更新 2012年10月8日
お久し振りです。そして、「初めまして!」 と言っても いい方も多いでしょう。まず、自己紹介から。
私は大学を卒業してから、少しOLも経験し、結婚して、専業主婦になりました。私の世代では、普通の人生を歩んで来ました。
そして、今は息子と娘も結婚し、主人と二人の生活に戻りました。横内さんと同じブラスバンドに所属していましたが、その時の先輩である主人と、時々思い出話をしたり、旅行をしたり、山登りをしたりして、普通の生活を楽しんでいます。
私にとって、大泉は大切な時代ですが、勉強しなかったので、後悔の時代でもあります。
子育てが一段落したある日、突然「このままではいけない」と思い立ち、養成講座、能力試験と、生まれて初めて、寝る間も食事する間も惜しんで、勉強して日本語教師になりました。
そして、速いもので、24年が経とうとしています。
今思えば、全て負からの転換です。一生懸命に勉強したことがなかったので、勉強がとても楽しく感じ、子どもの面倒をみる暇がなかったので、子供たちが伸び伸び育ち、却って自立したように思います。私は実力がないので、とにかくいつも机で勉強していましたが、気がつくと子供たちも机に向かっていました。(勉強をしていたのかどうかは疑問ですが)。
とうとう過労から病気になりましたが、その後健康にはとても気をつけるようになりました。義理母が厳しいので、簡単にはめげなくなりました。
私が英語が苦手なので、学生たちは早くから一生懸命日本語だけで、話そうとするので、日本語が上手になるような気がします。2年前父親二人を最後まで、自宅で介護しました。
大変でしたが、その介護を通して、教えられたことが多く、親を看取って、ある意味やっと大人になったと感じたものでした。
しかし、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものです。こんな風に思えるのは、私がいつも楽天的だからかもしれません。困ったことに直面しても、きっとこれも何かいい結果があるに違いないと思ってしまうのです。そう思うともちろん辛いのですが、いいこともたくさんあったのです。
これからも、だんだん速くなるばかりの老後を、気楽に、ポジティブに生きていきたいと思う、今日この頃です。
つれづれに今の心境を書いてみました。
次は、ブラスバンド繋がりで、坂路孝夫さんにお願いしました。
皆さんお久しぶりです。
同胞の高原君から引き継ぎました。
医者の不養生でしょうか、仕事上職員の健康診断に目を向け自分の健康を過信していましたが忍び寄る老化現象はいかんともしがたいもので今年から動脈硬化予防薬を飲み始めました。還暦を過ぎ老いを痛感している昨今です。
ワイフは重症の50肩に苦しんでおり眼科の診療もままならない状態で、日々家事の手伝いも僕の重要な任務となっています。早く痛みが消えてほしいと祈るばかりです。
今は妻と二人で愛犬に癒されながら、趣味の外国語を少しかじり、千葉市幕張本郷で暮らしています。(息子は昨年結婚、娘は母の母校の6年生で国試目指して茗荷谷の住まいで勉強一色の日々)
私は現在、千葉県の北東部、茨城県との県境に近い香取市にある国保小見川総合病院に勤務しています。当院は市町村が経営母体で約10数万人の医療圏です。
近年は医師、看護婦不足(都市集中のため)等でこの地区の地域医療(全国的にも)は大変な苦境に陥っております。
患者さんに十分満足していただける医療の提供が困難で、医事紛争も多く、全く気が休まらない毎日です。それでも職員は皆、従順でモチベーションが高く、私を支えてくれそれを糧になんとかやっています。
職業上今まで随分人の死にかかわってまいりましたが、この10年程の間に讃井君をはじめ多くの友人、両親や若い姪を見送ることとなり寂しさを痛感しています。
自らも生命の残り少なさを実感し、最近ルーツの旅に出たくなっています。出生地の西荻窪、昔住んでいた東久留米、岡山 等々連休を利用して行ってみるのですが、そこには以前の家がなくなり、知己もいなくなり、時の流れを感じます。
今年の出来事としましては亡き讃井正光君の知人の関係で会計士になった息子(24週、750gの早産で生まれアメリアの医療で命を助けていただいた)に7月初孫を授かりました。
讃井君には本当にお世話になりました。またこの息子が東大泉に住むことになるとは不思議なご縁を感じざるをえません。
今年の息子と娘の誕生日の祝いで尋ねたイタリアレストランで偶然お会いした有名人2人と、今の僕の最愛の息子(盲導犬崩れのタイラー、もうすぐ6歳になる雄)の写真をご覧いただければ幸いです。
皆様のご健康とご多幸を祈念して次回は土金君に投稿をお願いします。
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娘の誕生日、Zaccheroni監督と | 息子の誕生日、コロッケさんと | |
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ルーツの旅岡山、新見市 | 愛犬タイラー君 | |
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甘えるタイラー |
大泉高校20期の皆さん、ご無沙汰しております。青目君からバトンを受け継いだ高原善治です。
「大泉高校20期のホームページ」があるなんてまったく知らないで、青目君から聞き、開いてみて昔の懐かしい名前や書かれていることをみて、妙にわくわくしました。私は大学を卒業して、心臓血管外科医の道を選び、日夜臨床に明け暮れていましたが、4年前から船橋市立医療センター病院長の職務を追わされることになり、軸足が臨床から管理業務に移動してきています。私自身では臨床にどっぷり漬かっている方が合っていると思うのですが、これも年齢相応の立場(六十にして耳順う)として受け止めています。
10年以上前から毎年8月下旬に開催されるヨーロッパ心臓病学会に参加しています。管理職になってこの時期に学会出張を行うことがだんだん困難となり、また日々の臨床から少し離れ、発表するネタも切れてきたので、毎年の渡欧は今年が最後かなと思っています。今年の学会はミュンフェンで開催されました。ミュンフェンへ行くのは3度目なので、今年は発表後にミラノへ飛び、レンタカーでマジョッレ湖に行きました。イタリア・アルプスの山麓にある氷河が湖になった美しい湖で、湖畔には保養地として別荘やホテルが点在しています。中でもストレーザはボッロメオ湾に面した有名な町です。ここはヘミングウェーの「武器よさらば」でクライマックスシーンとなった町で、アメリカ人義勇兵ヘンリー中尉が恋人キャサリンと脱走兵としてここからボートでスイス領へ逃走した起点であり、湖の北側の方はスイスとなっています。彼らが滞在していたとされるグランドホテル・デス・イレス・ボッロメオに宿をとりました。ここからボッロメオ湾を遊覧船で島巡り、隣の湖のオルタ湖へドライブ、湖畔の山麓を乗馬、ロープウェイとリフトで海抜1491mのモッタローネへとのんびりして過しました。週末に日本へ戻ってくると土日も仕事が待っていて、病院の机の上は決裁待ちの書類や郵便物の山、のんびりしていたつけが回ってきていました。
今まで臨床の最前線に身を置いていましたが、一歩さがって最前線を見守る立場となり、これも年相応、せいぜいできることを尽くしてみようかと思っています。
私の次は、大学も同期だった三上恵只君へバトンをつなぎます。彼も千葉県にある国保小見川総合病院の院長です
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モッタローネへのリフトから見たマッジョーレ湖 | モッタローネから見たアルプス | |
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ストレーザからベッラ島 | 愛馬?「イコー」 | |
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オルタ湖 |
ロンドンオリンピックが始まり,日本中が選手達の頑張りに熱い声援を送る日々が続いていますが、皆様おげんきですか
大坂 (旧姓 窪田)延子さんからバトンを引き継いだ齋藤(旧姓 横内)育子です
改めて今までの人生を振り返ってみますといろいろな事が思いだされますが、何より時の流れの速さに驚いています。
高校時代は吹奏楽部に入り,クラリネットのパートになり、初めて吹くクラリネットの音がきれいに出ないで,
困り果てたものでした。何とか音が出る様になり先輩達と音を合わせての合奏に感動したものでした。運動会での入場行進
文化祭での演奏会、等々本当に懐かしいです。その吹奏楽部の2年先輩と1年後輩の4期のメンバーが数年前から年に一度の
集まりを持ち,ミニOB会をしています。第一回の集まりに声を掛けて頂き,出席したときには,本当に感慨無量でした。
高校生だった頃60才を過ぎてから,また集まっているところなんて,想像だにすらしませんでしたから。でも皆が集まれば
気持ちが45年前に戻り、先輩 同期 後輩という関係になるところが何とも不思議で楽しい事です.
さて、現在の私は,運動不足解消にと、近くのスポーツジムに通い始めて,5年程になります。私も大坂さん同様
膝の痛みに悩まされて整形外科通いもしましたが、ジムで汗をかき体重が減ったのとちょと足に筋肉らしきものがついたので
大分楽になりました。昨年は高尾山や御岳山のロックガーデンにハイキングに行って来れました。緑の山の中での森林浴は本当にきもちの良いものでした。
また、昨年からは水泳教室に通い始めました。体育苦手な私ですが,目下バタフライに挑戦中です.上達が遅いのは年のせい
にして、いつか泳げる様になる様に、練習に励んでいます。
次は、吹奏楽部で一緒だった桜井(旧姓 石黒)葉子さんにお願いします。
暑い日が続きますが、皆様お元気ですか。登坂君からのバトンを受けた青目です。
登坂とは、小学校以来50年の付き合いです。そんな彼に、5年ほど前に、ゴルフを勧めました。
今では、登坂の奥さんとともに、三人でよくプレーをしています。
現在、私は、週3~4日の割で勤務をしておりますが、それ以外の日は、ほとんどゴルフに行っております。
今年も既に40回程、コースを回っております。
7月1日に、ホームコース(高坂)で、理事長杯の予選がありました。なんとか予選を通過し、8日に決勝トーナメントに臨みました。
午前中に、18ホールのマッチプレーがあり、勝利を収めましたが、食事を取って、再び午後からの18ホールのマッチプレー。
前日の酒(多少二日酔い)と暑さと、年齢と色々な要素が重なり、2ホール目で動くこともつらくなり、ダウンしていましました。残り16ホールを残しギブアップ。
どうも熱中症だったようでした。つくづく、体の衰えを感じさせられました。若いつもりでも、老いは着実にやってくるものですね。
ゴルフ好きな方、是非一緒にプレーをしませんか。連絡を待っています。
嬉しいことが今年あります。大泉高校卒業の娘が、11月に出産予定。初孫の対面が待ち遠しいです。
次のバトンを、病院の医院長の、高原善治君にお渡しします。
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高坂・クラグライフにて(前列左から2番目・登坂くんの妻、 3番目・青目、後列左から4番目・登坂くん) |
二人の息子とのゴルフにて | |
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息子夫婦とゴルフ |
杉田さんからバトンを受けて、皆さんの書かれたものを読ませてもらい、昔のことがいろいろ思い出されてきました。
1971年のニクソンショックで就職が結構大変だったこと、37年前の春、夫の赴任先であるクアラルンプールへ羽田から一人で立った時の心細さと、杉田さんが真っ赤なバラの花束を持って見送りに来てくれて励まされたこと等々、ついこの間のことのように感じられます。
さて、60年余り生きてきて、目下の関心事は、1年半前から悩まされている膝の痛みと「断捨離」です。
膝痛のそもそもの始まりは、実家の庭の木の剪定を不安定な足場の上に脚立を置いてやってからなのです。関節も骨密度も問題なく、無理な姿勢をとっていたからだとの診断。その時に「太ってるね!(一応標準体重なんですが)3キロやせなさい。そしたら楽になるよ」と言われました。それはわかっているものの、「疲れたー」と言っては甘いものに手を伸ばすし、口はうるさいのに舌はうるさくないため大抵の物はおいしく食べられてしまうので、至難のこと。というわけで、気にしないでいました。
ところが、膝の方は「治った、また痛めた」の繰り返し。一度痛めると、治るのに2週間から1カ月近くもかかります。平地はいいのですが、階段、特に下りる時が問題なのです。
駅では、下りエスカレーターのある所は少なく、エレベーターを探すようになりました。電車に乗る時はエレベーターのある所で降りられるように電車の車両と降り口を選んで乗り込みます。千葉県在住で、東京に日本語教師の仕事で週に2日出ていますが、教材等の入った重いかばんを持って、電車に乗り遅れまじと走るのはこたえます。帰りは西船橋駅で武蔵野線に乗り換えるのですが、1本逃すと30分近く待たねばならない時間帯があり、そんなときはエレベーターを待っていられず、階段の手すりにつかまりながら必死に階段をよじ登ります。今はどこでも手すりがついているので大助かりです。ショッピングセンターでは、出入口のたった数段の階段が恐怖という時もあり、横にスロープがついていると「なんて気遣いのあること!」と感激してしまいます。今まではスロープの存在に気がついてさえいなかったのに。膝痛以来、街を見る視点がすっかり変わってしまいました。
こんな生活を繰り返していましたが、この度、膝痛をしっかり治そうと決心しました。歩き回るのが好きなので、それがしにくくなっては困るし、何よりも仕事に差し支えては困ります。ちょうど膝痛特集をしている雑誌があったのでさっそく買ってきて、お勧めの体操を朝晩しっかり続けています。今までいろいろと情報を集めていて、運動で治すのがいいと知ってはいたのですが長続きしないでいました。先日、仕事仲間と話題の東京スカイツリーソラマチへ行ってきました。他の人たちのペースに合わせて、階段もすたすた下りてしまいましたが、大丈夫でした。体操、効果あるようです。
次は、「断捨離」。今のようなブームになる何年も前から「捨てる」や「すっきり」という言葉にひきつけられていました。いらない物を捨ててすっきりしたいという気持ちが常にありましたが、きっと物だけでなく、面倒なことや気がかりなことも全部捨てられたらという願望が底にあったのでしょうね。不要な物を捨てると、いいことが起こると聞き、捨て始めましたが、家の中がなかなか本で見るようにすっきりした感じになりません。まだ使うから、要るようになるから、捨てるのはかわいそう・・・と理由はさまざまながら踏ん切りがつかない物が多いのです。別住まいをしている娘が帰ってきた時に「捨てていいものばかりじゃない」と言っていました。ばっさばっさと処分できたらどんなに気分爽快かと思うのですが。
物の整理は体力のある60代から始めるのがいいそうなので、あきらめずに努めてまいります。家族の「本当にできるの?」と疑う声が聞こえてきそうですが。すっきりとシンプルな生活にして、元気に過ごせるのが理想です。
自立心を持ち、同世代同士で助け合い、若い世代を頼るのではなくサポートしていけるようになりたいものと思っています。人数の多い団塊世代がどのような老後を送るかで社会に大きな影響があるでしょうから、責任がありますね。楽しくいきいき日々を過ごす高齢者が多くなれば、世の中がずっと明るくなるでしょう。
次は高校と大学で一緒だった斎藤(旧姓 横内)育子さんにお願いします。
梅雨に入り、毎日の気温の差が大きいこの頃、皆様如何お過ごしでしょうか。
杉田(旧姓譽田)恵子です。 突然の小本さんからのバトン・・・久しく忘却の高校時代が甦り、又現在の大泉の変容と、既に3年もたつこの投稿リレーを知りました。
まだ1か月の猶予あり、とバトンを置きっぱなしていたら、時間切れ・・・スミマセン。思い出や近況などご報告。
担任は1年(畑野正毅先生)2年(花崎文一先生)3年(清水真事先生)でした。当時は誰かが上手にあだ名をつけ、個性溢れる先生方が多かったですね。
私は中学3年3学期に、叔母のいた東久留米に函館から転校。
親元を離れての生活で大泉に入学したのですが、母はよく”父母会には一度も出席しないままで卒業させてくれて・・・(大泉に感謝!)”と言っていました。
目標の音大は決めていたので中学時代から、ピアノの先生のレッスンを受ける為に上京していました。
青函連絡船と寝台列車の時代です。 厳しくて妥協のないレッスンに、最寄の駅からご自宅までの道のりは、胃の痛くなる思い。
地方で呑気に過ごしていた当時の私は、”世の中にこんな怖い人もいるのだ”と思わせた恩師でした。
ピアノの練習に明け暮れ、学業はイマイチお粗末状態・・。母の言葉も頷けます。
山梨から、高齢をおして上京してくれた祖母と生活していた時、”えーとマン”に”お年寄りを労わって、力仕事などは手伝ってあげてね。”といわれ、以外にも先生の心根の優しさにジーンときたことでした。
大学卒業後2年程して、佐伯香先生にお会いする機会がありました。センスの良いお洒落な方で、凛とした風情の素敵な先生でしたね。 お一人でお住まい、大泉時代を大変懐かしんでいらして嬉しいことでした。その時、学芸大学の講師をされていました。 お人柄に憬れました。
同期会で”娘が譽田さんの後輩になりましたよ。”と、とても嬉しそうに目を細めていた讃井正光君。
お嬢さんが桐朋学園の学理科に入学されて、良き父親の顔だったのが忘れられません。・・・合掌
3年程前から、31年間のブランクの後、土肥暁美さんのように”茶道”を再開。 あくまで趣味の域ですが、気分転換も兼ねて楽しんでいます。 大学の夏休みに初めての体験・・・静寂の中、心地良く張り詰めた空間、水の音、湯のたぎる音、茶筅を振る音、茶室と外からの光、庭の緑と景色、すべてが新鮮で非日常の世界でした。 常に音を出し、音色を作り出すという西洋音楽の側にいたのでしたが、全く作為のない自然そのものだけの音の世界に、癒される強い印象をもったものでした。 音楽の世界に対して、自然の静寂世界。 洋と和の文化。
両極端のように思えるものを身に付けることも、面白いかな・・・と思います。
でも不思議とこれが、ミックスする要素があるのです。 お茶を点てるまではアダージョ、片付けにかかる時はアンダンテ、全体的にはレガートで流れのある所作・・・その中にはいくつかのフレーズを持って・・・となると、なんて音楽と共通する要素が茶道に有るのかと驚きます。 オペラ、歌舞伎のように茶道も総合芸術。 奥が深く、この年になって覚える事も多すぎます。脳の老化防止にいいかな?と考えていますが。
作曲家の故黛敏郎氏の言葉・・・日本の思想、道徳、宗教、美術、文芸、建築、音楽、味覚など日本のあらゆる文化の総合に触れることが”茶道”という言葉に尽きる。
確かにこのことを実感するばかりです。 ”おもてなし”の心、"思いやり”の気持ちが茶事のあらゆる場面に表れて幾つになっても勉強です。 和ブームでもあり、スイーツにもかなり抹茶を使ったものなどでていますね。
ビタミンCたっぷりの身体に良い抹茶は、飲むだけではなく、料理にも使える健康食品です。
和え物や胡麻豆腐に入れると、色もきれいで鮮やか。 そういえば、スペインの″世界で一番予約の取れないレストラン”の映画の中でも、柚子、梅干、わさび、柿、抹茶、などの食材がどんどん使われていて驚きました。
皆さんも抹茶を召し上がってみませんか?
既に3年も前になりますが、訪れたウズベキスタンの神学校や廟のタイルが素晴らしかったのでのせておきます。 バトンは大坂(旧姓窪田)延子さんにお渡しします。どうぞよろしく。
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今年の正月インドネシアにコモドドラゴンとオランウータンを見に行ってきました。ボルネオ島は貸し切りの船を利用し三泊四日で色々見てきました。船長,ガイド、料理人そして私たち夫婦です。朝晩の食事、寝泊まりはジャングルの中のロッジです。移動に船を利用し,昼食は船の中でコックさんが美味しいインドネシア料理を作ってくれます。インドネシアの中でもこの地域はアルコール禁止です。正月からコーラで食事しました。結構いけます。野生のオランウータンは人に馴染んでいて近寄っても大丈夫です.人間と同じようで見ていても飽きません。
コモド島はホテルに宿泊です。港からコモド島までは25人乗りのモーターボートで行きます。ものすごいスピードが出ます。今までこんな速い船に乗った事がありません。コモドドラゴンは夜明けから午前10時までが捕食時間なのでそれ以後は静かなものです。現地のガイドの話では,出身の村の人が三人喰い殺されたそうです。かなり大きいので迫力があります。無事に帰ってこられました。写真を見た方が分かりやすいのでご覧下さい。
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ボルネオ島の船 | 股関節の柔らかいオランウータン | |
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コモドドラゴンと記念撮影 さすまたで防御できるのか疑問 | 体長3メートルの大蜥蜴 咬まれても島に病院がないので出血多量で死亡 | |
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このバッファローはコモドドラゴン20匹で食べるそうです | 台所の下に良く来るそうです | |