更新 2015年7月18日
還暦を過ぎると、だんだんいろいろな面で「自分もそろそろ下り坂に入ってきたかな」と感じる方も増えてくるのではないかと思いますが、
下り坂の効用について。
ヨーロッパのスキー場で夏のシーズンオフを利用して、メタボ気味の中年の被験者を数十人集め
①ゲレンデを歩いて登りリフトで下る。
②リフトで登り歩いて下る。
の二つのグループに分け、夏のあいだ毎週1回トレーニング(?)を行いました。
その結果、徒歩登山の組は予想通り体脂肪の減少が認められました。
一方、徒歩下山の組は血糖値の顕著な低下が認められると共に、下山時の衝撃が適度な負荷になってか脚の筋力(筋パワー?)の向上、
また数値で計測はできないが集中力が増したと感じる被験者が多かったとのことです。
皆様も自分なりの下り坂の効用を見つけてみては如何でしょうか。
で、私の旧友M君の話。
長崎在住の彼は地元の新聞社を定年退職後、直ちに自転車での日本1周ツアーを決行。
尺取り虫方式で約1年半かけて北は北海道から南は沖縄まで走破。休む間もなく「オヤジファイト」なる中高年のボクシング大会に参戦。
「次に上京する時はタイトルマッチじゃ」
「新チャンピオン祝賀同期会を開け」と大言壮語しておりましたが、そうこうするうち東日本大震災発生。
すると1カ月後M君は岩手県陸前高田市に姿を現しボランティア活動に従事すると共に、近隣の町に設けられたボランティア用の
宿泊施設の運営と、ボランティア活動家の組織化に尽力。
一旦帰郷すると津波に流された松林で生き残った「奇跡の一本松を守ろう」運動支援の為再びチャリにまたがり、
キャンペーン・募金活動を行いながら8月の炎天下、長崎から岩手までペダルを踏み続けました。
その後もたびたび被災地を訪れていましたが「エーイ面倒じゃ」と宮城県亘理町にアパートを借りて奥様と移住、
1年半にわたり東北3県の復興支援に邁進しました。今も彼の活動は続いているのですが長くなるのでまたの機会に・・・。
彼にとっての60代は、下り坂どころか、長い登り坂を全力ダッシュで疾走中です。
で、私はと言いますと・・・。
生来の消極的にして内向的な性格に加えて大の怠け者ときているので、高校時代から全く進歩することなく、
相も変わらず「ボーツ」として毎日を過ごしております。
旧姓黒崎、現在は河野淑子という名で生きております。
リレー投稿遅れて申し訳ありません。荒川さんから声をかけられすぐにでもと思っていたのですが、なかなかパソコンに
じっくりと向き合う時間が取れない生活になっていることに自分でもお引き受けしてから気がつきました。
今は東村山市に住んでいます。学芸大を卒業し、フジテレビなども受けてみたのですが、全て失敗し、当然のごとく教師生活に入りました。
決して望んだ仕事ではなかったのですが、結局母の介護で定年を目の前に3年を残して退職するまで34年間の教師生活でした。
その仕事は周りの方々から天職だねと言われるほどに似合っていたようです。分からないものですね。
そして母の介護を7年やり一昨年無事あちらの世界に旅立たせてやることが出来ました。
出来る限りのことはしたつもりでも後に残るのは後悔ばかりです。
金銭的にも時間的にも蓮見さんや荒川さんのように旅行三昧は無理な日常でしたが、それでも皆さんに誘っていただき今がチャンスかもと、
母の居た介護施設の方の後押しで皆さんとタイに行ったことはとても嬉しい思い出です。
高校時代を共に過ごした友達はその後何年離れていても会うといっぺんに若いその日にもどれて、
年を重ねてから出会った方とは全く違う気の置けなさがあり、自分自身をさらけ出すことが出来る気安さがあり本当に楽しい旅でした。
母のこともこの6月で三回忌を済ませて一段落です。
12月に台湾旅行に連れて行ってもらう予定ですが、前回よりは、ゆったりとした気持ちで、行かれそうで、今からワクワクしています。
教師という仕事は、なかなか自分の子供や家族に向き合う時間が取れない仕事でした。その分退職してからは、
これほどワガママに自分のことや家族のことに時間を費やしていいのだろうかと不安になるほど、
主婦として娘として母として妻としてのみに24時間を使う生活にしました。仕事を辞めると心に穴が開くと脅かされましたが、
全くと言っていいほど寂しさも後悔も感じない充実した毎日を過ごしています。自分が教師をしていたことが、信じられないほどの生活です。
物にならないことの方が多いのですが、若い頃から新しいことを何でも挑戦したい趣味人間で、
モットーは「行ってみよう。見てみよう。やってみよう。」でいろいろなことを楽しんでいます。
最近では、その精神がぼけ防止に役立つのかなと思って頑張っています。内容はたいしたことではないので内緒にします。
先日卒業以来初めて花崎文一先生の1年4組のクラス会が高田馬場でありました。女子はいつも会っているメンバーでしたが、
男子は卒業以来の方ばかり。土肥さんが持ってきてくれた卒業アルバムを見て話が盛り上がりました。
男性は皆さん変わっていて写真と本人とを見比べても繋がりませんでした。ただあれこれ話していくと、それぞれが断片的に覚えていることが、
次第に繋がり、筋が通ってくることが不思議でした。おかげさまでたった8人のクラス会でしたが、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
次回はもっと人数が増えて欲しいと思いました。もしこのリレー投稿を見て参加しようと思ってくれる方が一人でもいたら嬉しいことですね。
本当に私達は会えるときが会えるときという年齢になっているのですから。
おまけです。大好きな大泉高校に娘も進学させ同じ校歌を、交友の歌を口ずさめることも幸せに思います。
まだ円形校舎もあり、広い校庭と校門からの桜並木も健在な大泉で娘も学びました。 同じ同窓会の一員です。
いつか二人一緒に同窓会に行ってみたいと思います。
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3年4組橋本先生のクラスを卒業しました佐藤陽子(旧姓荒川)です。
昔お嬢さん会と名付けて1年4組(花崎先生のクラス)の仲間とお付き合いを最近また始めました。
そのつながりで蓮見元子さんからご紹介を受けました。
大泉高校入学以来50年、やっと念願の1ノ4のクラス会の企画が出来上がりました。
5月23日土曜日です。
高校生になってコンパの楽しさを知り、よく高尾山などのハイキングに出かけ、帰りに大泉のお蕎麦屋さんに立ち寄りました。
クラス対抗には応援に声をからし、体育祭の応援団に加わりと、思い出すと勉強は好きでなかったよな~と。
大学受験に落ちて専門学校を卒業後、商社に勤務し同僚と結婚しました。子供にも恵まれ、夫についてタイ、福岡、バングラデシュ、沖縄と赴任し
23年ぶりに東京勤務となり、やっと落ち着いてお江戸暮らしを楽しめると思ったのですが、夫は東京の通勤地獄に耐えられず、再び福岡へ転勤。
終の棲家も福岡に決めました。
定年後は庭の手入れとゴルフ、旅行を楽しんでいます。
私は孫3人のいる瀬戸内の島を訪ねたり、コントラクトブリッジを細々と続けています。
4月になって屋久島を訪ねた折の写真を添付します。
雨女と言われている私にしては昼の行動中にはひどい雨降りにあわずに過せたのが幸運でした。白谷雲水峡を歩くのが精いっぱいで、
縄文杉にはお目にかかれませんでした。
また、同期会には上京しますので声掛けをお願いします。
次は河野淑子さん(旧姓黒崎)にバトンタッチします。
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千尋の滝(せんぴろ) | くぐり杉 白谷雲水峡トレッキングで | |
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紀元杉の前で (樹齢3000年 木肌が違いますよね) | モッチョム岳をバックに。 (JRホテルでは蓮見さんお奨めの温泉に入りました。) |
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千尋の滝 モッチョム岳登山口 |
皆さん、こんにちは。初めまして?1年8組(橋本先生)、2年5組(杉田先生)、3年8組(乙黒先生)の今村房雄です。
管理人の方、役員の方々のおかげで20期同期会およびHPがこの様に立派に運営され、ここに投稿の機会を与えられましたこと、感謝いたします。
高校生活をバラ色でもなく灰色でもなく普通に過ごした今村君は、廊下の端をうつむき加減で歩き、教室の隅を住みかとし、
女子とは口もきけない目立たない生徒でしたので、自己紹介のようなところから、卒業後の同期との思わぬ再開ごとを含め、
振り返らせていただこうと思います。(振り返っていたら、思わぬ長文になってしまいました。申し訳ありませんが、
適当にハショッテお読みくださいませ。ウクレレを抱えた額の大きなじいさんの写真が出てきたら、それでおしまいです。)
出身は練馬区立開進第四中学校です。同期では同じ中学の出身者が割と多くいた方だと思います。実家は練馬区桜台にあり、
練馬駅から西武線で通学しておりました。交友関係はかなり狭く、R.I君(3年2組)、K.I君(3年9組)と3人で行動しておりました(2年生の時だと思います)。
R.I君は良く映画の話をしてくれました。「007」のゼロゼロは「ダブルオー」と読むんだよ、とか「クリントイーストウッドが引っ張っていた
棺桶の中からマシンガンを取り出し、敵をなぎ倒すのがかっこいいんだよ」とか。K.I君は天文マニアで、1m以上の大きな望遠鏡を原っぱに持ち出し、
太陽や月や私には良く分からない星たちを見せてくれました。K.I君とは、初めて親抜きの伊豆半島ユースホステルの旅を冬休みに実行しました。
卒業後は疎遠になっていましたが、R.I君とはかなり後になって思わぬ再開を果たします。毎年秋になると新聞の一ページ全てが私立大学の広告で
埋まることがありますが、その中にR.I君の顔写真があり、“駒澤大学学長”と書いてありました。ビックリするとともに誇らしい気がしました。
中学生のころから「くるま」に夢中だった私は、自動車関係の仕事に就くには工学部かな、という思いで、巨人軍の多摩川グラウンドの近くにある
武蔵工業大学というところに行きました。2009年に近くの東横女子学園と合併し、「東京都市大学」(八王子市にある「首都大学東京」とは違いますよ)
という良く訳の分からない名前になってしまいました。卒業生としては、「なに、ムサコー?むさくるしい大学か」と言われていたころが懐かしい思いです。
ここで、Y.O君(3年6組)と再開しました。Y.O君は建築科で後に東京都にお勤めされたので、あの新宿のツインタワーの建設にも関わられたのかな、
と勝手に想像しております。
就職は念願の自動車会社に入ることができました。当時は入社後すぐに2か月間の工場実習があり、武蔵村山市にあった村山工場
(カルロスゴーン氏が来て閉鎖され、今では一大ショッピングモールに生まれ変わってしまいましたが)で初めての夜勤を経験しました。
ちょうど「愛のスカイライン」から「ケンとメリーのスカイライン」にモデルチェンジをしている最中で、私は両スカイラインにタイヤを取り付ける作業
(今のF1のピット作業の何十倍もの時間がかかっていましたっけ)を担当しておりました。たまにはGTRもラインに流れてきましたよ。
実は今村君もGTRを造った男達の一人だったのです。(タイヤを取り付けただけですけどね。でもタイヤが無いと走れないからなー。)
2か月の実習を終え、配属のために銀座の本社に集められたときのことです。手続きの書類を我々新入社員に配ってくれている人事部の
女性の中に、K.Kさん(3年2組)がおられました。仕事中のこととて「しばらくでした」との一言を交わしただけで、その後の会社生活の中でも
会う機会はありませんでした。さらに暫く後に、同窓会誌でK.Kさんが同期とご結婚されたことを知りました。さらにその後、K.Kさんのご実家が
今の女房殿の実家の3軒お隣りだったことも知りました。
女房殿の関係でいえば、先のR.I君、K.Yさん(3年3組)も女房殿の中学校の同級生であったそうです。
自動車会社に入ったものの、人生なにごとも自分の思う通りには行かぬもの、ミケッロッティやジウジアーロやレイモンドローイのような
カーデザイナーを夢見ていた今村君の配属先は自動車を造るための道具であるプレス型を造る工機工場というところでした。
工機工場は横浜市鶴見区生麦にありました。歴史の授業で習った「生麦事件」の起こったところです。
「生麦事件の碑」が第一京浜国道(国道15号線)沿いにあり、たしかに旧東海道がそこを通っていたことがわかります。工機工場のお隣りは
キリンビール横浜工場です。現在はキリンビアビレッジと言って、ビール工場の見学(無料、試飲付き)と、レストランもある美しい庭園散策が楽しめます。
グループで、又お二人でお出かけするにも良いところです。最寄り駅は京浜急行線の「生麦」です。もしお出かけになられた際は、
近くにエンジン博物館(建物は横浜市の歴史的建造物に指定)もありますので、ぜひ足を延ばしてみてください。
エンジンだけでなくダットサン1号車とかもあり、1時間もあれば見終えることができる、落ち着いてこじんまりした良いところですよ。
そうそう仕事でした。仕事は自動車を造るための道具、であるプレス型を造るための道具である工作機械やコンピュータに係わる業務につきました。
(今でいうCAMの走り、ですね。)2009年7月に定年退職するまでそれを続けてきました。(仕事についてはこれでお仕舞いです。駄文ももう直ぐ終わります。)
そして最後の思わぬ同期との再開は本日(2015年4月21)のS.K君(3年6組)です。このリレー投稿を書くべく過去の先輩の投稿を見せていただくなかで、
2009年8月19日付けのS.K君の投稿を読ませていただき、S.K君も同じ会社におられたことを知りました。
投稿の日付が私の定年退職した翌月だったことにも「何か」を感じさせられました(勝手に、ですが)。
で、現在ですが、60歳で定年退職後は深夜残業や休日出勤から解放され、日本一周キャンピングカーの旅や海外旅行に明け暮れする
予定だったのですが、好事魔多し、昨今流行の母を介護する生活が待っていました。初めのうちはたまに実家に顔を出す程度で良かったのですが、
圧迫骨折やら、下駄骨折やら、バネ指やら新しい言葉も覚え、認知症の実地教育も受けながら、骨折入院からリハビリ入院、介護施設への
転入などをこなし、なんとか落ち着ける施設に受け入れが決まったところ、というのが現在です。このあたりの状況というのは、
「高円寺純情商店街」の名付け親である、ねじめ正一氏のエッセイ「認知の母にキッスされ」にほとんど重なるものがあります。
最後に添付した写真は、昨年公民館のウクレレサークルに入会したところ、3か月後には初ステージ(課題曲5曲のうち2曲はエア・ウクレレ
(かっこだけで音を出さない)で対応しました)があり、馬子にも衣装で慌てて買ったステージ衣装の私です。恥ずかしながら皆様に現在の私を公開して、
駄文を終わらせていただきます。長時間、ありがとうございました。
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皆さん、お元気ですか。3年生の時は9組だった蓮見(旧姓琴坂)元子です。65歳にもなると、体力も知力もまだある残り少ない時間を、
何を優先して行動すべきか日々悩んでおられることでしょう。私も、体力や知力のある70歳ごろまでには仕事もきちんと完結したいし、
英語もマスターしたいし、山にも海外旅行にも行きたいし、皆とも遊びたいし、でも、そろそろ孫の世話もあるかしら、
なんて、あれこれ欲張りなことを考えています。
坂江君からリレー投稿が回ってきました。卒業後も、9組の腐れ縁で、坂江君、栗原君、永島君と仲良くさせてもらってきました。
残念なことに今年の2月に永島君が他界されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
永島君とは一番後ろの席の隣同士で、授業中、先生の目を盗んでは、廊下に出て、体操をするなど息抜きをしていた仲です。
卒業後、塗装業をされていたので、家の修理を何回もお願いしました。塗装だけでなく、大工仕事、植木など持ち前の好奇心で
何でも熟していました。坂江君とは山好き仲間で、まだ、一度しか一緒に登ったことがないのですが、また行きたいと思っています。
栗原君は部類のクラス会好きで、一緒に何回も9組のクラス会を開催しました。
ところでこのリレー投稿の内容ですが、今年度で退職した大学の同僚たちと春休みに公用語は英語という国内旅行をしたことを書こうと思います。
オーストラリア人の英語教師であるブランカ先生が、日本滞在がこの春で最後なので、大好きな高倉健の「あなたへ」の
ロケ地を訪ねる旅をしたいというので、新幹線、在来線、レンタカーを乗り継いで、京都から長崎まで行ってきました。
高倉健の「あなたへ」のロケ地とはあまり関係なかったのですが、京都、奈良では良いホテルがとれたので、
京都(2)、奈良(1)、竹田城、姫路、門司港(1)、下関、佐世保、平戸(1)、長崎(2)と回ってきました。( )は泊数です。
京都では、東急ハーヴェストクラブ京都鷹峰に2泊し、しょうざんリゾートの庭を散策したあと、歩いて、金閣寺、龍安寺まで行きました。
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しょうざんリゾートの庭園 | 金閣寺 |
さらに、北野天満宮、嵐山、清水寺、三十三間堂、伏見稲荷、醍醐寺を廻りました。
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清水寺 | 三十三間堂 | |
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醍醐寺 | 祇園の舞子さん | |
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先斗町で湯豆腐をいただく |
祇園界隈も歩き、先斗町で湯豆腐をいただきました。
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奈良ホテル | 奈良公園 |
奈良では由緒ある奈良ホテルに泊まりました。奈良公園、春日神社、興福寺、国立奈良博物館、東大寺大仏殿、正倉院を訪ねました。
京都、奈良で3泊したあと、京都駅から福知山線、姫路経由で、門司港駅まで一日で移動しました。
途中、竹田まで行き、天空の城・竹田城跡に登りました。
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天空の城竹田城 | 姫路城 |
お城からの眺めは本当に素晴らしかったですが、「何もあんなに高いところにお城を作らなくても、御家来が大変そうだ」というタクシーの
運転手さんの話に納得しました。竹田駅からは、寺前経由で、姫路まで行き、時間もなかったので歩かず、姫路城をタクシーから見学しました。
姫路から新幹線で、小倉まで行き、乗り換えて門司港まで行きました。門司港駅前の門司港ホテルに泊まりました。
門司港駅は古く、また周辺はレトロな建物がいっぱいでした。対岸に下関が見えました。健さんの映画に出てくるブリッジも見えました。
橋桁の角度から、どうも、対岸からとったのではないかということになり、翌朝早く起きて、下関に行くことにしました。
タクシーで行くつもりだったのですが、ホテルで、渡し船が便利だと教えてくれたので、船に乗って下関に行くことにしました。400円でした。安い!
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門司港で地ビール工房へ | 下関から見た関門橋 | |
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旧大阪商船門司支社 | 門司港ホテル |
門司港はレトロな街で、旧大阪商船門司支社、旧税関などの建物がありました。健さんの最後のシーンは門司港の湾で撮影されたとのこと。
店を広げたところの撮影も門司で行われ、門司港ホテルが椅子を貸したといっていました。夜はビール工房でなぜか
北海道でもないのに、ジンギスカン鍋を食べました。ビールが美味しかったです。
翌日は、小倉から博多まで4列シートの豪華な九州新幹線で行き、博多から佐世保までは、在来線の特急で行きました。
佐世保駅で予約してあった駅レンタカーの手続きをして、軽い昼食を取って、さっそく、レンタカーでの長崎周遊の旅に出ました。
丸2日借りることになっていました。目的は平戸大橋、薄香漁港、伊王島灯台を見ることでした。
佐世保から平戸に向けていざ出発。途中のコンビニで食料を買いこみ、平戸大橋に向かいました。平戸は島。大橋で九州とつながっています。
ちょっと道に迷いましたが、平戸城を見学した後、平戸海上ホテルでチェックインをし、薄香に向かいました。
薄香は古い漁村で、高倉健の「あなたへ」の撮影の重要ポイント。富永写真館、そよかぜ(船)、郵便局、船着き場の階段、
濱崎食堂など見ることができました。フェリーの船着き場に健さんへの記帳所がありました。
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フェリーの船着き場の待合室で | 散骨した船 | |
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富永写真館前で | 平戸教会 |
ホテルは2食付きで、夜は平戸の観光地を巡る無料のナイトツアーを出してくれました。森酒造の原酒が美味しかったのですが、
重かったので、お土産に買って来れませんでした。平戸海上ホテルは海に面した東向きのホテルで朝日がきれいでした。
朝食はバイキング。相変わらず中国人旅行者が多いです。習慣の違いでしょうか、朝はあまり食べないようでした。
平戸の観光地は昨夜ホテルの無料バスで回ってくれたので、朝から長崎に向かうことにしました。
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平戸橋 | 田平教会 |
田平教会田平教会
是非、田平教会に行きたいと車を走らせていたら、公園に迷い込んでしまいました。そこからの平戸大橋の眺めがとてもよかったです。
田平教会は、日本人がフランス人宣教師に付いて学んで、設計、制作したとのこと。ステンドグラスがきれいで、聖書の物語が書かれていました。
ブランカ先生が聖書の物語を解説してくれました。一路高速道路などを通り、長崎に向かいました。海岸沿いに教会がたくさんあるようでしたので、
一つぐらいは見たいと思い、大野教会堂に辿り着いて見学しました。小さい村の教会。傾斜地にひっそりと隠れるように建っていました。
お天気もよく、教会からみる沖の小島がきれいでした。
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ひっそりとたたずむ大野教会堂 | 美しい長崎の海 |
202号線を走り、女神大橋を渡りました。もうすぐ、長崎ですが、市内に入る前に伊王島の灯台によらなくてはなりません。
さらに車を走らせました。コバルトブルーのきれいな海。まるで昨年度見たイタリアカプリ島の海のようでした。伊王島も九州本土と
橋で繋がっている島です。
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伊王島の海 |
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伊王島灯台 | 佐世保バーガー |
伊王島灯台を見た後、長崎市街地にはいり、グラバー園と大浦天主堂に行きました。グラバー園にはエスカレーターがついていました。
長崎は段差を利用して作られているので、景色はよいがどこもここも坂になっています。20%が平地だそうで、あとほとんどは坂。
車も通れない道がたくさんあります。
ホテルに帰ってから、近くの居酒屋で東横セットを頼んで食べました。
翌朝ゆっくり起きて、食事をとり、午前中は長崎市内を車でドライブ。まず、ブランカ先生が行きたいという原爆資料館と平和公園をご案内しました。
爆心地のすぐそばの刑務所は基礎を残して何もなくなったとの話を聞きました。辛いです。
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グラバー園で | 爆心地の刑務所あと | |
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風頭公園の竜馬像 | 亀山社中資料館に行く途中の坂道 |
その後、車で、竜馬さんの像のある風頭公園に行きました。桜が満開でした。レンタカーを返す予定の時刻まで時間がなかったので、
急いで、駅まで行きました。丸2日借りたのにガソリン代は1,000円でした。レンタカーを返した後、午後は亀山社中資料館などを見学し、
市内を散策しました。夕食後は稲佐山で夜景を見るバスツアーに参加しました。夕方からだんだん暗くなり、真っ暗になるさまを見ることができました。
長崎は世界3大夜景の一つだそうで、流石に美しかったです。
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長崎の夕暮れ(稲佐山から) | 長崎の夜景(稲佐山から) |
長崎からの帰路は別々に帰り、オーストラリア人の先生はLCCのピーチ航空で成田に、音楽の先生は島原半島に寄り深夜遅く東京に戻り、
私は京都で途中下車して醍醐寺の裏山に登って夕刻に帰りました。英会話はなかなか上達しません。
長崎紀行を読んでくださりありがとうございました。
次の投稿者は、福岡市在住の佐藤陽子さんです。