更新 2015年3月28日
3年9組 坂江康治です。 仕事はビルの管理人です。 近況報告します。
1) 「もきちのきもち」
模きちの気持ち、鉄道模型きちがい、ぼくのことです。 高校時代は隠れ鉄っちゃん。しかし皆さんに語ることはほとんどありませんでした。
ある夜北の窓から赤く光る流れ星を発見。ぼくは「模型家」になると約束しました……かな?
作品は鉄道のあるジオラマのことですが、32ミリゲージの車両・ストラクチャ(たてもの)・フィギュア(人形)に至るまですべて手作りによるものです。
不思議なホッコリ感に癒されると、 女性ファンが急増中です……かな?
今年は 東京ビッグサイトにて「国際鉄道模型コンベンション」8月21~23日 池袋芸術劇場にて「鉄道模型芸術祭」
12月26~27日 是非一度ご来場下さい。
2)「孫きちのじいじ」
孫自慢する人が多い中、ぼくもします。 2歳の女の子なゆちゃん。キラキラ妖精のよう。 おじいちゃんに似てなくて良かった……だって
3) 「ながしまくん」
3年9組永島祥一君が2月10日逝去されました。 ラグビー部俊足ウィング。よく山やスキーに行きました。
病気をおして模型コンベンションにも2回来てくれました。とても朗らかな好青年でした。
4) 「あるいてゆこう・~」
他に趣味…山あるき 街あるき 寺廻り 復活したテニス(バレーはすっかり忘れた) クラッシクを聴く(オケの大迫力が好き)
いずれお遍路したい1400キロ
この間九組琴坂元子さんと秩父宝登山に行きました。また行こうと約束して。
5) 「人見知りしませんでした」 昨年7月ミニ同期会 偶然となり合わせた人見敬子さんと知り合いになりました。
彼女著名な作詞家。CDアルバムを譲って頂き、ぼくが聴き役になると約束。就寝時毎日のように聴きました。
すかさず「寝ながら聴くとはケシカラン」というクレーム。めげずに継続中です。
一節より
約束は信じること 今日の自分をため すこと 明日の友情守る こと 言葉の魔法を 借りて
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皆さんご無沙汰しています。男子バレー部の小笠原です。男子バレーのメンバーはシャイな人が多く、
私が代表して近況を投稿させていただきます。
1)大泉高校バレー部
私は高校卒業後も大学、社会人とバレーボール部活を続け、大泉高校でもコーチをしていた時期がありました。
残念なことに大泉高校男子バレー部は部員がゼロになり、以前顧問をしてくださった先生が残っているものの、部は休部です。
(女子は活動しているそうです。)
顧問の先生の話では「最近は1校でチームを組むことが難しく、休部/廃部になる高校が多い」とのことです。さみしい限りです。
2)20期男子バレー部同期会
20期男子バレー部員は「縣君、榎本君、尾崎君、菊池君、小平田君、後藤君、坂江君、松本君、私」の9人でした。
非常に恵まれたメンバーでした。
卒業後疎遠になりましたが、2011年1月に菊池さんの音頭で同窓会を開き、9人全員参加して久しぶりの会話を楽しみました。
(賞味期限切れの情報ですが生存確認まで)
皆の近況を報告したかったのですが、あいにく昨年PCを替えた際にメンバーの連絡先を保存し忘れ、
連絡が取れない人も出てしまいました。(反省)
3)連絡が取れているメンバーの近況;
坂江君;ジオラマを趣味として、毎年東京ビッグサイトに作品を発表しています。イベントの看板を飾る作品なども作っていて、
私も見に行きました。
小平田君;彼と私は行きつけの居酒屋さんが偶然お隣さん。世間は狭いものです。
松本君;私の結婚式は媒酌人/司会/ピアノ演奏一式松本家にお世話になりました。私が大泉に引っ越しましたので、
夫婦同士でご近所付き合い。
尾崎君;時々連絡をとり、しっかり昔話しています。バレー部を愛する気持ちは人一倍です。
そして私は地元のお父さんソフトボールチームの監督兼スコアラーをしています。メンバーに恵まれ、練馬の強豪として
(都大会を含め)昨年36試合もしています。
“明るく楽しく”をモットーに(チームの老害にならぬ程度で)続けてゆくつもりです。
いつの日か、また20期バレー部同窓会を開ければと願っています。その節には改めてご報告します。
有難うございました。
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2011年男子バレー部同窓会 | 看板=坂江君の作品 |
野球部メンバーがリレートークを担当とのことで、山下君、内堀君からバトンをもらいました。しかし、
3年の夏の大会ではあまりに打てなかったので、現役時代の話は・・・(笑)
ただし、47年前にあの神宮第二球場まで応援に駆け付けてくれた皆さんに、今さらながらですが、心より感謝します。
さて、65歳となり第2の定年を迎えた現在、仕事以外で私が関わっている3つの事柄について簡単にご紹介したいと
思います。やや多忙です。
◎野球部OB会
2010年に同期の宇山君らの頑張りによって、正式な「大泉高校野球部OB会」が発足しました。
(それ以前は「ミニOB会」と称して一部活動はしていました)
仕事の忙しさにかまけてあまりお応援にも行かず、たまに忘年会などに顔を出す程度でしたが、
2012年に事務局長をやることになり、それ以降は手を抜くわけにはいかなくなりました。
OB会の運営、会報の発行、現役監督(今は大泉高校体育の先生)との連携、等々やることはかなりあります。
昨年、真新しい人工芝のグラウンドで、何十年か振りに現役と一緒になって汗をかきました。
これからも少しずつですが、会の発展に汗を流そうと思っています。
◎大泉高校同窓会 いずみ会
こちらも大泉高校に関することですが、2010年6月からいずみ会の理事にとのことで、
訳が分からないまま手伝うことになりました。また、少しはパソコンができるだろうということで、
現在は会計部長を仰せつかっています。ところがやってみて分かったことですが、使ったこともない
データベースソフトAccessを駆使しなければならず、悪戦苦闘。
いまでもやや綱渡り状態ですが、何とか素人でもシステムをうまく使えるような形にして、次の方へ
バトンタッチするまではと頑張っています。根がのん気なので、何とかなるだろう位の気持ちです。
それから、これを読んでいる皆さんの中で「そういえば最近、いずみ会の会費って払っていないなぁ」と思う方は、
ぜひお近くの郵便局まで足を運んでくださいね。かく言う私も、毎年これまでの罪滅ぼしをしています。
◎休日テニス
野球部だったのにテニスかよ、と言われそうですが、キャリアは15年位にはなるでしょうか。
ゴルフよりは手軽で(経費的にも)、同期の中にもやっている方が多いようです。実力の向上はもう望めませんが、
せめて体力の維持につながればと、今でもスクールに通い、それ以外にオジサン仲間でコートが取れれば
出かけていきます。これからは平日の昼間もやろうかとたくらんでいます。
また、幼稚園に通う孫の誕生日プレゼントに子供用のラケットを贈り、将来は錦織のように、
いや女の子なので杉山 愛かシャラポワ・・・みたいな夢も。
まぁ、元気なうちにあれやこれやと首を突っ込んでいますが、そのうちその首もまわらなくなることを心配しつつ。
次のバトンは、管理人の小山さんにいったんお返しします。どうぞよろしくお願いします。
(2015.2.3節分の日)
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2014.3 野球部交流会 | 2014.3 野球部交流会2 | |
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2014.6 いずみ会評議員会・現校長挨拶 | 2014.10 いずみ会総会参加の同期 | |
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2014.6 野球部OB総会 |
山下さんから 野球部リレーを 引き継ぎました 内堀です。
昨年6月に退職しました。 最後の職場が 青山のOFFICE ビルの17階 東北角でスカイツリー や
神宮外苑一帯が見渡せ 神宮球場が見られた事は印象的でした。
大泉中学時代は 外苑の 公園で 中学野球の都大会が開かれていて 前回寄稿された山下さんの
開進第一中学と練馬区の決勝を争い勝ち 板橋代表の加賀中学に勝って 練馬/板橋代表になり
杉並の 東田中学(相撲の貴乃花兄弟が通った中学です)と神宮外苑で戦って敗れたのですが
レフト線に塀が無く 相手の悪い当たりのフライが 果てしなく抜けていったのが今でも瞼に残っています。
高校時代は 1年秋の地区大会(これは後に甲子園に都立で初めて出場した国立高校のグランドでした)で
ブロック準優勝して 次の春の大会に出場出来たのですが 日大三校と神宮第一球場で当たってしまい 10対ゼロで
5回コールド負け、 神宮第一は 内野がピッチャーのマウンド迄 富士山の様に ゆっくり盛り上がっていて
ホームが遠く感じたのが妙に記憶に残っています。
最後の神宮は 3年の夏 2回勝って 神宮第二球場で後にPLに甲子園で勝った 岩倉学園が相手、
当時は140km近い速球を投げる2年生ピッチャー前沢君と 後に 日米大学野球の代表メンバーになった
宇山君の活躍で 可なり善戦しました。
9回裏に追い詰めた結果は6対7で敗戦、最後の夏となりましたが 自分は練習でも打てなかった球が
最後に打てて5打数3安打、カーブの曲がり迄が良く見え、自分にとっての 究極の 研ぎ澄まされた一瞬
というか'ゾーンに入る’ と言う感覚なんでしょうか、今でも忘れられませんが その後 そういう瞬間は
味わった事が有りません(笑) そんな思い出の神宮界隈を眺め40数年の越し方に思いを馳せながら
退職できたのはラッキーでした。
会社生活約40年、内 海外駐在16年、振り返ってみれば 随分 移動したなとと思いますが
動いている当時は 前任者からの引き継ぎ、後任者への引き継ぎ等で 振り返る暇は無かった感じで
最後になって ああすれば良かったこうすれば良かったと 思う事が多かったです。
それでも 矢張り 研修含むフランス約10年、 北アフリカ アルジェリア4年間2年間のドイツ ハンブルグ etc
海外駐在期間は 自分の頭の中で ’切り絵’ になっている様で海外駐在が 長い程 人生を短く感じると云うのは
実感できます。
高校での勉強/野球と密度の濃い生活から ゆったりした大学生活のギャップに揺れ何となく
遠くへ行ってみたいと 海外に憧れて 商社に就職しましたが アルジェでは断水生活に苦しまされ
毎朝3時ー4時頃起きて 貯水してましたし ドイツでやっと落ち着いた頃にパリへの移動を命じられ
再三転校を強いられた子供が苦労した事(5年間に独ー仏移動を含め4回転居した時期が有り、
子供からは後になって 転校の度にどれだけ苦労したか、聞かされた事があります)
今思えば笑える事も 当時は大変な負荷だったのを覚えています。
最後は マーケッテイング、コンサルテイング会社でしたが 女性社員が7割を占め
衣料品、化粧品、食料品etc 身近な商品への目利き、アドヴァイスは矢張り女性が強いと言う事を
実感致しました。
この会社には社員業を続けながら 物書きを両立させた女性が居て 彼女の書いた
’ブランドはNIPPON’ と言う本が2010年朝日新聞で紹介され その中で大泉高校20期の方の奥様で有名な
テキスタイル デザイナーさんが取り上げられてました。但しこの方が20期の方の奥様という事を知ったのは昨年で
今思えば残念な事をしました。
退職後の7月には 修業旅行と銘打って 2週間程パリ、南仏を旅してきました。
初めてフランスに行った1974年頃は まだシャルルドゴール空港が無く、オルリー空港で
その後のアルジェ駐在時代も アルジェ―パリ間は オルリー発着でしたが 今でも南仏や アフリカ向けは
オルリー発着が多く懐かしい思いで オルリー空港を歩きました。但し 矢張り エボラ熱には警戒しました(笑)。
また海外繋がりのOB会(主にゴルフ会ですが)も有るので ウィークDAY ゴルフも楽しんでおります。
但し 日本のゴルフは朝早く 一日掛かりなので大変ですね。
車で 世界遺産になった富岡製糸場も行ってみました。世界遺産になったからというより フランス人が
明治政府に招請されて 運営された工場だと言うのを 駐在時代 HERMESの人から聞いた事が有ったので
行ってみたのですが 明治時代のフランスはアフリカに既に多くの植民地を持っていた筈ですから
(自分はその約100年後に旧フランス領に駐在した訳ですが)富岡も遠いとは言え 当時のフランス人にとっては
海外進出/技術指導には違和感が無かったのかなーとその先見性に妙に感心して参りました。
最後に 小山さんの石神井風景はいつも楽しみにしています。
自分は幼稚園は石神井のお寺(当時は 大泉に幼稚園が有りませんでした)に通い小中高は全て大泉で
石神井には良く遊びに行きましたし、野球部時代は 石神井の三宝字池周りがランニングコースでした。
最近 現在住んでいる地域の情報誌を読んでいましたら 突然 ’石神井城’の 文字が出て来て
良く読んでみたら 戦国時代 ’小机(新横浜の近くです)の合戦’と言うのが有って
太田道灌が ’石神井城を本拠とする豊嶋泰経’を 小机迄追いかけて来たと 言う記述が有りました。
子供の頃は 石神井城は太田道灌の居城と聞いていましたが 豊嶋家(この家名は今でも
石神井、大泉地区に残っていると思いますし隣の豊島区の語源ではないかと勝手に思っています)から
奪ったという ’真相’ を50数年振りに知りました。
暖かくなったら(桜の花咲く頃、Nous chanterons le temps de cerises) また石神井界隈を歩いてみたいと思います。
皆さんも元気にお過ごし下さい。
添付はボケていますが 昨年7月パリで 縁結び橋から ノートルダム寺院の背中を自分で写したもの。
及びネットでも紹介されているエッフェル塔界隈ですが パリのオフィスから毎日眺めていた風景と
良く似ているので添付します。パリのOFFICEは市内唯一の高層ビル(景観を乱すという事でこのビルの後は
建っていません)の35階(後12階に移転)に有り写真の様な 見事な景観を毎日ENJOYできました。
最後の 駐在時はエッフェルの向かいのシャイヨー宮、トロカデロ広場の傍に住んでいたので
この写真にその近辺が写っている事も有り懐かしく見ています。
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『リレー投稿』は、バトンを繋ぐ人がいないと成り立ちません。しかし、バトンを受け取ってくれる人が少なくなり
(私自身、過去に投稿を頼まれたことがありましたが、現役当時はそれを引き受ける心のゆとりさえ無く、お断わりしたことがあります)。
いつの頃からか、運動部のOB/OGが順番に書くようになり、バスケット部⇒テニス部⇒陸上部とバトンを繋いでくれています。
しかし、その後どうするかは、決まっていなかったようで、今年7月25日に池袋のレストラン「ピノ」で開催されたミニ同期会において、
HP管理者(世話人)の小山恵一郎さんから提案があり、「陸上部の次は、野球部、バレー部(男女)とバトンをリレーしていく」ことになりました。
以前、投稿を断ったことに心苦しさを感じていました。誕生月の10月末日で退職し、自由な時間が出来たので野球部が担当する
リレー投稿のトップバッターは、自分が引き受けようと考えました。これまで『大泉高校20期のHP』は、時々覗きはしましたが、
リレー投稿のサイトにアクセスしてその内容を読む事はありませんでした(投稿した皆さん、ごめんなさい。
投稿したら多くの人に読んで欲しいですよね)。書くにあたり過去の投稿を読みイメージを固めました。
(と言いながら、退職後も結構忙しく、遅々として筆が進みませんでした。
そんな時、陸上部のキャプテンであった有馬さんが11月に投稿してくれましたので、野球部の登板は12月からということになり、
1か月の猶予が出来てとても有難かったです。有馬さん有難う。父の最期も日本医大でお世話になり、有馬さんには足を向けて寝られません。
(前置きが長くなりました。本題に入ります。)
今回からしばらく(3~4回)、リレー投稿は野球部が担当します。
髙3の夏の大会当時、1塁手で2番打者だった私、山下がトップバッターを引き受けました。
私は、この10月末日をもって、藤沢薬品工業に入社以来、通算39年7か月間勤めた、製薬会社を退職しました。
そのうち、藤沢薬品工業の30年間は醗酵創薬研究(青カビが生産するペニシリンのような微生物が生産する物質の中からの医薬品の種を
探索し開発する研究)、山之内製薬と合併して出来たアステラス製薬での9年7か月はCSR部を立ち上げ、
社会貢献活動を中心に仕事をしました。
企業内研究者としては、幸い、臓器移植時の移植臓器への拒絶反応を抑制する薬(免疫抑制剤)、高齢化や病気により免疫が
低下した時にヒトの体内に常在するカビが増殖することがありますが、その菌を殺す抗真菌剤、導出先の米国ベンチャー企業が開発した
抗がん剤の3製品を直接的、間接的に世に送り出すことが出来、多くの患者さんが健康を取り戻すことに多少の貢献が出来ました。
20年ほど前には1万個、最近では3万個以上の新物質を各種評価系に掛け、安全性試験や臨床試験を行って医薬品になるのは
わずか1化合物と言われる世界ですので(日本製薬工業協会がまとめたデータ)、その中で3物質の新薬に関われたことは
本当に幸せなサラリーマン人生でした。
これらは、私一人で達成出来るような事ではなく、良き上司、先輩、仲間、部下との出会いがあったからだと思っています。
その間、日本生物工学会理事・副会長、名古屋大学工学部非常勤講師(集中講義を数年)、など色々なことに関わりました。
有難いことに学会や新聞社から賞を頂く栄誉に浴する事も出来ました。
そして、社会貢献活動では、患者会支援活動、生命科学領域の主に若手研究者への研究助成金交付と海外留学補助金交付、
日本製薬工業協会環境委員長として業界の環境安全の方針や目標値をまとめるなどの活動も行いました。
これらは私の性に合っていたようで、大変でしたが、遣り甲斐がありました。
特に、患者会の集まりなどで患者さんご自身やご家族から「あのクスリのおかげで救われた」などの感謝の言葉を
いただいたことが何回もあります。野球部OB会で行った店で、同期の宇山さんが知り合いの生体肝移植経験者に対し
私のことを「服用中の薬の開発関係者」と紹介してくれ、その方と奥様から感謝の言葉を直接頂戴したこともあります。
研究者としてはこれ以上の幸せはありませんでした。
このように、大きな達成感があったサラリーマン人生でしたが、その一方で、やりたいことを我慢したり先送りしたりと
色々なものを犠牲にしてきたという思いもあります。15年間の単身赴任生活で、家族や子供たちにも迷惑や大きな負担を
かけたと思っています。
私は決して器用ではありません。色々なことをするのに時間がかかります。
コツコツと努力をして徐々に上手くは成るものの、ある程度のレベルに達するのにヒトの何倍も時間がかかります。
また、あがり性で緊張しやすいので、本番に弱く、無駄な力が入って体がガチガチになりスポーツや楽器演奏でよくミスをしてしまいます。
高校野球でも良い所でエラーをしてしまうことがありました。一方で、調子が良い時には、冷静に試合をする自分がいて、
公式戦で外野フェンスにダイレクトでぶつける長打を打ったこともありました。
大学時代に音色が好きで、素敵な曲が多いフルートを習い始めましたが、研究室に入り卒業研究を始めてからは
夜遅くまで実験をするようになり、ほとんど練習せずにレッスンに行くので全然前に進まず、レッスンは止めてしまいました。
NHK教育TVのフルート教室を2年ほど視聴し、見様見真似で吹いていましたが、単身赴任するようになって吹く場所も時間もなく、
時々フルートを出して吹く程度になってしまいました。つくばで妻がプロの演奏家でもある先生にフルートを習い始め、
どんどん上手くなるのを横目で見ながら、定年したら自分も習おうと思っていましたが、どうせやるなら早い方が良いと妻に背中を押され、
59歳で妻と同じ先生に就いて習い始めました。自己流でやっていたので悪い癖(音が不安定だが速く動かし易い指使いをしてしまったり、
タンギングやスラーなどのアーティキュレーションをいい加減にしてしまったり)がついていたり、
譜面の指示通りに吹いていなかったりということで、習い始めた頃はたくさん注意されましたが、習い始めて5年目、
現在は中級の教則本や曲を使ってレッスンを受けています。今回のミニコンサートでは、初めて落ち着いてきれいな音で
大きなミスも無く気持良く吹くことが出来ました(発表会では、女性より圧倒的に男性の方が緊張してミスしてしまう人が多いです)。
先生にも良かったと言って頂けました。毎日それなりの時間を取って練習すべきなのですが、今はまだ忙しい日々が続いていて、
個人とアンサンブルのレッスンがある土曜日に、終日フルートを吹いて教室に行くという状況です。まだまだミスが多く
新しい曲を初見である程度吹けるところまで腕は上がっていませんが、とにかく楽しいので、これからもがんばって行けそうです。
そんな「あがり性」の私ですが、自分の専門分野について、頼まれて講義やシンポジウムで学生や一般の方に話をする時には、
全然緊張しません。割と冷静に話すことが出来ます。これは、どのような状況になっても対応出来る自信があるからでしょう。
フルートも、そこまで吹き込めば余裕(ゆとり)を持って演奏が出来、長い曲を吹く発表会でも大きなミスをせずに吹ききることが
出来るのではと思っています。それぞれの曲の中には、きれいなメロディーだけれど指を滑らかに動かすのが難しいフレーズ、
指を速く動かさなければならないフレーズがあります。きれいな音や正しい音程が出しにくいフレーズもあります。
退職後の忙しさが一段落したら、フルートに多くの時間を割いてそのような難しい所も、緊張せずに落ち着いて吹けるようにしたい、
アンサンブルでは他の2人と息のあった演奏が出来るようにしたいと思っています。
まだこの先、どうするか分かりませんが、取りあえず今は、やりきった感(達成感、燃え尽き感)が強く、
すぐに仕事をする気が起きません。今まで後回し(先送り)にしてきたことがたくさんありそれを優先的にやっていこうと思っています。
具体的には、今まで以上に美術館や博物館に行ったり、最も輝いている時期に写真を撮りにいったり、国内や海外の旅行をしたり、
フルートやテニス、ゴルフにもっと時間をかけもっと上手になりたいとも思っています。
今、2人の息子達はそれぞれ上海とニューヨーク対岸のニュージャージー州に住み仕事をしています。
長男は、空気が悪い上海に3人の子供達を連れて行きたくないと、これからも単身赴任。
次男は、第一子が8月に生まれようやく飛行機に乗せられるようになったので年明けから、親子3人での米国生活が始まります。
これからしばらくは、普通の海外旅行ツアーと息子達のところを訪れる個人旅行を交互に行っていこうと思っています。
以前、リレー投稿(2014年3月18日付け)の中で、木村(旧姓佐々木)邦子さんが「スピード旅行ではなく一ヵ所に
ある程度滞在した方が楽しい」と書いていましたが、退職直後に夫婦で次男の家に2週間ほど泊めてもらい、
正にそのような旅行をしてきました(NY市内を自分のペースでじっくりと時間をかけて観光。
多くの美術館や博物館、劇場を訪れ、並んで安いチケットや無料チケットを手に入れ(順番でなく抽選に当たったことも)、
オペラやミュージカル(2回)も堪能。通常ツアーでは行かないようなところにもたくさん行ってきました)。
そして、いずれ充電が出来たら、つくば市周辺で地域貢献・社会貢献のような活動をしたいと思っています。
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NJ側から見たマンハッタンの摩天楼 | 後ろはNJ(手前)とNYを結ぶジョージ・ワシントン橋 | |
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ちょうどオープン当日に訪れたOne World Trade Center(1WTC) |
Ground Zeroの 9/11 Memorialで黙祷 |