リレー投稿 その5     

更新 2011年6月26日

満61歳、今日この頃 大槻伸一 2011年6月21日

 大槻伸一です。小林君から、バトンを引き継ぎましたが、なかなか書けないでいるうちに小山君から催促を頂いてしまいました。バトンタッチの遅れを取り戻す為に早く書かなくてはと思いながらパソコンに向っています。まず、大泉高校卒業後やってきたこと。通常より2年遅れて大学に入りその後コマツに入社、建設機械の工場であります、川崎工場(今はありません)小山工場(栃木県です)、粟津工場(石川県です)勤務をおよそ20年、その後、小山工場で半導体の生産設備でありますエキシマレーザの開発・製造・サービスに携わってきました。エキシマレーザビジネスのお客様は、インテル、IBM, 三星、TSMC,東芝、エルピーダ 様などですので結構グローバルなビジネスなのです。現在はコマツの契約社員で、栃木県の小山工場に練馬から通勤する毎日を送っています。通勤は片道2時間、大宮までは埼京線、大宮からは新幹線、埼京線からはこんなに富士山が近く大きく見えるとは思いませんでした。そういえば昔は、練馬からもよく見えました様に思います。

 60歳の定年を迎えたあとは、ゆったりとした第2の人生を送ると言った気分になかなかシフトできない中、55歳を過ぎた辺りから定年後を考えて準備していなかったことを今頃反省しても仕方なく、それではと思い立ってヨーロッパにでも遊びに行こうか、ということになりました。費用を安く上げるために、B&Bをインタネットで予約、航空券は格安航空券を入手して4月末から5月の連休にかけて、人種のるつぼ、と私が勝手に思っている、Brussels、喧騒な商業都市、Amsterdam, 街全体が世界遺産の、Brugge, に行ってきました。写真を5枚貼り付けてみました。
まず、写真の①、私です。後ろの棚に見えるのは全部ベルギービールでビール好きの私にはなんとの言えない素晴らしい情景です。写真の②、Bruggeの居酒屋さんです。ピンボケしていますが、その分かえって雰囲気が出ていると思っているのですが、肝っ玉母さんの様なお母さんがいて、チョット写っていますが、メニューにあるビールの説明をしてくれます。Duvel というビールを飲みました名前のとおりの悪魔のビールです。強いビールでしたが、もっと強いビールを出して、と頼んだところ、まるでウイスキーをがぶ飲みしている様な味のビールが出てきました。写真の③、Bruggeの郊外を一日サイクリングした時、運河があまりに綺麗でしたので写真に収めました。また、当然のことではありますが水面はほぼ畑と同じ高さにあります。運河の脇にサイクリングロードがあって、Weekday だと言うのに、中年の男女グループが思い思いのスタイルでサイクリングを楽しんでいる風景は、ゆったりとした静かな生活がまさに彼ら彼女らの生活スタイルで、それを眺めながら自転車を漕いで私たちもチョットユーロピアンになった気分でした。写真の④、雨のブラッセル南駅(ミディ駅)です。この駅がブラッセルではインターナショナル駅でいろいろ人が慌ただしく仕事に急いでいるようです。スリも多いのです。写真は⑤、Amsterdam です。5月1日は、Queen’s dayでオランダはオレンジ一色、オランダ人の騒ぎ方にはびっくりするばかり、とてもついてはいけません。ワルガキの集まりといったグループも多く、酔っ払った眼をして、私を見つめながら一緒に歩いてくる人がいるのです。追い払いたいのですが、オランダ人は巨人ばかりでこの人も例外ではなく、ですから体力では到底勝ち目はなく、“今日は一体何の日だい?”と言ったら、“Queen’s dayだよ、そんなことも知らないのか”と笑いながらどこかへ消えていきましたが、まあオランダ人の騒ぎ方にはびっくりした一日でした。
 
 最後にひとつ、Brussels のグランパレスでお土産を置き引きされました。チョコレート屋さんで、会計をしているときのカードの暗証番号を入力しているその一瞬、店の人も気付きません。巡回しているお巡りさんがうまい具合におりましたので、言いつけましたが、“また日本人か、1日数回あるよ”とのこと。お土産がなくなったので、お巡りさんと一緒に写真を撮ってそれをお土産にしました。日本に帰ってから保険会社に電話して、状況を詳しく伝え、お土産のレシートを送ることで、お金は全額戻ってきました
 
 日本に帰ってきて、まだ第2の人生にはしっくりとこないと言う状況は、少しは良くなったのかな〜。大宮を過ぎ、利根川をわたるとき雨で遠くが霞んで見えたとき、雨のブラッセル南駅の情景を思い出しました。やっぱり海外にはいろんな奴がいるな、しかも本当に自由に暮らしているな、彼らは。
とりとめのない話になりましたが、これでパソコンの前を離れます。バトンは卓球部で一緒に頑張っておりました元卓球部のエース、青山栄君にお渡ししました。

私です。ビール棚の前で Bruggeの居酒屋さんです
運河とサイクリングロードです 雨のブラッセル南駅(ミディ駅)です
Queen’s day in Amsterdam です

2011年春  小林 義純 2011年6月3日

 人見敬子さんからご紹介いただいた小林義純です。二軒の家どおし、くしゃみをすれば聞こえるのでは、という近さです。
 こども達や大人の方々に、工作や絵、ときどき料理などを教えるということを仕事にしてきたため、転勤もなく半世紀以上を東久留米市に沈潜しています。

 今年は木々の緑、花の色が眼に心に染み入る春となりました。なんとなくバタバタしています。心が落ち着きません。テレビなどを見ると歳のせいか涙もろくなった眼が、ジンワリすることが多い毎日です。でも、
 『心をひとつに』とか『日本がんばれ!』とか『私は○○○している』とか。ちょっと違和感を覚えます。もともとちゃんとした生活をしていないから義憤にかられて行動したり募金をおこなうことに何となく気恥ずかしさを感じるのですが、みんなが一つの方向を向いてしまうことは、たとえそれがどんなに正しいことであっても、疑問を持ってしまう体質なのです。危険なのは、私達が自分で良く調べたりせずに他人の言動に連鎖して行動してしまうことです。怒りで誰かを標的にすることは楽なのですが、結局何も生みだせません。私は私だし、何よりも人に対するやさしさをもち日常を送ることが出来たかどうかを自身にたずねる日々をすごせば良い。ちょっと深呼吸をしましょう。時は確実に進んでいます。なんとかなります。やっていけますとも。
 実はこの文章、震災直後にこども達へのメッセージとして伝えたものなのです。そしてボンヤリ考えていたことは、こうした『体質』がいつ頃自分の内に育ったのかということでした。

 私達は『団塊の世代最後の・・・』という言葉で一括りにされてきました。戦後民主主義教育が安定してきたなか、一クラス50名以上に詰め込まれ、親の目、先生の監視が今程行き届かないフィールドを右往左往しながら進んできました。高校生活も戦前の旧制中学の匂ひを漂わせる大泉で上の学年の方々から、学校とのつき合い方などということを通し、自分の責任と自由ということの根本を感じさせていただいたように思います。3浪もして入った大学も美術系だったせいか、個人という単位で物を見るようになりました。はじめにお話したように会社づとめもせず、社会と直面しないで生きてきました。こうした歳月の全ての結果としての『体質』なのでしょう。だからこそ安易に“一致団結”などしたくない。こころはバラバラで良いと思うのです。
 これから先、生活全般を少し変化させていかなければならないのでしょう。より快適にすごせる社会の出現を目ざしてきた世代として、時には不便であることを選択し、遠まわりすることの大切さを、教室にかよってくるこども達に伝えると同時に自覚しなければと考えた春でした。

アトリエ・スペイン展での出来事 小林 憲一 2011年5月28日

 小笠原君から急にお鉢が回ってきて何を書こうか迷いましたが、この連休にあったアトリエ・スペインの絵画展について書きます。
このホームページの主催者である小山さんがすでに紹介文を載せてくれていますが、小生が通っている絵画教室の発表会「アトリエ・スペイン展」が5月1日~5日に大久保でありました。大泉の仲間も10人近くの人が見に来てくれ、絵はそっちのけで積もる話に花が咲きました。

 前回までの展示会は池袋で行いましたがその画廊がつぶれたため、4年ぶりの今回は大久保に場所を移しました。この大久保のという場所が結果的に今回のキ―ポイントとなりました。個人的には大久保というところにはまったく馴染みがなく、後述するスペイン料理の店へ絵の先生に連れられて行ったのが、唯一の大久保駅乗降経験だと思います(たぶん)。隣接する新大久保も、渋谷の人気台湾料理店「麗郷」の姉妹店に何回か行った位で、ほとんど土地勘はありません。
大久保といえば昔からのイメージは「逆さクラゲ」「連れ込み」、今風に言えば「ラブホ」です。それに加えて一時期は、南米のお姉ちゃんが5メートルおきに立っていて声をかけてくるという、怪しげ恐ろしげだがちょっと見てみたい気もするホットスポットとの噂もありました。残念ながらどちらにも縁がなく馬齢を重ねてしまいましたが。最近は韓流ドラマの影響か韓国料理や韓国食材の店に人が集まり、またベトナムやタイの店も増えてエスニック風な雰囲気も漂っています。韓流といえばかつてお嬢さんだった人たちが客層の中心になりますので、ある意味“おじさん”も“おばさん”も楽しめる街ということでしょうか。

 話を絵画展に戻しますと、今回の会場「未来画廊」は大久保駅の目の前にあるため人がひっきりなしに通ります。ただ、新大久保駅へ通じるメインストリートとは反対側のため、通行人の大半は住人か近くの店の従業員たちで観光客はほとんど来ません。また、この画廊の入口の前にあるテラスには透明な屋根がかかっており、話をしたりお茶を飲んだりするのには格好のオープンスペースです。さて初日の夕方のことです。このテラスで缶ビールを飲みながらダベッていると、絵を見に来たおじさんが、突然「ここの眺めは楽しいな」とうれしそうに叫びました。すると別の人も「いやー、まったくだね」と答えます。言われて眺めて見ると、画廊の前を通る女性のスカートが極端に短かかったり、ホットパンツ(こんな言葉が今でもあるのか分からないが)だったり。おじさんには刺激が強くてドキドキしてしまうような姿の女性が、ひんぱんに通ります。周りの店もベトナム料理店や韓国焼肉店に交じって、耳かきエステ、マッサージ・・・などがあり、ここの従業員たちなのかもしれません。飲み屋のお姐さんというより〝風俗〟関係といったほうがイメージにピッタリです。この「従業員」が仕事の前に夕飯の材料を買いに行ったり、子供を迎えに行ったりと、一日に何回となく通ります。日本人だけでなく、東南アジアや韓国の人もいるみたいです。「次回もここで」という声が、絵を見に来た人だけではなく、先生からも生徒からも上がったのは言うまでもありません。ちなみに、この会話に参加したのは私および私の友人ではありません。念のために。

 話は変わりますが教室名の「アトリエ・スペイン」は、先生がフラメンコの踊りが好きで描き続けていることに由来します。そして前述の大久保にあるスペイン料理の店「カサ・アルティスタ」のオーナーと先生とは、長年の飲み仲間らしいのです。オーナーはもともとフラメンコのギターリストだったのですが、どこかで路線変更して店を始めたみたいです。ちなみにこの店ではスペイン料理を食べながらフラメンコを見ることができ、その方面では結構有名らしいです(私はあんまり興味ありませんが)。展示会三日目の夕方、関係者による立食のパーティー(実際は、テイクアウトの寿司と乾きもの程度の飲み会)を例のテラスで開いていると、そのオーナーがトレードマークの真っ赤な服(ジャージみたいな気もするが)を着て背中にギターケースを背負い、これまた真っ赤な自転車でやって来ました。一同コップ片手に画廊の中へ移動したところでギターの演奏が始まりました。一曲目は「禁じられた遊び」です。ギターを買った人が必ず取り組み、上手く弾けることを目標に練習に励み、そして大半の人が挫折する名曲中の名曲です(もちろん私もその中のひとりですが)。いゃー、それにしても良かった。さすがプロの生演奏は素晴らしい。この絵画展、何が良かったと言って、この「禁じられた遊び」が最高でした。実はこのパーティーで、店のショーに出演しているスペイン人がフラメンコを踊りにくるというくわだてもありましたが、本人がすっかり忘れていたようで結果的にキャンセルになりました。まったくスペイン人というやつは・・・。
ということで、絵を見に来た人より出品した人たちが楽しんだ絵画展になりました。緊張感が欠如した小学生のバレーの発表会みたいなもんです。次回の絵画展のスケジュールが決まりましたらご案内いたしますので、その節は是非フラメンコのギター演奏と踊りをお楽しみください。フラメンコが始まるまでの時間つなぎには下手な絵の展示もあることですし。

絵の展示風景

未来画廊の概観
テラスの様子 ギター演奏風景

三陸大船渡での思い出、そして歌作りに目覚めてから 人見敬子 2011年4月19日

鈴木(旧姓古沢)裕美子さんから、ありがたくリレーのバトンを渡されました。
私のことを覚えていてくださる方は少ないと思いますが、小さくてまあるくて、担任は3年間橋本精一先生、クラブ活動は生物部と華道部に属していました。

この度の大震災で被害を受けられた多くの方に、心からお見舞い申し上げます。
岩手の大船渡に学校の寮があったおかげで、20才前後にしばしば訪れ、小石が透明な水の底に揺れて見える碁石海岸で泳いだり、空を埋めつくす銀河に目を見はったりと、沢山の思い出があります。
若気の至りのバカなこともしました。

ある年の冬の終り、2人の友人と訪れた時のことです。
満開の山椿に小雪交まじりの北風が強く吹きつけていました。その日はすることもなく3人で出漁の準備をしている小型漁船を見ていました。
すると、漁師さんの一人が、
「乗せてあげようか?」
と言ったのです。3人で心配なことなど小声で相談した後、私が不躾にも、
「風が強いですけど大丈夫でしょうか?」
と聞きました。すると、
「大丈夫!見てみろ、全く波がないだろ。こんなに静かなのは珍しいんだ」
と言うのです。確かに・・・。そうか、風が吹くと波がでるは別のことなのか、さすがはプロ、と納得してしまった私たちは乗せてもらいました。
その船は何トンかは良く分からないのですが、たぶん10トンぐらいの定置網漁の船で、これから網をまきにいくところでした。ポンポンポン・・・と船は快適に進んで行きました。
ところがです、その船が湾から一歩外へ出たとたん、そこは大時化の太平洋だったのです。大きな波を一つ描いてみてください。その上に台形を逆様にしたのを一つ乗せたような状態!波の間に入ると船は下へ下へと引っ張られるように沈みこみ、周りは青ガラスのような水の壁ができて、日の光が透けていました。怖いのなんの。
「一人っ子がこんな事をしちゃいけなかった!」
反省しても、もう遅い。
難破したら岸まで泳げるだろうかと距離を目で計ったりしていて酔う暇もないほど。友人たちは酔っていました。
やがて漁場に着くとそこは波もなく、漁師さん達がするすると網を投げ入れると仕事は一瞬で終り、一匹の魚をみることもなく船は帰途についたのです。
「これだけの時化で酔わないのは、たいしたものだ。学校を卒業したらすぐ漁師になった方がいい」と、漁師さんに認めてもらいましたが、私は言うことをきかずに公務員になってしまいました。
あの時の皆さんは今、どうしていらっしゃるでしょう。壊滅的な海岸線の様子を映像で見ると暗澹たる気持ちになりつつも、自分たちで助け合い工夫していらっしゃる様子に、本当に感動します。ご無事を祈るばかりです。何もできなくて申し訳ないです。

さて、技術系の公務員になったものの、働いてみたら手先は不器用、物忘れは激しいなど、全く向いてなかったのです。
それでもいつの間にか12年が経ち、実家に家族4人で暮らしていました。
貴重な税金を頂きながら役には立たない、出がけに子ども2人が両足にすがって「仕事に行かないで」と訴える。一人っ子というのは親の権力・影響力が強く、同居の母は「せっかく専門職の公務員になれたんだもの、子どもは私が見るから、定年まで働きなさい!」と言いはるので辞めづらい。さらに、33~34才ごろから当時のポピュラーソングにいたく感じるところがあり、自分でも歌(子どもたちに向けた)が作りたいという夢を持ち始めていました。
※仕事を辞める・・子どもが喜ぶ。歌作りの時間がある。親の意見に逆らわなければならない。
※仕事を続ける・・子どもが悲しむ。趣味の時間が取れない。親が喜ぶ。
傍から見ればどうということもないことでしょうが、悩んでいました。
そんなある日旅先でのこと、テレビをつけると「サウンド・オブ・ミュージック」をやっていました。その中で悩めるマリアに修道院長が歌うのです。
♪ すべての山という山に登り、すべての小道をたどり、川を渡り、虹を追いかけて、あなたの人生の愛のすべてを捧げて惜しくない夢を見つけ、そのために生きなさい♪
というような意味でした。
私は、涙が止まらなくなってフスマの陰に隠れて泣き、東京に帰るとすぐ辞表を出しました。

それからというもの、地方の幼稚園の園歌から村の音頭など色々な公募に出し続けては落ちる(そうだったような気がします)ということの繰り返しでしたが、兵庫県竜野市がやっている童謡の公募にどうにか入ったことから、子どもの歌を作る環境が整い始めました。私は詞なので、作曲家との出会い、発表の場のふたつです。
ごくたまに、「合唱会で人見さんの歌が歌われていたわよ」と教えてもらうことがあり、真面目に作らなければと心を引きしめています。「生命(いのち)が羽ばたくとき」「ARUKI☆DASOU」「太陽と大地の子供たち」などが、比較的歌われているようです。

ところで、我家には今、ミンク・ラクダ・アイ・フェリシア・ジルベールの5匹のネコちゃん達がいます。ネコに接するとき、自分の汚れた心が洗われる思いがします。可愛いので、良かったら見てやって下さい。

   
左から、母ジルベール18才と
娘フェリシア16才
     1才の頃のアイちゃん。今は8才     左からミンク爺さんとラクダ爺さん
ともに16才

では、つまらない話を読んでくださってありがとうございました。
次は、うちから50メートルひばりが丘駅寄りの小林義純さんを予定しております。

リレー投稿 鈴木(旧姓古澤)裕美子 2011年3月29日 

この度、東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
 
 私は、20代の頃に陸中海岸を旅行したことがあります。三陸鉄道もない昔ですが。
気仙沼、大船渡、山田、宮古、田老、北山崎とリアス式の美しい海岸が思い出されます。
山田湾は穏やかで、夜、港の岸壁で竹の釣竿を差し出すと鯵が簡単に釣れました。あの時泊まった旅館はどうなったのでしょうか? ほたてやうに等の海の幸がとてもおいしく忘れられません。
宮古、田老、田野畑と船で行きました。ウミネコがパンをもらいに群がってきました。
田老町には、津波を防ぐ為の10mの高さの防潮堤がそびえていました。今回、地震のニュースを聞いていた時、当初田老町の被害が出てこなかったので、あの防潮堤があるから無事に違いないと思っていたところ、津波は防潮堤を軽々と超えて町を破壊したようです。
日ごろから津波に備えていた人々の無念を思います。
陸中海岸は、ほんとうに美しいところです。海の幸も豊かです。再び人々が元の平和な暮らしに戻れるように祈っています。

 ところで、こんな非常時に趣味の話で気がひけますが、私は地震の翌日に静岡県伊東市に借りている市民農園にジャガイモを植えに行こうと思っていました。しかし、地震のため、一緒に行くはずの友人が職場から歩いて帰宅して筋肉痛になり、また、のんきに畑仕事をしている場合ではないということで延期しました。
しかし義姉の孫達4人がいつもジャガイモ掘りを楽しみにしていることもあり、どうにか車のガソリンを並んで入れて、20日に日帰りで鍬やスコップを積んで行きました。
伊東市の一碧湖近くの畑は30坪くらいです。NPO法人が耕作放棄地を耕して貸し出しています。借りて4年目です。茶摘みや芋煮会などのイベントが時々あります。
いい天気で鶯が鳴いていました。去年の秋は、残暑や雨、旅行などで種まきが遅れた為、大根の育ちが送れ、やっと細いのができていました。後少し遅くなったら花が咲くところで、ギリギリセーフでした。持ち帰って食べたら、細くてもけっこうおいしい大根でした。
友人に手伝ってもらい、ジャガイモを7列植え、その後日帰り温泉に入って帰りました。
畑仕事は試行錯誤です。夏の草取りも大変です。せっかく育ったチンゲン菜や白菜をヒヨドリに食べられることもあります。また、品川から車で3時間半位かかります。
でも、山が見え、鶯が鳴き、なんとものどかな気分になれるところです。桜が咲くと夢のような眺めになります。いつ迄通えるかわかりませんが、しばらく続けるつもりです。

 長くなったので終わりにしようかと思いましたが、人見さんが、「コタキナバルのオオトカゲについて書けば。」というので少し付け足しです。
私は、ボルネオのコタキナバルに3回行きました。市内の船着場から10分くらいボートで行くとシュノーケルができる島々があり、背の立つくらいの所で、珊瑚や隠れクマノミ、カラフルな熱帯魚が見られます。ライフジャケットを付けてお手軽シュノーケルが楽しめます。
サピ島という島には、オオトカゲがいます。1メートルくらいあって、遊びに来た人がバーベキューをすると、のそのそ森から出てきて肉の残りをもらい、片付けにかかると森に帰って行きます。ちょっと怖いけどボルネオらしさが楽しめます。
コタキナバルは地元の人達の屋台村にアジアの活力が感じられます。羽田から直行便もできたのでまた行きたいと思っています。

私は、健康に自信がないので、体力に合わせてボチボチと働き、まあまあ楽しく過ごしています。
次は、人見敬子さんです。

「伊東市の畑」 「コタキナバルのサピ島」

 

青梅花だより 山﨑(旧姓森瀬)春美 2011年3月10日  

  2月に入るとどこからともなく風に乗って梅の花の香りが感じられるようになります。
JR青梅駅から奥多摩行に乗り、二つ目の日向和田駅で降りると三方を山に囲まれ多摩川が流れるローカル気分満喫の景色が広がります。
川にかかる神代橋から見 る風景が絶景で東京とは思えません。梅の名所である吉野梅郷では、2月下旬から3月下旬まで春の訪れと共に約2万5千本の梅が咲き乱れます。
山のほうに向かい数分歩くと梅の公園に到着。毎年3月中旬に観梅市民祭りが行われ、観光客で賑わいます。
公園に続く道の両側には露店が並び、警視庁騎馬隊によるパレード、地元青年団のお囃子、公園内での獅子舞、琴の演奏、野点等イベントで盛り上がります。
皆様も機会がありましたらお出かけになってみてはいかがでしょうか。

  ところ変わって、猫の額ほどの我が家の庭にはバラが10本あまり、10種類のハーブと他の草花が暖かくなるのを土の下でじっと待っています。
NHK学園と日本園芸協会の通信講座で、ハーブ・ローズガーデニング講座を学習する機会を得ました。
ハーブは「香草」、「薬草」または「香味野菜」と訳されていて、日常生活に役に立つ有用植物の総称となっているようです。地味ですがかわいらしい花が多く魅力的です。
お茶として飲んだり、料理に使われて体に入ったハーブは、血行を良くし、発汗を促したり体の中の老廃物を体外に押し出すなど新陳代謝を高める働きを持っています。
今、ローズピンク・ローズヒップ・シナモンスティック・アッサムティーをブレンドしたもの、リンデン・ジャーマンカモマイル・ジャスミンフラワーをブレンドしたハーブティーを愛飲し、ローズマリー・ラベンダー等5種類のハーブを入れたシューズキーパーで足元さわやかな日々を送っています。
夏の草取りシーズンには汗を拭きながらもミントやレモンバーム、バラの香りの中で至福のひと時を過ごします。

  バラは古来より豪華な美しさで人々を魅了してきました。かの皇帝ナポレオンの皇后ジョセフィーヌもその美しさに情熱を傾け、現代のモダンローズ発達の基礎を築くうえで大きな貢献をしたというエピソードも残っています。
これから気温が上がってくると、アブラ虫や黒点病の発生が心配され、その前の病害虫防除の手間のかかる作業がありますが、咲いた時の感激はひとしおで、それまでの労がねぎらわれます。
小さくても自分をしっかりと主張し咲き続けるラベンダー、太陽の光をいっぱいに浴びて存在感充分のイングリッシュローズ等色とりどりの花々で庭を演出しようと今年も精を出すことになるのです。
  ずっとずっと花とともに生きていたいですネ。 

八甲田の山スキーに参加 見頃を迎えた梅の公園
イングリッシュローズの ”アブラハムダービー”