
ふるさと文化館の窓から見えた茅葺屋根の家、明治20年代に練馬区中村に建てられ移築された旧内田家住宅へ足を延ばしました。
子供の頃は、家の近所にも茅葺屋根の家があり、広い庭では農作物を干したり、牛を飼っていたことを思い出しました。
ボート池にはスワンなどの足漕ぎボートが多く、手漕ぎのボートは少ないように思えました。
打ち上げは石神井公園駅北口の鳥よしで、全員参加で食べて飲んでしゃべって・・・であっという間に時間が過ぎてしまいました。
自分が生まれ育った町なのに知らなかったことが多いのにはびっくりしました。
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