更新 2009年10月7日
リレー投稿だそうです。
バトンを落としそうになりましたが、何とか持ち直して投稿します。
さて、ノリピーこと酒井法子が、湾岸署の留置場に何と40日間も居たということで思い出しました。
そうだ、私も40年前の10月21日から4日間、浅草署に居たことを。
ただ私の場合、たった3泊4日で保釈金も払わずに出てきました。もちろん覚せい剤じゃありません。
その日(1969年10月21日)、私は国際反戦デーということで、池袋の東口の公園に結集したデモ隊の中にいました。集会で、行きがかりから、デモ隊の先頭を、旗持ちとして歩くことになってしまいました。仲間の一人が「連帯」というバカでかい旗をつくってきたのです。
何故私が持つことになったのか、理由は分かりません。旗をつくった本人が、前のデモで捕まったので、今回は捕まりたくない。
まだ捕まってないスドウ行け、てなことだったように思います。昼過ぎにデモ隊は出発。明治通りを南下しました。
デモ隊は4・500人、もっといたかもしれません。ノンセクト、べ平連系の学生が主体のデモでした。最終目的地は明治公園か日比谷公園だったと思います。
その日は国際反戦デーですから、様々な会場から、同時多発的にデモ隊が出発し、首都圏を革命的状況にする、とか何とか言っていたように思います。
前年の同日、新宿は駅に、線路にデモ隊が入り込み、大変な騒ぎになり、始めて騒乱罪が適用となりました。
私はといえば、デモの先頭で大きな旗をもって明治通りを歩いていきました。旗持ちは10名くらいいたでしょうか。後ろにはデモ隊の隊列が、ジグザグをしたりしてついてきます。出発して1時間程した時、前方の十字路を警察車両が何台も右折してゆくのが見えました。
次の交差点で事前検挙があると思い、デモ指揮にそのことを伝え、ジグザグを一時的に止め、整然と(と言っても隊列を組んで)交差点に入りました。
案の定、機動隊がわっとかかってきました。あれよあれよという間に、旗持ち、デモ指揮に機動隊が襲いかかり、気づくと手錠をはめられ捕まっていました。
そして牛込署へ。私は牛込の2号と呼ばれ、私を捕まえた機動隊員と一緒に記念撮影をし、指紋を採られ、再び護送車に乗せられ、着いたところは浅草署でした。
すぐに身体検査をされ、ベルトを抜かれ、留置場へ。留置場には先客が2名いました。その日の夜に1名増えたので結局一部屋4名でした。
留置場は鉄格子付き、広さは4.5畳から6畳くらいでしょうか。奥に便器がありますが、自分では流せません。外の監視所にいる看守に、「**房、便水願います!」とお願いすると「よっし!」と言って流してくれるのです。トイレさえ自分で始末できない。捕まるということはそういうことなんだよ、と教えているようです。一緒の房に居た先客2名は泥棒さんでした。後から入ってきたのは反戦青年委員
会(中核系の強者)の活動家。その日から奇妙な4人の生活が始まりました。活動家のお兄ちゃんは筋金入りですから、房でもあまり喋りません。取り調べも完黙(完全黙秘)です。私は始めから、捕まったら言えることは喋って早く出ようと、仲間と申し合わせていました。名前、住所、大学名等、話せることはぺらぺら喋っていました。それでも、仲間の名前、組織の詳細等については、きっぱりと話さないと言っていました。
取り調べは、当初は相手が警官ですから、どうということはありません。なんせその日、全国で2000名以上が捕まったのですから。
私を調べた警官も、通常は泥棒やスリを相手にしていると見えて、あれこれ理屈をこねると納得してしまい、最後には感心していました。
ただ、検事の取り調べはそうはいきません。百戦錬磨の連中ですから、一筋縄にはいきません。
それでも、留置場での生活が2日、3日と経つと、少々不安になってきます。ここから本当に出られるのかどうかと。そしていつ、その日が来るのだろうと。
少なくとも私の身柄は、警察が押さえているのです。不自由ということを、この時程感じたことはありません。
取り調べが終わり、房に帰ると、することはありません。食事まではボーとしているか、泥棒さんとお話をしているかです。
そして食事。これが不味いのです。臭い飯とはよくいったもので、麦飯で、おかずはヒジキや切り干し大根。
今思えば大変健康的なのですが、味が不味い、それに多少ストレスもあるので食欲もありません。おかずを残すと泥棒さんが聞いてきます。
「どうしたの、それ食べないの?」 「えー食べられないんです」。すると、「もらって良いかな」と言います。「残り物で良ければ」と言う と、「悪いねー」と言って食べてくれます。「良いよなー、君たちはすぐ出れるから。俺たちは数年は娑婆には戻れないよ」。私は何と言って良いか分かりませんでした。
そうこうしている内に、4日目がきました。**号出ろと言われ、腰紐を巻かれ署長のところへ連れて行かれました。
そこで腰紐を解かれ、説教(こんな所に二度と来るんじゃないぞという常套句)を聞き、捕まった時持っていたもの(ヘルメット、旗を除く)を返され、釈放となりました。結局不起訴です。たった3泊4日の留置場体験でしたが、生涯忘れることはありません。実は私の父も戦前、マルクス研究会とやらに参加し、特高に捕まり、私よりずっと長く、半年ぐらい留置場にいたのです。私が家に戻ると、父がどうだった?と聞いてきました。「寝られたか?」「アー寝られたよ」。と言うと、「そうか、俺のときは留置場に大勢入っていてな、中には横になれなくて、立っていた奴もいたよ。それと比べれば良い思いをしてきたな、フッフッフッ」。
ただこの話しには後日談があります。出てきて2週間くらいした時、家に警視庁の外事一課の刑事が二人訪ねてたきました。
任意で話しが聞きたいので練馬警察まで出頭して欲しいということでした。弁護士に相談しましたが、まー行ったらというので練馬警察へ行きました。
ここでの取り調べはしんどかった。結局一日近く取り調べ室であれこれやられました。それに、家のこと、大学のこと等、詳しく事前に調べ上げていました。
聞き込みをしたようです。向こうは私が、べ平連の組織に深く関わっていると、疑っていたようです。それで、名前とかを喋って、わざと早く出てきたのではないかと勘ぐっていたようです。結局は的外れだったのですが。当時、ベトナム戦争に従軍していたアメリカ兵を、べ平連が独自のルートで北欧へ逃がした事件がありました。そんな事から、警視庁はべ平連には神経質になっていたようです。
さて、酒井法子は40日も、あんな不味い飯を食べていたのかと思うと、彼女はなかなか強者だなと思います。
以上下らん話しでした。
さて、女性からバトンが来たので女性に返したいと思います。
京都大学で研究活動している才媛、木村邦子(佐々木邦子さん)さんにバトンを渡したいと思います。
では木村さん宜しく。バトンを落とさないように。
「リレーエッセイ指名したから」と加藤君から過去形で連絡がありました。「ゆっくりで大丈夫だから」ということだったのに、催促、催促、・・・
仕事から帰ると同居している両親の介護、歩いて2分のところにすんでいる息子の息子が9月3日に生まれて、休日は手伝いの日々です。そんな事情もあって遅くなってしまいました。お許しを!
皆さんに倣って私も仕事の話を。知的な障害がある人たちと一緒に働くようになって13年半になります。「福祉作業所」というところです。1つのことを10年やるとプロになれると聞いたことがありますが、私も資源回収のプロ、ショッピングバッグ(手提げ袋)作りのプロです。古新聞を倉庫に5段積みできます!私の仕事の楽しみは、もちろん利用者との関わりです。特別支援学校(旧養護学校)を卒業して作業所に入所したはじめの頃、職員は試されます。自分のやり方(場合によってはわがまま)が通るか、信用できるか。もちろん障がいがあるので、そんなことは自覚していませんが、ちゃんと見抜きます。
職員は、「ダメはダメ」と毅然と、そして、その人をしっかり受け止めます。人と人との関わりは日々真剣勝負です。泣いて(私は泣きませんが)、笑って、怒って、取っ組み合って信頼関係が築かれます。
コミュニケーションが上手でない人もいます。そんな人とも気持ちが通じ合ったとき、ほんとに嬉しい気持ちになります。そんな密な関係を20人もの人たちと持つことができて、とてもしあわせだと思っています。来年3月で定年退職です。楽しいエピソードは山ほど。それは、また飲んだときにでも。
で、次は、須藤君にバトンタッチ!「やだ!」と言っているので、ちゃんと書いてくれるかな???
リレー投稿承りました、加藤伸一です。
夏休みも終わってしまいました。 夜久さんから、バトンを受け取っちゃったので、実は今「会社」で、これを書いちゃったりしてます! WOW! まっ、たまにはね!
私は3年6組出身です。 理科系の大学に進み、その後、日産自動車に入社、機械系出身にもかかわらず、「電気自動車がやりたい」などと入社時に「希望」を書いたら、「自動車の電気系統の設計部署」にいれられ、畑違いの仕事をするはめになりました。 しかし、畑違いの仕事というのも、考えようによっては、悪くないなぁ、と思っています。 まわりは、電気・電子出身のエンジニアが多いので「機械系」の話になれば私の独壇場、私を信頼してくれて、決定に従ってくれます。 設計というのは 電気も機械も化学も、総動員してかからなければならないですから、 たとえ電気関係の部品といっても「機械系」が活躍できる場所は多いにあるということですね。 爾来(地雷じゃないですよ!)電気関係の設計に携わり続けてきました。
最近になって ゴーン社長は「電気自動車」に力を入れ始めています。 トヨタのハイブリッド戦略に対抗する狙いなのでしょうが、それはそれとして、 私が入社時に「希望」した「電気自動車開発」を、細々とでも続けていたら「日産自動車」は、いま、世界のリーダーになれたかもしれないのに! などと、つぶやいている今日この頃です。
ところで、私は2002年に日産を退社し、いまは、自動車部品メーカーの「矢崎」というところに勤めています。 定年は63歳なので、あと3年ほど勤めるつもりです。 現在は「品質管理」や「環境」に関わる仕事をしています。 「設計」とは、ちょっと趣の違う業務ですが、基本は同じですね。 サラリーマンは、最初の10年くらいは、必死に担当業務をこなして、一人前になります。 そうなると次は「マネジメント」をしろということになります。 つまり、主任とか、課長とかいう職務に就けば、人を管理する、お金を管理する、仕事を管理する、などの「管理」業務が 増えてきます。 もちろん「専門職」を目指して、担当業務を究める「手」もあるにはありますが、普通の会社では、それでは、あまり「お給料」は増えません。 もちろん「専門職」を優遇する会社もないことはないですけど・・・。 ちょっと、話がそれますが「世紀の大発明」青色ダイオードを開発した 何とかさん(名前忘れちゃった) 訴訟に勝って、200億円、会社からせしめたとか・・・まぁ「世紀の大発明」ですから、えらい!というほかありませんが、そんな「専門職」になれる人は 1億人に一人くらいってことですね。 それも「訴訟」しての話ですから。 泣き寝入りしている「専門職」が1万人くらいは いると思います!
話を戻して、「管理」業務のなかで、何が一番大切と思います? 「人の管理」ですよね。 なにせ、やる気のないやつ、やる気はあるけど実力のないやつ、やたら要領はいいけど、まわりには疎んじられるやつ、ともかくいろんな人がいて、その人たちを どのようにして最大限働かせるようにすればよいか、 これが「管理者」の最も大切な仕事になるわけです。 ですから、どんな部署に配属されようが、やることは同じだと思います。
いまは、地球規模で重要なテーマになりつつある「環境」という仕事に従事できて、幸せです。 私の職場にいる人たちが 命令された仕事を淡淡とこなしているのではなく、地球を守っているのだ、という意識を持って仕事できるよう、てなずけているところです。 (なんか、犬の調教みたい!??)
なんだか、つらつらと書いていたら、ほとんど仕事の話になってしまいました。 人生60年、そのうち、35年以上も仕事してたのですから、しかたないか! (業務中でもあり、今日はこのくらいにしときまぁす)。 ということで、次にチャンスがあったら、趣味の話でもしようかな(ヨット、ピアノ、ギター、(POPS & JAZZ!)囲碁、など どれを語らせても、しつこいくらい話できますよ!)
ということで、バトンは誰に渡そうかな・・・こないだ久々に会った「井上さん」にしようかと思ったけど「筆不精」という噂もあるので・・・うーんと・・この前あったのに、ほとんどしゃべらなかった、牧川真理子さんに 渡しちゃいます、じゃあね!
中川紀代子さんからバトンを渡されたのですが、落としてしまいました。コロコロと遠くまで転がって行ってしまったバトンを取りに行っていて時間が経ってしまいました。
夜久有滋です。少し自己紹介です。今は千葉県の野田市で耳鼻科の開業医をしています。今年で開院20年です。当然皆さんと同じ還暦を迎えます。また、7月11日に長男夫婦に♂の初孫が生まれました。こうしてみると何となく型どおりの人生を送っているよう見えるので少しホットしています。医師は定年が無いのでまだ現役で以前と同じように仕事を続けております。
私は耳鼻科でも外科系が専門で、開業前は栃木ガンセンターの頭頚部外科に勤務していました。耳鼻科領域の癌の専門医でした。それなりに充実した勤務医生活を過ごしていましたが、40歳近くなるとさすがに体力的にはまだ問題は無いのですが、気力的に疲れてきました。癌専門病院では当然患者さんは殆どが癌患者さんです。まるでモグラ叩きのごとくに一時は治っても再発や転移、また他の臓器に新たに発癌とかで、なかなか明るい話がありません。
また今では問題になっていますが、当時は医師の残業は当たり前で、残業手当を全て計算するととんでもない額になりますので、いわゆるサービス残業は当たり前でした。三人の息子もいますし、両親は千葉県に住んでいましたし、このまま栃木の宇都宮で勤務医を続けていていいのかな?などと一家の主として少し考え始めた頃、千葉県野田市で耳鼻科の医院を居抜きで貸して下さるという話が来まして、これ幸いと40歳で開業した訳です。開業当初は右も左も判らず、埼玉県越谷市で既に開業していた3年6組の登坂 薫氏に大変お世話になりました。本当に有り難かったです。この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。
大学(千葉大学)を25歳で卒業して35年間走り続けてきた感じでしたが、最近は歳のせいか走れなくなり、歩くようになると周りの景色が見えるようになって、同時に仕事(診療)が楽しくなってきました。7月1日の開院日には毎年花を贈ってくださる栃木の患者さんの家族があります。これが20年も続いています。感謝の気持ちで一杯です。開院当初幼児だった子が自分の子供を診てもらいに来てくれます。親子で診察に来ることもしばしばです。結婚しても里帰りする度に診察にくる患者さんもいます。親子三代患者さんも珍しくありません。職員は5人ですが、勤務10年~19年が4人で、あとの一人は2年目の23歳です。さすがに60歳からすると23歳はとんでもなく若く、先輩職員から「先生最近若返らせてもらいましたね」と揶揄されています。しかし、残りの4人も20~30歳から勤めていますので、今ではまるで家族のような感じで、こちらが雇用主というより職員に働かされているようでもあります。これもまた悪い気はしません。患者さんと職員に生かされているような感じです。今後はこちらもボケていきますので、こういう関係もまた悪くは無いと思っています。診療中にお漏らしするようになれば廃業ですが、どこまで医者が勤められますか、半分楽しみながら続けて行きたいと思っています。
3人の息子達が家を出て行くまでは敢えて借家生活をしていました。開業医としてそれなりに稼がせて貰いましたので、夫婦二人の生活になってマイホームを建てました。6年前です。新居が完成して、引っ越してから息子達に「もう帰る家は無いよ。」と連絡しました。今の家は残りの人生を夫婦二人が趣味と活動を生かして生活するための最低条件で建てました。どうしてもという場合に一人がやっと寝泊り出来るスペースのみ確保してありますが、客間、応接間など余分な設備は全くありません。興味がある方は「夜久邸」でgoogleしますと,トップにハローアーキテクト:Glass in house 003でヒットしますので覗いてみて下さい。昔のサボテン栽培の趣味も復活させています。
さて、次のランナーは加藤伸一氏にお願いしました。
七夕の日にロンドンへ戻って来ました。着いたときは最高17度で涼しくほっとしました。ここ2-3日は22-3度あります。
私としては、1ヶ月の介護里帰りを終えくたくたで、完全に回復するのに時間がかかる予定〔双子の孫が生まれる予定で前途多難)ですが、とにかく4日の同期会に無事出席できて感無量です。随分前から根回しをして、久し振りに集まる計画でしたので、皆元気で再会を果たせて満足です。このときの写真(紅一点!)を早速小山さんにアップしていただきました。井上茂さんとは多分32年ぶりだと思います。仙台から日帰りで来てくれました。パラグアイ在住の伊賀上さんとも約束をしていたのですが、結局帰国不可能となり大変残念です。彼と会えたら多分40年ぶりくらいだったと思います。次回は是非会いたいです。
沢山の皆さんが同期会の感想を述べられていて、皆さんとても楽しかったようでよかったですね。思えば最初に同期会を始める前に、私と関屋さんとでお互いの付き合っているサークルを合わせて、まずは消息調べから始めたのがついこの間のようです。1987年の第1回から今回の第5回まで22年も続いてきたのですね。今年は皆還暦になる年で、世話役の方々のお骨折りで本当に楽しい会になりました。これからは4年後、3年後と間隔を短くするそうですが、元気で出席できるように健康管理に気をつけて、なるべく長く出席していきたいものです。
同期会のときに私が提案したリレー投稿ですが、夜久有滋さんにバトンタッチします。これから投稿の輪が広がり、少しでも管理人の小山さんが楽になるよう祈っています。もちろんリレー投稿にこだわらず、いつでも投稿は大歓迎です。20期のHPが益々活発で楽しいサイトになるよう、みんなで盛り上げていこうではありませんか。
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