更新 2013年3月3日
伊賀上 知雄 くんからバトンを渡された札幌 福原です。 生来の筆不精かメールが遅れてしまいました。
他の皆さんのメールを読んでいると 高校時代から始まる経過紹介なども多く 私も高校卒業以来のことを
かってに書いてみることにしました お付き合いいただければ嬉しいです。
私が卒業したのは1968年です、もちろん皆さんと一緒です。私はご存知の方はご存知でしょうが 殆ど全くと言っていいほど
勉強しない高校生でした。2年までは土日はボート部で戸田ボートコースでボートをこぎ、ボート部を「卒業」した後は 勉強するでなく
土日は毎週大泉高校に行き 当時大発生していた桜の木の害虫 アメリカシロヒトリ(木の枝に数十匹からの巣をつくり
糸を出して葉を丸めていました)を 竹の先につけたはさみで切り落とし 焼いて駆除したり、校舎の裏庭に かってに堆肥を撒き
とうもろこしと大豆を育てたりして過ごしていた記憶しかありません。(教師の誰にも許可をもらった訳でなく
今の時代だったら当然怒られたでしょうが 夏休みのことだった為か 全くお咎めなしでした。
そんなわけで、優秀な同期生たちは クラブ活動もやりながら勉強しストレートで東大などに進学しましたが、
私は同級生数人と千葉大医学部を受験に行き 試験問題を見ても全く回答など浮かばす、涎のシミだけを残して回収されたことを
思い出します。 私以外の同級生はみな合格しましたが 一人私のみ不合格でした。
大塚にあった武蔵予備校の入学試験を受けましたが 3回不合格 4回目は受けることも放棄して 試験の必要のない
午後部にいくことになりました。予備校に登校する昼休みは私にとって「屈辱」の時間でした、試験に合格した午前部に通う
多くの同級生とすれ違うたびに 私は下を向いて顔も上げず「やー」と挨拶したような気がします。
当時私は医学部を希望していました。親や親戚に医療関係者はいませんでしたが、よくあるはなしで、小学校時代野口英世や
シュバイツアー博士のことを読み 医者になることを夢見ました。千葉大がだめならどうしようか と考え。私学は家の財政から無理ですので
国立大学をいくつか考えてみました。もちろん東大になんかいくことは不可能でしたが1969年は東大の入学試験がない年で、
東京近くの国立大学は難しくなることを考え 北の方角の大学を考えてみました。東北大学の入学試験科目を見てみると
社会は日本史・世界史指定でした、クマさんの授業は面白かったですが 受験勉強らしいことは何一つしていない私は
日本史・世界史の覚える項目の多いことに愕然とし、もっとも教科書の薄い 地理と倫社・政経を選ぶとしたら 東北大は受けられず
受験科目の指定のない 北海道大学が「よさげ」な気がしてきました。理科についても 教科書の厚い化学は覚える時間がないとして
(ただ物理は花崎ブンちゃんのおかげか好きでした)放棄 やはり教科書の薄い 地学を選びましたが その点でも北大以外
受けられる可能性がないようでした。(あまり調べたわけではありませんでした)
それで 何となく北大を選び 予備校の実力試験の解答用紙の「志望校」の欄に「北海道大学」と書きました、
当時合格可能性の高い順にA(40%以上?)・B・Cなどの判が押してあり 私の解答用紙にも判が押してありました。
なんとそれは(今も忘れもしない)「志望校変更の要あり!」でした。
「変更の要あり」と言われても どこに変更していいか分からず、それから褌(いやパンツでしたけど)を締めなおして 勉強しなければ
もう1年浪人生活をしなければならない「恐怖」を感じました。それまで 睡眠時間が少ないほうが合格可能性があるという言葉を信じ
3~4時間仮眠し また夜中に起きて勉強するような不規則な勉強時間を改め 夜はしっかり8時間寝て そのかわり起きている時間は
必死に勉強するというスタイルにしました。また予備校ではそれまでの後の席でなく一番前の席に座るようにしました。
また英語は 予備校での最初の試験で0点だったことは忘れられません、それで高校の教科書はあきらめ中学の教科書を出してきて
1年のものから始め中学3年までのものをやることにしました。それやこれやで 北海道に行く飛行機の中で倫社の教科書を見たりする
状態で合格するとは思えず試験前 合格発表の電報も頼まず 「もう一年予備校かー」とふてくされていると、合格発表から数日たって
北大学生寮の恵迪寮から「入寮希望者は〇〇日までに申し込むこと」という葉書が来ました。
当時 連絡船が津軽海峡を運航している時代で 2~3日で葉書が着くとは思わず 「これは受験者全員に送ったはがきなのでは?」
とも考えましたが それも変なので恵迪寮に電話で問い合わせると「合格者に発送しました」とのこと。
私は驚きあわてて「おまえなんか受かるはずない」 と断定していた両親に報告しました。
私も本当に受かったのか半信半疑でしたが とにかく夜行列車で東京を離れ北へ一路向かったのです。
(長いどうでもよい話になってしまいました ここまで付き合ってくれた読者に感謝です)
北大時代は 入学したときは 北大でも学生運動が盛んなときで 入学式は封鎖され 結局半年間は全く授業がない状態が続きました。
授業は余りまじめに行った記憶はありませんが 偶然関わった長沼ミサイル基地訴訟には その裁判の全公判に参加し
私の学生時代の殆どをそれえの関わりですごしました。
(疲れてきたので 学生時代はほぼ省略・・・ もし可能ならまたの機会に)
北大を卒業し 私は北海道勤労者医療協会(勤医協)というところに就職 内科4年(うち診療所2年)、その後 小児科に転科し
札幌市の北部にある中規模病院の一人小児科として長い間勤務していました。
その間に 職場で往診にたまたま一緒に行った看護婦と結婚、3人の子どもが生まれました。上の二人は医師となり
娘は何故か私と同じ小児科を選びました。3人目は理学療法士となり 結局3人とも私と同じ職場である民医連に就職
上の二人は私たち夫婦が知り合った病院で同じように伴侶にめぐり合い 結婚しました。
上の娘は その後婿さんの研修先として選んだ福島県郡山市に転居 二人の娘に恵まれましたが 一昨年の福島原発事故が発生した時には
たまたま女房が孫の面倒を見る為に郡山に行っており 被災地から脱出する為に震災でごった返している福島空港から
乳飲み子である孫を連れて札幌に戻ってきました。
やはり 話が長くなってきてしまいました、書いた私も疲れてきたので 読んでいただいた皆さんもお疲れだと思います。
元気の出る話をしたかったのですが こんな話を書いてしまい申し訳なし。
では結論を急いで 現在の話 以前の大泉20期の会のホームページにも少し書き書きましたが、札幌市の夜間急病センターで
月に10回ほど 夜勤をして それ以外に 娘のいる福島県福島市や 道南の黒松内町という人口3千人の小さな町
札幌と旭川の途中の赤平という元炭鉱の町などにつき1回ほどいって仕事をしています。そして 空けた時間に
東京の一人暮らしのおふくろのところに顔を見に行っています。
夜勤の次の日はもちろん疲れていますが それなりに医者としての充実感もあり、日々暮らしています。
長くパソコンに向かっているので 持病の腰が痛み始めてました この辺で 私の近況(遠況?)といたします。
長らく御無沙汰しております。伊東さんからリレー投稿を引き継ぎました須沼です。と申しましても高校在学中は
影の薄い存在だったと思いますので殆どの方は覚えていらっしゃらないものと思いますが、在学中は1年2組(畑野先生)、
2年9組(小島先生)、3年6組(小田切先生)に在籍しておりました。クラブ活動は伊東さんや伊東さんの前に投稿されました
坂路さんと同じ吹奏学部に所属しておりました。吹奏学部の方々とは5年ほど前から年に一度お会いする機会があり交流させて
頂いておりますが、それ以外の方々とは殆どお付きあいがありませんでしたので、卒業後の経歴と近況を簡単に御紹介したいと思います。
1年浪人した後、大学の電気工学科に進学致しました。かなり危なかったのですがなんとか4年で卒業して通信機関連の
電気メーカに就職し、主にソフトウェアの設計業務に従事致しました。その後暫くSE業務に携わった後にスタッフ部門に移り、
56歳で定年を迎えて8年程前に退職致しました。退職と同時にパートナー会社へ入り、本社在職時の職場へ派遣される形で
勤務を続け今日に至っております。勤務地は東京都港区の芝浦が長かったのですが、事業所の移転等により埼玉県の
蕨市に移って10年近くになります。
私生活では33歳で結婚し3人の子供に恵まれました。上の2人は社会人として自立しておりますが、末っ子がまだ大学生で
あと2年ほどは勤めを続けなければならない状況です。10年ほど前からビーグル犬を一匹飼っており大分年をとってきましたが、
まだまだ元気で一緒に暮らしております。住居は結婚とほぼ同時期から約30年間荒川区に住んでおりました。
荒川区内で一度転居しておりますが、いづれもJR山手線の日暮里駅から常磐線でひと駅の三河島駅近辺で、
東京23区内であればどこへでも1時間程度で行ける大変便利なところでした。上野公園も近く東京タワーとスカイツリーを
並んで見渡せる景観も良い場所でしたが、思うところあって東日本大震災を機に転居を決め、練馬区の実家をリフォームして
昨年2月に転居し丁度一年ほどになります。荒川区に在住中も両親の介護等のため2~3週間に一度程度は実家へ通っておりましたが、
実家近辺は宅地化がどんどん進んで様変わりです。バス通りから奥に入って田畑や林ばかりだった所も殆ど残っておらず、
飼い犬の散歩に出て道に迷ったり新しい発見をすることも度々です。
はなしは変わりますが、皆様、御健康の状況はいかがでしょうか。これ位の年になれば誰しも具合の悪いところの1つや2つは
あるものと思います。当方も60歳になる前は痛風以外殆ど病気には無縁で、生命保険のお世話になることもなく無駄なことをしたかな、
と思っておりました。ところが60歳を過ぎた途端に毎年どこか手術を受けるようになり生命保険が大活躍です。
最近ではアルコールの量が減り逆に薬の量が増えました。60歳とはこのような節目の年なのだと思うと同時に、
この際徹底的に調査し保険が満期を迎える前に悪いところはすべてオーバーホールしておこうかな等と考えております。
もう一つの関心事はあと2年ほどで65歳を迎えますが、65歳以降をどのように生きてゆくか、ということです。前述のとおり、
今でも派遣の身でありいつ失職するかわかりませんが、健康で働けるうちは仕事を続けたいと思っております。
まだ結論は出ておりませんが65歳以降どのように仕事を続けていくか思案中です。
趣味と言えるほどのものはなく、「趣味もどき」と言えば近くのスポーツセンターでの軽い運動と飼い犬の散歩くらいですが、
妻と娘2人、それとビーグル犬とともに何とか平穏な毎日を送っております。
以上、卒業してからの経歴と近況を簡単に御紹介してリレー投稿とさせて頂きたいと思います。添付の写真は今年の1月、
坂路さん、伊東さんと新年会を行った際に、坂路さんに撮って頂いた写真です。
では皆様、またお元気で。
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大泉高校20期のみなさん、ご無沙汰しています。誰?と思う人も多いと思いますが、ブラスバンドでトランペットを吹いていた関係で、
坂路君からバトンを引き継ぎました。
私は大学で心理学を専攻し、東京都の心理職として30年近く勤務しました。都立豊島病院・東京都児童相談センター・総務局勤労部・
立川高等保育学院などです。当然すべて都内の事業所なので、どこかでお目にかかった人もいるかもしれませんね。
2001年に東京都を退職して新潟医療福祉大学という地方大学に移りました。社会福祉学部で臨床心理学やカウンセリング関係の
授業を担当しています。主に精神保健福祉士(精神科ソーシャルワーカー)の養成を行い、現在は学科長として管理運営の仕事も多くなりました。
職場のメンタルヘルスや心理劇などに関心をもち、勉強しているところです。
新潟での単身赴任生活も12年になりました。もっとも東京でも臨床心理士としてメンタルヘルス相談の仕事があるので、ほとんどの週末は
東京の自宅に戻っています。「木帰月来」で、正確には新潟と東京の二重生活ということになります。12年間の移動距離は相当なものになるでしょう。
新幹線の往復であわただしい生活ですが、新潟は日本酒や魚、野菜などうまいものが多く、助かっています。長い休みのときには家内が新潟に来て、
里山歩きなどを楽しみます。関東では珍しい花の群落やチョウが手軽に見られるので、家内などは私のアパートを別荘代わりに使っているようです。
ところで先日、ある女子学生のリアクション・ペーパーに、「先生の顔がミスター・ビーンにしか見えなくなりました」と書いてありました。
新潟はまじめな学生が多く、他のペーパーには授業の感想や質問がきちんと記されているので、これには虚をつかれ、思わず笑ってしまいました。
私はミスター・ビーンのファンなので、別にいやではありませんが、自分が彼に似ているとは思ってみたこともなかったのです。
かつては西郷輝彦に似ていると言われたこともあったのに!100歩ゆずっても、大竹まことで止まると思ったのに!
その後、東京での研究会の時、参加者たちに冗談めかしてその話をしたら、会場に微妙な空気が流れました。どうやら今まで言わなかったものの、
みんな内心似ていると思っていたのでしょう。妙に納得した次第です。
さて、新潟と東京の往復生活もあと2年で終わる予定です。その後のプランは何も立てていません。基本的にはうまくソフトランディングして、
山歩きや美術館巡り、チェロ演奏など、第3の人生を楽しく前向きに生きていきたいと思っています。ただ最近、年齢の近い知人や友人が
相次いで亡くなっているので、そこまでたどり着くことがまず一仕事だと痛感しています。同期のみなさん、お互いにしぶとくいきましょう。
次はやはりブラバン仲間の須沼君にお願いします。
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たきがしら湿原にて | 残雪の越後三山 | |
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カタクリ | シラネアオイ | |
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ヒメギフチョウ | ヤマイワカガミ | |
20期生諸兄諸姉にすっかり御無沙汰しております。三上恵只兄からバトンを受け取りました。受け取ったは良いのですが、
生来の怠惰振りがこういう時に更に頭をもたげてしまうのがどうもいけません。年内には何とか間に合わせねばと思い記述した次第です。
海外便りでは時折投稿していましたから、リレー投稿の出番は無いだろうと思っておりましたところ御座敷が掛かり、何事も御声が掛かる間が華、
とは商社勤務時代の同業他社も含めて諸先輩からの教えの一つでもありますから、南米便りも併せて些かの与太話に御付き合い頂ければ有難いです。
私は1979年12月に南米パラグアイ勤務を命ぜられて当地アスンシオンに赴任、10年7カ月に亘って駐在しました。
その間にパラグアイ人女性と結婚して男子3人に恵まれ、1990年7月に東京本社に戻るも翌年1991年11月にはチリのサンチアゴに赴任、
彼の地に8年駐在しました。1999年に早期退職後、再度パラグアイに来て吹けば飛ぶ様な小さな会社を作って今日に至っています。
今までに登坂薫兄、小林憲一兄の御両名が遠路遥々当地を訪ねて呉れました。
南米に足を踏み入れてから33年、人生の半分強を過ごしてきたのですが、少々の体験談も交えてあんな話こんな話をしたいと思います。
勿論のこと、弊員の経験は盲象をなでるの類でありまして、全てを捉えているとは言い難いのは承知の上ですが、そういう話もあるんだねと
茶飲み話感覚で御楽しみ頂ければと存じます。
ラテン世界、時間にいい加減?イエスかノーか
時間厳守が当たり前の日本人にとってとても悩ましいテーマです。筆者が経験した中で、南米の誰もが必ず時間を守る行動が一つあります。
何か?教会のミサ開始時間です。寸秒の遅れも無く始まるのです。日本の鉄道が時刻表に従って運用されているかの如くです。
これ以外は、仕事や私生活の面では時間を守る人達と、いい加減出鱈目な人達とその温度差は千差万別です。
時間を守る人達は大体に於いて、教養教育水準高く、仕事の内容も質も良く信用出来ると言えますが残念乍ら少数派なのが現実です。
されどこの様な人達が存在するからラテン社会、国も組織も動いているとも言えます。時間感覚が適当と言うかいい加減と言うか、
それともかなりの余裕を見込んでいると言うべきかの代表が祝宴です。結婚披露宴、誕生祝賀会、卒業祝賀会なぞ夜8時開始との案内が
きても8時には誰も来ていないなんてのはザラにありまして、9時頃からポツリポツリと集まって、まあまあ、そこそこのメンツが揃うのが10時頃、
食前酒をちびりちびりと飲みながら世間話に花を咲かせ、食事開始は11時どうかするとミッドナイトでしょうかね。
その後はお喋りに更に更に花が咲き、歌、ダンスもあり、御開きが深夜2時なら早い方。時として、朝食付き!日の出を拝んで
解散!という祝宴もあります。心身共にタフであることも生きる術なのか?と思うことしきりです。尤も参加者はそれぞれ適当な時間に
帰りますから、全員が全員最後まで残っているという訳ではありませんので念の為。
ラテン世界、のんびりしている?イエスかノーか
イエスでもありノ―でもあり、グレーゾーンもあり、のんびりいい加減かと思っていたら約束の期日通りに製品を契約以上の出来で
仕上げて来ることもあり。ゆっくりのんびりとした時間が流れている世界があれば、ギチギチと急ぐ世界もあり。
使い分けが上手と言ったら良いのか、偶々結果がそうなっているのか、良く判りません。どう考えてもこの調子では予定の時間には
もう間に合わないだろうにと諦めていると、ぎりぎりになってから突如シャカリキになって徹夜してでもやり抜いてしまうことがあります。
それを見ると、それなら最初から工程管理を行なって、さっさとやっておけば見直しの余裕も出来るだろうし良いものが出来るだろうにと
思うんですが・・・まあ斯く申す我々とて「一夜漬け」なる勉強方法で乗り切ってきた場面が多々あるのですから人様のことを
とやかくは言えません。
ラテン世界、人種モザイク模様?イエスかノーか
これはイエスです。国によって御先祖の出身国に偏りも見られますが、欧州のスペインがメインで、他にイタリア、ドイツ、フランス、
英国、ポルトガル、ノルウェー、スウェーデン、旧東欧諸国、旧ソ連、他にアラブ諸国、そうそうイスラエル(所謂ユダヤ系)、アフリカ諸国、
日本、台湾、中国、韓国と様々です。隣国アルゼンチンはイタリア系が圧倒的に多くて国民の半分以上と言われています。
チリはスペイン出身者がメインなのですが、中でもバスク地方出身者を御先祖に持つ国民が半数以上と言われています。
サンチアゴに赴任した折、バスク系の苗字を持つ人が多いなと感じたのも納得です。筆者が現在居住しているパラグアイは
如何かと言えば、メインはスペイン系、そしてイタリア系、ドイツ系と上述の諸国出身者が御先祖となります。アフリカ系は当国は皆無です。
日系社会が大凡6千人、韓国系、台湾系社会がそれぞれ2万人前後と言われています。十人十色と言われますが、
ラテン諸国も十国十色、気候も風土も含めて国毎にお国柄は異なります。言語もブラジルがポルトガル語を公用語にしている他は
各国スペイン語を公用語にしていますが、スペイン語にも国毎にそれぞれ違いがありまして奥行きの深い世界だなと思います。
南米即ち熱帯亜熱帯?イエスかノーか?
これは明確にノーです。地球儀をくるりと回して頂けるとより理解が深まると思うのですが、南米大陸最南端の町ウスアイアが
大凡南緯55度、北緯55度辺りの有名都市はコペンハーゲン、モスクワです。北緯10℃から南緯55度にかけて南米大陸は広がっており、
熱帯雨林地帯もあれば、砂漠地帯もあり、肥沃な農業地帯、東京都の面積と同じ位の牧場が数知れず存在する牧畜地帯があれば
氷と雪に閉ざされている寒冷地もあり、その多様性は一言では表現出来ません。アンデス山脈は6000メートル級の山がそびえており、
南米大陸最高峰であるアコンカグア山(アルゼンチン領)は6960mの高さがあります。チリ、アルゼンチンにはパウダースノーの
広大なスキー場が何か所もあります。因みにチリの北端から南端までの距離は東京からベトナム・ホーチミン市までの距離に略等しく、
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスからペルーの首都リマまでの距離は東京からマニラまでの距離に略等しいのです。
取り留めも無く述べましたが、南米の多様性を僅かでも御理解頂ければと思います。現在日本とパラグアイとの時差12時間、
当地は謂わば日本とはほぼ対蹠点にありまして(正確には対蹠点はブエノスアイレスの沖合約1000kmの大西洋上ですが)、
既に盛夏突入、連日日中最高気温は35℃超を記録しており、40℃を超える日も珍しくありません。そんな南の空からの便りでした。
次は目下真冬である、北の空から札幌の福原正和兄に御願いしたいと思います。御付き合い頂き有難う御座いました。
皆様ご無沙汰しております。
ほとんどの同期が定年を迎え、安堵されほっとされている様子が紙面からうかがえ、ほほえましく感じます。もちろん第二の人生に進まれ、
されに活躍されている方もおられることは、これまたすばらしく励まされます。
私の自己紹介を簡単に致します。大泉高校時代は吹奏楽部に所属し、トロンボーンを吹いていました。大学は工学部に進み、
卒業後日本製鋼所という鉄鋼会社に就職。入社後すぐに主力工場のある北海道室蘭市に赴任。8年半暮らしました。
その間に結婚し二人の娘に恵まれました。父は接骨院を営んでおり継いでくれとの要請を受け、一年悩んだ末、
長男でもあり将来父母の近くに居なければと決意し、家族4名で北海道から埼玉の地に引っ越してきました。
その後資格を取得して接骨院を継いでおります。看護師であった家内もまた長女も鍼灸師の資格を取り、
家族3人とスタッフを含め現在4名でささやかではありますが、地域医療の一端を担って励んでおります。
私は旅をすることが好きで、家族で初めてアメリカのヨセミテ国立公園を訪れて以来国立公園が気に入り、
雄大な自然を満喫する旅にはまりました。その後ユタ州を中心に多くの国立公園を巡るいわゆる「グランドサークル」の一人旅は
脳裏に強く焼き付いています。ラスベガスで飛行機を降り、そこでレンタカーを借り走行距離2500kmに及ぶ長旅でした。
毎日がすばらしい自然の景色の連続です。公園内にはたくさんのトレイルという散策路というか山道がたくさん用意されており、
ここを歩くと楽しさが倍増します。
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アメリカの国立公園は1872年にイエローストーンが初めて国立公園に指定されて以来たくさんの国立公園が誕生。
最終的にきっちりと自然を守ることを定めたのが国立公園実施法で1916年に制定された。この法律により、公園内の宿泊施設なども規制され、
自然をそのまま守ることが徹底された。このことを裏付けるおもしろい看板に出会ったのがブライスキャニオン国立公園でした。
公園内は大変広いので、たくさんのヴューポイントを立派な道路でつないでいます。その道路を走行中に見つけました。
なんと「NATURAL FIRE DO NOT REPORT」と書いてあるではありませんか。自然の火ですから山火事や雷などによりおこった火事は
報告する必要なしということですね。ここまですべて自然に任すとはおそれいりました。確かにトレイルを歩いてみると焼けただれた木々を目にしました。
ヨセミテ国立公園のジャイアントセコイアの実も山火事などの火であぶられるとはじけて飛び、飛んで落ちた地面は山火事によって
焼かれた平地となっており、成長するのに好都合のようです。日本に住む我々は火事だとそれっとばかり大騒ぎをしますが、
自然の観点から見ると山火事も必要なようです。確かに我々は毎日平らな所でほとんど生活しています。その方が便利なわけですが、
自然はそのような所はありません。まったくの不規則の世界です。たまには規則性の世界を脱して不規則の世界に身を置くのもいいかもしれません。
グランドサークルで回った国立公園の写真をいくつか紹介します。
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ブライスキャニオンNP ここは全米一の空気の澄んだところです。 夜ホテルを抜け出し一人公園に入り、きれいな星空を見ました。 きれいでした |
ザイオンNP エンジェルスランディング山頂 たどって来た道が 下方に見えます。 |
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有名なバランスロック アメリカ人ご夫妻が入ってしまいました |
アーチーズNP 圧倒的な岩の迫力です |
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キャニオンランズNP グランドキャニオンの上流域 川により浸食 された大地が圧巻。許可を得れば下の道を四駆で突っ走れます。 |
アーチーズNP この公園の代名詞のようなデリケートアーチ。 ユタ州のナンバープレートに採用。左後方は4000m級の ラサールの山々 |
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キャニオンランズNP天地創造を想起させる。 |
アーチーズNP 迷いそうなトレイル | |
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モニュメントヴァレー ここに来るまでに大きな岩を見すぎたため あまり感動がなかった |
ブライスキャニオンに向かう道 アメリカの田舎道もまたいいものです。 | |
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ザイオンNPからアーチーズNPに向かう途中、70㎞位直線の道が ありました。対向車もほとんどない道。こんな所で故障したらどうしよう。 |
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4年ほど前に山形に単身赴任していたころ、「巨木観察トレッキングツアー」の案内が目に止まり、早速申し込んだ。
新庄駅から最上川に沿って国道を西に下り、道路から徒歩で山に取りつく。やや急な山道をしばらく登り、最上川を見下ろす急斜面の森に入ると、
奇怪な形をしたスギの巨木群に出くわした。主幹から横に張り出した何本もの幹を伸ばしている巨大なスギだ。まさに「もののけ姫」の世界である。
このスギは、「神代スギ」あるいは「仙人スギ」と呼ばれている。大きなものは幹周は15m、樹齢は千年を越すものもあるそうだ。
なぜこのような形になったのかはっきりとわかっていない。この地域は峡谷沿いなので霧が発生するため、湿気が多く、土壌は水分過多の状態になる。
雪の重みや引っ張りでたわんだ枝や倒れた幹が湿った地面につくと、そこから根がでて新しい個体が生育し、やがて新旧の幹が融合して
できたらしい、とのことだ。
このスギは、ウラスギと呼ばれる日本海側特有のスギ(太平洋側のスギはオモテスギと呼んでいる。)で、芦生スギ、立山スギ、
佐渡スギなどが原生林として残っているそうだ。
後日、ツアーの案内人にガイドをお願いした。山あいの沢沿いの道を小一時間ほど遡行すると、甘い香りが漂う、巨大なカツラに辿り着いた。
根元に大きなウロがあり、数本の巨大な幹が林立する姿に圧倒される。幹周は20mに達する全国最大級のカツラだ。帰りにナメコを発見し、
山の恵みに感謝。新庄地域にはカツラの巨木が数多くあり、「千年カツラ」と呼ばれるものもある。
その後、休日は巨木巡りに出かけるのが日課となった。県内から始まって、東北各地に足を伸ばした。
東根の大ケヤキ、金山町の大美輪(おみのわ)の大杉、能代のきみまち杉、新潟県阿賀町の将軍杉、釜石の明神カツラ、
大船渡の三陸大王スギ、南相馬の大悲山の大杉、二本松の杉沢の大杉など長い年月を生き抜いた巨木と出会うことができた。
今回の震災を受けて彼らがどうしているか気がかりである。これからも生き続けてくれることを願ってやまない。
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巨木の森 | 山ノ内黒杉(幹周15m) | |
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万助の大カツラ(幹周20m) | 山の恵み |
PS 都市開発やまちづくりの仕事をしていましたが、退職後、多摩丘陵の公園で働いています。仕事は、公園の管理で、樹木の伐採、剪定、草刈り、
花壇づくりなど力仕事がメインであり、腕の筋肉も現役のころより強くなりました。
植物、昆虫、野鳥、キノコなどの観察会、クリスマスリース作り、春の七草の寄せ植えなどイベントもたくさんあり、楽しく過ごしています。
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公園での剪定作業 | 環境フェアでのクラフト作り |