更新 2011年9月3日
リレー投稿を琴坂さんからバトンタッチされた栗原正成です。クリハラといっても、Who is Kuriharaと言われそうですが、高校時代は周(アマネ)と名乗っており、2年、3年の時は出席簿1番、1年の時は3番でした(成績順ではない)。1年の最初の時に教室で何と読むかが、後の方の悪ガキ達で話題となり、井上茂くんが「西周(ニシアマネ)」という学者がいるので、アマネだといったのを、思い出されます。私は西周をそのとき初めて知ったのです。また、周(アマネ)という読み方をしたのは高校からで、中学校時代までは周(しゅう)という呼び名であり、また、現在の栗原という姓になったのは、養子結婚したためではなく、私の大学時代、兄の就職で日本国籍であった方が有利だという判断で、母方の姓(栗原)を名乗ることになったのです。ちなみに父の方は戦前日本統治下の台湾の嘉義の出身で、開業医の末の息子として中学を飛び級で卒業以来、上京し、大学院博士課程まで10数年、早稲田マンとして、仕送りだけの優雅な生活をしていたそうです。
私自身の高校時代を振り返れば、中学時代(豊島十中)は優等生で、中央委員、ブラスバンド部の部長(中2の時、全国1位)として脚光を浴びていましたが、同中学校は第4学区で、私は桜台から寄留して通っていたため、優秀な生徒は小石川高校に進むものが多く、大泉は私ともう一人(鈴木英行君)のみでした。そして入学早々大泉高校のカルチュアショック(朝礼時の列の乱れや飛び交う私語)と柔道部に入ったため肉体的疲労等で、最初の試験は散々であり、私のプライドはズタズタになりました。そこで、一念発起といけばよかったのですが、その節は中学時代からの親友がサッカー狂で、早稲田高等学院でサッカーをやり始めた影響で、(豊島十中は東京都2位の実績があった)私も狭い体育館での汗臭い柔道より広いグランドでのサッカーをやろうと一大決心をしたのであります。そんなわけで、私自身は、3年の8月末の国体予選までサッカー漬けで、1年時12名いた同期も、国体予選までやったのはキャプテンの中澤邦夫くんとあと二、三人くらいでした。最初はCFをしたいという思い入れでしたが、イカンセン小学校時代は野球小僧でしたので、高校から始めたのではレギュラーになれそうもないと思い、小中ではドッチボール5回ぶつけは大得意で、ジャンプ力にも自信がありましたので、1年の秋からGKに転向しました。鬼のような先輩たちの特訓のお陰でメキメキ上達し、2年生の5月に一年先輩のゴールキーパー(松井先輩)が受験のため早々と引退したため、試合に出られるようになりました。私の代は同期と一つ下が人材不足で、2年の夏の国体予選で当時芝生の駒澤第2球技場で、私立城北と対戦し、前半1-0で勝っていながら、後半私のミスで逆転負けし、国体への道を閉ざされてしまいました(ちなみに城北は国体5位)。これが最高の成績でした。
高校時代はサッカーと2つの失恋(一つは淡い恋、一つは苦い思い出)が主だった思い出で、勉強の方は最初にあきらめたというか,やればできるんだとなどという変な自負から、成績はどん底でしたが、赤点だけは一度も取らなかったのが自慢できることです。また、完全な文系かつ暗記得意の私が3年時のクラス分けで、女子が多い文科系を嫌い、男子多数の理科系を選んだことが、そもそも躓きを大きくした要因だと思います。その上、皮肉にも9組という男34人、女17人のクラスに入り、エンタ(安藤先生)の担任のクラスにあたってしまいました。彼はサッカー部の顧問にもかかわらず、クラブを辞めるように諭し、おまけに大泉卒の現役東大生の家庭教師を押しつけたのです。私と同じようにラグビー一筋の永島君と二人だけ家庭教師をつけられたのには参りました。しかしながら多数の秀才と才女に囲まれ、成績順位の発表結果に悩まされながらも、3年9組で過ごした日々は一生の友(たとえば、永島くんや琴坂さんような)を持てたということがよき財産であると思っています。
そんなこんなで、受験にあたっては理系クラスながら文系志望であり、第一志望の北大は親の反対と数学の学力不足であきらめ、早稲田の政経を第一志望と商学部を滑り止めとして受けました。商学部は補欠で引っかかりましたが、当時の風潮、一浪人並の生活に入りました。そして翌年は東大入試中止のあおりを受け、私立一本に絞った私でありましたが、現役のときに私を落とした早稲田を嫌い、第一志望を慶応の文学部(当時2科目)としましたが、見事に振られ、受かったのは青学の文学部神学科だけでした。特待生として入学金免除と祝い金をもらい、取りあえず1年間いてみようということで、入学しましたが、当時の学生運動のあおりでストや閉鎖で4年次になり、あと2年いて単位を取らないと1年だけでは卒業できないと言われ、自主退学(除籍)となりました。
その後の生活は、紆余曲折、七転び八起きで、馬齢を重ね、現在に至っています。現在は、32年なぜか同居している鬼妻と2人で、飯能市に都内での生活を上回る31年の田舎暮らしです。私事ですが、昨年2月に母親を約5年の介護施設生活ののち見送り、「さあこれから」というときに自分の体がおかしくなり、この1年近くはドクターからさまざまなストップを掛けられ、喫煙以外は守っていますが、薬物治療や生活指導を受けています。また、還暦を境に私は「栗原周」のペンネームで投稿し、商品稼ぎを企てておりますが、今だ本格化せず、この原稿を機会に、精を出したいと思っています。どこかで栗原周、年齢56~64(年齢不詳)を見たときには、「あの馬鹿野郎が!」と失笑してください。
最後になりますが、こころとからだの健康が第一、ラテン語のカープディエム(今を生きる)を座右の銘とし、自利利他の精神で、もう一踏ん張り、日々を送れたらと思っています。最後になりますが、次のリレー投稿は奈良で活躍している9組のマドンナの一人、野口哲子さんにお願いしたいと思います。
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寝耳に水なバトンタッチで、どちらに向けて走り出せば良いのかもわからないが、他ならぬ卓球のダブルスパートナーであり、部長and副部長として一緒に汗と涙を流した青山君の申し出を断るわけにはいかぬ。とりあえず、次のランナー決めの段取りを条件に、バトンを受け取った。
同期で交流があるのは数える程で、殆どの人とは高校卒業以来となるから、少しかたい内容にはなるが、その後の私の歩みをかいつまんで紹介するところから始めよう。
60余年の人生を振り返ってみると、私は、安定・安全を好むというよりは、自分で殻を破るという勇気に欠け、大きな時代の流れに押し流されていただけのようだ。皆が入りたいという大学を選び、将来潰しがきくと言われる機械工学部に入り、学生紛争の最中は、ノンポリとして、“逃げて逃げて逃げまくれ!”とバリケードを乗り越えて麻雀とパチンコと部活に明け暮れ、まともに授業を受けた記憶はない。大学卒業時には、「宇宙開発と浮かれているが、金がかかりすぎて、結局は駄目になる。やはり日本は深海開発に取り組むべし。海底都市造りにチャレンジする仕事につきたい。」と夢見ながらも、結局はジャンケンで負けて、不人気で残っていた三菱重工に入社した(今の時代の人達に言ったら、怒られるだろうが、・・・)。
勤務地は広島で、初めて両親と離れての独身寮生活であった。「海底都市開発をやりたいので、関連する設備の開発に取り組んでいる長崎か神戸の研究所に異動して欲しい。」と、人事部に申し出たがまともに取り扱ってはもらえず、結局は、「お前は部活で鍛えた体力がありそうだから、原子力部門に入って、ウラン濃縮用の遠心分離機の開発に取り組め」と、訳のわからない人事命令を受けた。そして30歳の頃までは、勤務時間後は卓球の練習か、麻雀か、街に飲みに行くかで、週2日位はそれが明け方まで続き、1~2時間眠ってから仕事に行くというハードワーキング?をしていた。見合い結婚をしてからは品行方正に暮らし始めたが、今度は仕事の方が超多忙となり、朝の5時か6時頃に残業が終わって帰宅し、仮眠と朝食をとって7時半には出社するような週休(!)30時間の生活を過ごした。先輩諸氏のお蔭で濃縮プラントの建設は順調に進み、東芝・日立・三菱の合弁会社を設立後、最終的には東電に吸収合併されるような形で、一つの大きな国家プロジェクトは区切りがつけられた。その後は、まさに今話題となっている原子力発電・核燃料サイクル開発につながっていくのであるが、幸か不幸か、私はここで縁切れとなった。
残っていた約100名の関係者の次のメシのタネを作り出すため、その後、超高速回転機械つながりで、超高真空用ターボ分子ポンプや核融合装置用セラミックス製高真空ポンプの開発など、世界初の製品開発に取り組んだ。しかし、広島の事業所本体の経営が思わしくなく、47歳の時に早期定年退職制度を利用して日本電産に移籍することになり、上記の真空ポンプは、事業も技術も特許権も丸ごと島津製作所に売却された。これで、私の三菱重工時代の足跡は消えた。
永守重信というカリスマ社長が一代で築き上げた日本電産という会社は、今でこそ多くの人に知られているが、当時は、リストラ先としてその会社を斡旋した上司は、何を作っている会社なのかさえ知らなかった。しかし、私は、自分が社会人になった年に創立された会社であることに興味を惹かれ、また、マンツーマンでの面接試験で、金色のオーラが輝く永守社長に、熱い想いを、約1時間途切れることなくまくしたてられたことに圧倒されて、その場で入社を決心した。入社後の出来事は、それこそ数時間しゃべっても尽きないくらい、面白い、びっくりするようなことが沢山あるが、まだこの会社(滋賀技術開発センター)に嘱託としてお世話になっている都合上、正直には書けない。10年後にまたバトンが回ってきた頃には、紹介できるかもしれない。
ともあれ、以上、私の大泉高校卒業後の足取りを駆け足で紹介したが、今回書きたかったテーマは、これではない。前書き的に書いた「変える勇気と卓球」に関することである。予定より少し長くなってしまっているが、“始めたら止めない”のが私の性癖であるので、もう少し書かせて頂く。
高校時代は、卓球のボールは白、大きさは直径38mm、試合は21本3ゲームマッチと決まっていた。従って、体育館のドアや窓は光や風が入らないように閉め切るのが当たり前で、ユニフォームもボールが見やすいように濃色の単色に決められていた。卓球は、正に、暗く地味なスポーツの代表で、陰気でおとなしい性格の代名詞にも使われていた。当時は運動中に水を飲むことはご法度であり、閉め切った暑さの中で休憩もなしに行う21本勝負の試合は非常にきつく、よく試合の最中に足を痙攣させていた。同じ体育館の中で練習していた柔道部、剣道部、体操部の皆さんには、昔に戻って、協力を感謝し、お互いの忍耐力を讃え合わねばなるまい。
しかし、21世紀に入ってすぐにルールが改訂され、今では、ボールは白と黄色の2種類、大きさも直径40mmと一回り大きくなって見やすくなった。その結果、ユニフォームもカラフルになり、四元奈生美ちゃんのようなファッション性豊かな選手も登場するようになった。また、試合も11本5ゲームマッチに変わり、スピーディーな展開が行われるようになった。そして、福原愛ちゃんをはじめ、石川佳純ちゃんや水谷隼君、松平健太君などの華のあるスター選手が続出するようになり、やっと、以前の暗いイメージからは抜け出すことができたようだ。やはり、“変えなくては変わらない!”のだろう。
私は中学時代から卓球部に所属し、そこそこな腕前を保持しながら高校・大学・会社と主将の責を担ってきたが、今は滋賀県で、卓球を愛する老若男女のクラブに所属し、楽しく汗を流している(
http://www.geocities.jp/shiganotogawaclub/index.html )。社会人になった時から腰痛としびれで悩まされ、激しい動きにはついていけなくなっているが、今年の7月末の草津市夏季選手権大会では、シニアの部に出場して久々に優勝し、京都新聞に掲載された。私の雄姿写真を添付しておこう。“継続は金(キン)!”でもあるようだ。
この盆休みに大泉高校卓球部の同期が集まった。池袋にある、同期会のメンバーが良く集う場所らしいが、とても美味で安く、くつろげて、しかもタイムスリップしやすいお店であった。僅か数時間の逢瀬ではあったが、40年以上の時間が一気に逆流してしまった。その時の写真を、高校1年と2年の時に、3年生の追い出しを兼ねて撮影した写真と並べて掲示する。一瞬ではあっても若返りの変身を完了した我々が、各々誰であるかは一目了然であろう!!??(わからない人がいる?申し訳ない!昔の集合写真の時には、何故かいなかったらしい・・・。)こうやって人生を俯瞰して見ると、“あな不思議、行くも帰るもとどまるも、すべては己のこころの成す業”という気がしてくる。次は、この中の一人、“超アナログ人間”と自他共に認めて緩やかな時間を過ごしている高木(旧姓:十代田)順子さんにバトンを渡して、卓球部の輪をもうしばらく継続させて頂くことにする。
以上
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某月某日
皆様お暑うございます。といっても、涼しい日もあり、寝ていても、地震があるし、なんだか落ち着きません。
大槻君より、引き継げとのことで、さて、大槻君はどんなことを書いたのかと見たら、直近ではなく、探すのに手間取ったりしました。リレー投稿に二つのラインがあったんですね。そんなことも知りませんでした。早速ブックマークして、これからはこまめにチェックしようと思います(もう遅いか)。
現在、私は新宿御苑の近くにある出版社で自費出版の仕事をしていますが、昼休みに散歩がてら御苑に行くことがあります。先日も行ってきたのですが、いや暑かったですね。緑が多くてもさわやかというわけには行かないです。ここは震災のときは避難場所になっていて、3月11日も、ここに集合しました。ふだんは200円という木戸賃をぼったくるのですが、さすがに、そのときはフリーパスでした。でも、結局会社に戻ったり、避難場所というのもよくわかりません。外に出ると、建物倒壊、ガラス破片落下などの危険もあるので、動かないほうが良いとも言われています。
やはり、この季節は花も少なく、キョウチクトウ、ヒャクニチソウ、タイワンホトトギスなど、広い園内ではまばらに咲いている感じでした。
ただいまかなり大きい温室の工事中で、その場所はシートに覆われて美観を損ねています。完成の暁にはまた入ってみようかと思った次第。
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タイワンホトトギス | キョウチクトウ | |
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ヒャクニチソウ | 新宿御苑 | |
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新宿御苑 |
某月某日
一ヶ月ほど前、私の隣のデスクに30代後半と思われる活発な女性が入ってきました。
ほかの人と話しているとき、何かの拍子で練馬の話題になって「僕は大泉高校だから」と言うと、離れた席から、そのHさんが、大きな声で「私も大泉高校です!」と叫んだのです。
いや、後輩だったんですねえ。びっくりしました。しかもなんとなく、大泉と言われると、違和感がないのが不思議です。
年齢が近いと、共通の話題などで盛り上がるのでしょうが、間が20期以上開いているとなると、特にそういうこともなく、「先輩後輩とは、いや奇遇だね」で終わるところだったのですが、ここで、私がよけいな一言を言ってしまったのです。 「キャスターの池上彰っているでしょ。彼は僕の一つ下」 「へえー、そうなんですか、すごーい。ええ? ということは……青山さんて」 と、パソコンに向かって、「池上彰」を検索し始めて……。 そうなんです。年齢がバレバレと言うことです。つくづく、よけいなことを言うもんじゃないと思いました。皆さんもお気をつけください。 というわけで、次は卓球部のキャプテンだった大澤さんにバトンを委ねます。
皆さんこんにちは。キーポ(旧姓萩原)さんよりリレー投稿が回ってきてしまいました。慌てて、 過去のリレー投稿を読ませていただくと、お歴々の投稿は輝かしい内容ばかりで、圧倒されてしまいます。私は何ら素晴らしい経歴もなく、でもその時その時で楽しく精一杯生きてきました。したがって、私のこれまでの人生と近況を報告するしかないですよね。
大泉高校卒業後、大学で心理学を学び、さらに、大学院の修士課程、博士課程に進みました。高校時代は劣等生グループの一員?で、ほとんど勉強もせず、成績も芳しくなかったのに、研究方法が実験や調査、観察であり、結果は統計などを使って分析する心理学という学問が理科系崩れの私にあっていたのか、大学教授にまでなることができました。大学院に入学した年は、東大紛争の余波で学部から上がる学生が一学年なかったので、実力もないのに、運だけで受かったのだと思います。7年間の大学院生生活の後は、国立小児病院の発達心理室で働きました。発達障害や情緒障害の子どもやお母様と面接や検査をし、楽しく遊んだり、発達支援をしました。働きはじめて1年をすぎたころに、夫の親戚筋から、「群馬県の短大で心理学の先生を探しているが元子さんは来ないか」という話があり、「どうしよう。せっかく始めた病院の仕事を辞めたくないし。」とぐずぐす返事を延ばしていると、「理事長は研究活動でもあるので、病院の仕事を続けてもいいといっている。もう話を進めちゃったし、来てもらわないと困る。」とのことで、採用が決まってしまい、欲張って、群馬の短大と東京の小児病院との2か所で働くことになりました。幼いわが子を2人抱え、タレント並みの忙しさとなりました。33歳の時でした。保育園のお迎えに間に合わなくて、タクシーを飛ばしたことが何回もありました。短大は親戚筋の義理で行くことにしたので2~3年でやめるつもりでいましたが、大学の先生というのは一度職を得ると、長い夏休みもあり、結構楽しくもあり、辞めにくいもので、結局、平成18年、57歳の時、川村学園女子大学に移るまで24年間働きました。その間、単著で300ページの本を出版したりしました。また、実家の母親や兄を看取りました。
川村学園女子大学(我孫子市)に移ってからも、聖心女子大学(港区)や小児科クリニック(大田区)でも非常勤の仕事をし、多忙を極めました。そのころ、自宅療養していた夫の体力が少しずつ低下しておりましたが、科学研究費やこども未来財団の研究助成金をもらうなどしたため、引き続き、超多忙でした。また、子どもたち(息子(病院勤務の医師)、娘(公安職公務員))も皆忙しくて遅くまで家を空けることが多く、私も息子も少しでも家にいて面倒をみてあげたいと、仕事を減らす準備をしていたところの突然の旅立ちでした。忙しい最中で、また、何の心の準備もないままに、見送りました。そういうわけで、私は60歳で未亡人になってしまいました。
還暦とはよく言ったもので、人生をリセットするよい機会ですよね。それまで、時には20日間連続出勤ということもありましたので、還暦を過ぎた時、喧嘩してでも非常勤先は辞めさせてもらおうと決心し、本務校だけにしました。そこで少し時間に余裕が持てるようになりました。
そうそう、昨年の8月にダイエットを決心し、だいぶ体重を落とすことに成功しました。たまたま読んだハーヴェストクラブの会報に「ナチュロファスティング」という方法が載っていたので、それを実行したのです。一日目は生ジュース、スープ、二日目は二分粥、三分粥、大根の味噌汁・生ジュース、三日目は三分粥、五分粥、スープ・生ジュース、四・五日目は五分粥、野菜の味噌汁・生ジュース、七分粥、六日目に八分粥、完全食といった6日間のプログラムで、ホテルに5泊し、ヨガやカウンセリングのついたもので、参加費は8.6万円です。美味しいお料理も出ないのにそれは高い!と思い、自宅で真似することにして、夏休みになったら早速、実行しました。週末は普通に食べました。それをストイックにも毎週繰り返しました。はじめは辛く、午後から夜にかけて映画館で過ごしたり、スポーツクラブに行って、水泳をしたり、マッサージチェアーで1時間寝て過ごしたりしました。大学時代に行っていた山ガールも、40歳から始めたテニスも再開したかったし、血圧やコレストロールが少し高いので、医師から薬を飲むように言われていた時期でもあり、また、病院勤務を辞めて大学院を受験する息子があまりにも太っており、試験会場の椅子に座れないのではないかと危惧していた時期でもあったので、競争しようということで、続けることができました。
今年になって、ひょんなことから同じ境遇の小学校の同級生と再会し、毎週のように会い、ハイキングに旅行に散歩にテニスにと楽しく遊ぶようになり、またまた、忙しくなってしまいました。大震災の次の日の上野動物園の見学から始まり、都内公園散歩、全周33キロを3回に分けた明治通り散歩など都内を歩き続けました。その後、東京近郊に足を延ばして、ハイキングをしようということになり、箱根明神ヶ岳、鎌倉アルプス、奥日光、尾瀬(尾瀬ヶ原、尾瀬沼)、軽井沢離山、浅間隠山、黒斑山、霧ヶ峰など、トレッキングしています。すっかり登山用品を買いそろえ、山ガールもどきスタイルで中高年の山散歩を楽しんでいます。ところで、昨年までは外出するときは必ず黒い服でしたが、最近はカラフルな服も抵抗なく着られるようになりました。先日、同僚の先生が、しげしげと私を見て、そして唐突に、「先生の洋服、最近、カラフルね!以前は黒い服しか着ていなかったのに。」と言いました。こころに何らかの変化があったのかもしれませんね。
私は、高校時代から相変わらずの慌て者で、先日は、渋谷の公園通りを歩いていて、段差に足を取られてバッタと倒れ、前歯を3本折ってしまいました。今仮歯を入れています。その翌週には、テニスをして、ちょっと横に来た球を取ろうとして脚が出ずに、手だけ出して転び、砂入り人工芝で肘と膝を擦り剝き、真皮に達する傷をつくりました。満身創痍です。それでも懲りずに、あちこちに行きまくっています。7月26日には「葛飾納涼花火大会」に行ってきました。花火は寝ながら見ると首が痛くならないということで、ビニールシートを広げ、横になりながら、すっかりくつろいで花火を観賞しました。それを娘に話すと、「還暦を過ぎた人々が寝ながら花火を見る光景っておもしろい」と言っていました。
大学の先生は3分間の内容を30分間に引き伸ばし、マイクを握らせたら離さないくらい長く喋る癖があるといわれており、まだまだ、リレー投稿を書き続けそうですが、今回はこれくらいにしたいと思います。最後に、皆様にメッセージを。東京にも日本にも、まだ皆様の行ったことのない知らないところがいっぱいあり、訪ね歩くと何処もよく、美しいです。また、ほとんどのところがタダで、お金がかかりません。是非、ご自分の足で、歩いてみてください。それには、同行者を探さないとね。一人ではつまらないですし、一人では億劫で、出かけないものです。これから、私のように相棒に先立たれ、一人になる人もいるかと思います。自分の世界を広げる意味からもパートナーは必要だと思います。昔の誼の友だちにせっせと年賀状を出してみてください。
今、命があって生かされていること、一人ではないことに感謝し、これからも周りの人を大切にして良い仕事を続けていきたいと思います。
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娘の描いた絵を表紙にしました | 5月の箱根明神ヶ岳です | |
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6月の尾瀬沼です | 梅雨明けの霧ヶ峰です |
やりましたね!
みなさん徹夜または早起きしてワールドカップ女子サッカーの観戦で寝不足でしょう。
私も予想外にも自宅に居て観戦する羽目に。本当は南アルプスのどこかの小屋で早起きしてご来光を見て歩いている予定でした。というのは1間前膝の外傷で8針縫って歩くのがやつとの状態です。毎朝犬の散歩でジョギングをしてますが信号を目指して全速力で走ったところ犬が私の足に絡んで転び大けがをしたというわけ。肋骨も痛め、くしゃみができない。
実は8月の末にフランスのシャモニーでツールドモンブランというレースの予定があり、走り込んでいなければいけないのです。これは山岳レースでモンブランという山の周囲166k【46時間以内】標高積簡1000m~2500mを寝ずに走るレースです。短い距離も有り私は謙虚にも98k(26時間)に出場します。5年前だったら間違えなく長いのに出たでしょうが。残念なことに年とともにスピードが順調に落ち以前は制限時間を気にする必要無かったのにこの所は結構大変です。そして周囲がどんどん若くなる。
先日奥久慈の山岳マラソン(50k)で隣で走っている若者に聞かれました。失礼ですがお年は?実年齢を答える、彼の母親と同じとのこと。失礼ながら、私の方が先にゴールしてしまいましたが。
最近は年代別があるとほとんど優勝。私が出る100kマラソンとか、50k以上の山岳マラソンになると敵なし。
フルマラソンになるとまだまだ元気なおばさんがいてだめだですが。
マラソンを始めて30年になります。次女が1歳の時走り始めました。育児と仕事と家事で自分の時間がなくで何かしたい、早朝夫がいるうちに走りに出ました。私がいなくなると赤ん坊が泣いて夫が寝ていられないので、いつもケンカ。なでしこ母ちゃんは強し、その後3人【計5人】生みながら走り続け今に至ったわけです。
40代でトライアスロンにも興味を持ち、水泳を習い始め、水泳の素質がないのかなかなか上達せず、初めて海で泳ぐ大会では海が怖くて,すぐに上がってしまいました。でも宮古島の大会に出たくて努力しました。宮古島の制限時間は14時間なのでも14時間ぐらいかかるレースを探したところ、今や有名な、長谷川恒夫カップ(72k)という山岳レースでした。ここから私の山岳レースが始削ました。トライアスロンは2002年宮古島完走し国内のロングの大会は毎年出ました。アイアンマンレース(水泳3.8k、自転車180k、マラソン42.195k:15時間以内)で年代一位になるとハワイの世界大会に出られるのですが、これはかなわず、韓国の大会も出ましたが水泳の苦手の私は完走はできたものの、ハワイの出場には届きませんでした。今は登山その他の趣味に晴間を割くため、長時間の自転車練習ができないので、ショートの大会(水泳1.5k、自転車40k、ラン10kK)にしました。トライアスロンもみんな若く、毎年出ている神奈川県大会(日産カップ)では毎年女手の最高年齢を更新しています。私のアスリート人生で最高の年は2005年(55歳)スパルタスロン完走した時です。これはギリシャのアテネからスパルタまで246kを36時間以内で走るレースで、世界中から選手が集まります。日本人は我慢強いので得意で、よく優勝します。
その後は坂道をどんどん転げ落ちてますが、悔しいけれど仕方がないことです。
60歳を超えたら名実ともにばあちゃんですね。孫も3人いますし。
幸い私の仕事は定年がないので、続けて行けます。34歳で小児科を開業し、今に至ってます。
先日長男(28歳)が2年の医師研修を終えて少し時間があったので私のところで小児科の修行がてら仕事をしました。結構講評で【今日は若先生はいないの?】とか【いいあとつぎですね】とか私の引退を促すしきり。いえいえまだまだ働きます。不思議なもので、若い時は年になって辞めたら世界旅行をしようとか、ハワイかどこかに住んで、もう一度学生をやろうとか思っていましたが、今はマラソンと同じで、できるだけ続けようと思ってます。私もなでしこジャパンにあやかって、粘り強くがんばっていきます。
主将の澤は長女と間じ年だし。