更新 2012年5月16日
小説家やエッセイストになりたいと思ったのはいつからだったろうか。小さい頃から自分の意思を素直に表すことが下手で、いつももどかしさを感じていた。
一発勝負のピアノとは違って、何回でも、納得いくまで書きなおせるこの作業が、自分に合っているような気がした。
しかし、始めてみると、言葉にする難しさは同じで、しゃべれないものが文字にすらすら表せるはずもない。他人に自分の思いを伝えるのは、本当に難しい、と痛感している。
大体、「無」からなにかを生み出すもの全ては、相当なエネルギーを要するようだ。また、他人にどう言われようと引き下がれない、自分の思いへのこだわり、何ものかへの強い執着心が必要だ。
勿論、それ以前に並外れた個性やテクニック、努力も。
ある日、あるテーマで書き始めて、どこかで必ず挫折する。これは何故なのだろう。
書きかけの原稿用紙(今はパソコンだが)が溜まっていく。こんなはずじゃなかった、もっと楽しく書けるはずだった、と思いながら、苦しくて放りだす。だいたい、読み返して、ちっともおもしろくないのだ。
きっと、すべての面で、欠けているのだろう。
たいしたことのない内容の文章を、おもしろく読ませてしまうプロの方達は、本当にすごいと思う。
ところで、この10年くらいだろうか、相当な数の語学留学生を受け入れているのだが(現在もスイスからふたり)、彼らが日本に興味を持つ一番の原因は、マンガ、アニメだ。
若い学生達の多くは秋葉原に通い詰め、マンガやグッズを買いあさったり、マンガの舞台となった白川郷や京都、都内を歩きまわる。「メイド喫茶」にも行く。
私も昔はマンガが好きだった。里中満智子のマンガを夢中になって読んだ。
しかし、外国人のこの異常なくらいの日本のマンガ人気はなんなんだろう・・・と、不思議に思ったが、昨年彼らに会いにヨーロッパに行くにあたって、彼らの喜びそうなお土産を買いに秋葉原に行ってびっくりした。そのマンガの多さ、美しさ、独特の華やかな色彩・・・。
「トトロ」など宮崎アニメも有名だが、日本のマンガ、アニメは、優れた文化であり、日本の才能であり、経済にどんなにか貢献しているかを思い知った。
これは、日本人として誇りに思っていいことだと思う。
あの素晴らしいマンガやアニメに劣らない、自分の個性をぶつけた文章をいつか書きたい、と思いながら、一方で、あぁきっと納得できるものが書けないうちに、おばあさんになって死んでしまうんだろうなぁ・・・、と、すぐにくじける弱気な自分が顔を出す。
多摩丘陵の丘の上、テラスハウスで小さな薔薇園を丹精しながら絵のモデルとなる沢山の植物を育ててそれを描くという幸運な生活をしています。
アトリエブルーエという名のチャイナペインティングの教室を主宰してもう18年になりました。チャイナペインティングとは、磁器の上に特殊な絵の具で絵を描き、窯で800度前後の低温で焼き付けて完成させるものです。磁器上絵付けと呼ばれています。
焼成すると、金属酸化物とガラス粉でできた絵の具は磁器の肌に艶良く乗って、とても美しく仕上がります。磁器は、紙とは違って絵の具を吸い込んではくれず、そのため上手に描けるようになるには技術が必要で、その習得には多少時間がかかります。女性の趣味かと思っていましたが、近年男性のホビーペインターもちらほらお見かけするようになりました。
繊細な表現の向上を求めて、今でも大倉陶園に通って技術の習熟に努めています。
植物画も随分続けて描いてきました。大航海時代から主にヨーロッパで発展した植物画は、写真がわりに植物を科学的に正しく記録するという形式をとりながら、そこにデザイン性や表現方法、描写技術などの芸術性も求められる絵画です。ルドウテの植物画はご存じでしょう。主に花が咲いている状態で描かれることが多いのですが、植物の肖像として捉えるのか、生殖のシステムとして捉えるのかで方向性が違ってきます。葉と葉脈、葉や花の付き方、枝の成長の痕跡、雄蕊の葯と花糸、雌蕊の構造など、受粉の為の植物が知恵を凝らしたシステムなど。興味のない方、ごめんなさい。更に、実と種子、根、球根、根塊なども絵のモチーフとなります。制作には多大な時間と手間も努力も不可欠です。私の中ではきちがい沙汰アートと認識していますが、私は、植物の生命そのものを描きたいと思っています。
科学的に正しく、そんなことを忘れさせる程に芸術性の高い植物画が描けたら、他に望むものはそう有りません。
こんなことを家族全員認めてくれて、好きにさせてもらったり、助けてくれることに大きな愛を感じ、心から感謝をしています。
小島 由利子 Society of Botanical Artists会員
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林檎のトレイはチャイナペイインティングのオリジナル作品です | イギリスのソサエティで入選、会員に推薦された作品の一部です | |
次は小本(菅原)小笛さんにお願いしてあります。快く受けてくださいました。
昨年は年の初めから年末まで、大震災を始めとして次から次へといろいろな出来事が引き続き起きた年でした。
夫が長年勤めた会社を、私も高校の講師の仕事を辞めることになっていたので、秋にはお疲れ様の慰安旅行を計画していたのですが、行こうか止めようかぎりぎりまでかなり迷いました。結局、その年他界した母の「行ってらっしゃい」という御告げもあったことですし決行ということになりました。後で振り返ると、二週間余りのこの旅行の間だけ奇跡的に平穏無事だったのです。
行先は南米。遠くへ!!という訳です。
先ず、ロサンゼルス、リマで乗り継ぎブエノスアイレスへ。出発から一日以上かかってやっと着いたブエノスアイレス。十分に遠い、地球の裏側からの響きです。街並みはパリを思わせるような感じですが、なんとなく哀愁漂うブエノスアイレスでした。
翌朝飛行機で北上しイグアスの滝へ。ブエノスアイレスを離陸直後、眼下にラプラタ川の河口が見えてきました。
恐ろしく幅が広くて対岸が見えません。約270㎞だそうで、東京から浜松ぐらいまであるそうです。よく授業で生徒に「ラプラタ川の河口はどうしてこんなに広いの?」って質問したのを思い出します。
熱帯雨林の中に水煙が見えます。「いったいここの地形はどうなっているの!」大声で叫んでも、ものすごい水音に私の声はかき消されてしまいます。ほぼ360度、見渡す限り滝、滝、滝。遊歩道が張り巡らされており、滝壺近くまで行って、水しぶきに吹き飛ばされそうになったり、滝の上から眺めて吸い込まれそうになったり、ずぶ濡れの絶叫体験でした。「悪魔の喉笛」への遊歩道は直前の大雨で流されてしまったそうで、見ることができませんでしたがどこを見回しても十分に悪魔の様相で迫力満点でした。
次は古代インカ帝国にタイムスリップです。
かつての首都であったクスコに降り立つ直前に、真っ白な頂を雲の上にのぞかせているサルカンタイ峰(6,271m)が見えました。感激!この地域には、プマ・シリョやアウサンガテなど6000mを超える山がそびえています。付近に点在する遺跡を、遠くインカ帝国の時代から見守っていたようです。
クスコに着くと3600mの高地、その上季節は冬の終わりにもかかわらず強烈な日差しで上着が必要ないほどでした。
街は広場を中心にスペイン風のカテドラル、教会などが建ち並び古都の佇まいでしたが、インカ時代の神殿跡に建てられた・・・、インカの皇帝の宮殿跡に建てられた…などの説明は、少数のスペイン人に征服されたインカ帝国の悲しい歴史を物語っているようでした。一方で「カミソリの刃も通さない」と形容される、巨大な石を積み上げたインカの石組みは、あちこちで見ることができ、その高度な技術を誇っているようでした。
クスコからバス電車を乗り継いでいよいよマチュピチュです。雑誌、テレビで何回も目にしました。でも、この目で見るためにはるばる日本からやって来たんです。
その都市は、深い山の尾根に横たわり静かに太陽を浴びていました。建物は急峻な断崖絶壁にありながら緻密に精巧に築き上げられ、整然と並んでいました。強固な要塞のようにも見えますが、デザイン性にもあふれていてインカの技術者は感性も豊かだったことがうかがわれます。山肌を覆うアンデネス(段々畑)にも驚きました。遺跡を巡りながら当時の人々の暮らしを思わずにはいられませんでした。
運よく遺跡入口にあるホテルに泊まれたので、翌日は朝もやの中を、また午前中に1時間ほど山道を登り「天空のマチュピチュ」を眺めたりしました。ホテルのレストランにはハイラム・ビンガムがこの遺跡を発見した時の写真が何枚も飾ってあり、修復され磨かれた現在の遺跡との違いに愕然としました。それらは密林に覆われ、土に埋もれ、一部崩れかかった、400年の眠りから覚めたばかりの廃墟だったのです。これこそがインカの歴史そのものだと思い知らされた気がしました。
クスコに戻って最後の夜、食事のためにホテルを出た時、遠く暗闇の中に思いがけない光景を見ました。
(南米の高山都市では日本とは反対で、海抜高度の低い所に高級住宅地が、高い所に貧しい庶民の住宅地が広がっているようですが)盆地のヘリ(高い所)に点在する庶民の家の明かりが満天の星空と一体となって溶け込んでいたのです。
以前、「天国に一番近い島」とか言うのがありましたが、ここは「星空に一番近い街」と呼びましょう。
翌日、この旅行を振り返りながら帰途につきました。
ハイキングの会に入れていただいてとても楽しかったです。
いろいろな山に登りましたよね。金子さんを初めとして計画していただいた方々に感謝です。
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皆さま、いかがお過しですか。
羽生田君からバトンを受けた吉田(堀田)明子です。
6年前、染色家の友人に「面白いよ」と誘われて入ったのが「小田原山盛りの会」。
プロの親方を中心に、ヒノキの間伐・枝打ち・木工などをしている会でした。
山も初めて、杉と檜の区別もわからず未知の世界。
鋸は力を入れずに静かに体を使って引くのだよ、と最初に教わり、無心で枝を切りました。
仲間は団塊世代前後の面々。
女性も男性もチェーンソーを使って伐っていきます。
こわくて使えないのは、私一人。
1日作業をすると、元気回復、笑顔がふえます。
興味がある方は、同期会の時に声をかけて下さいね。
ふだんは、自由が丘駅前の本屋2階でレジおばさん、それにバアバ役と母親役 、たまに娘役・少し妻役をして楽しんでいます(*^_^*)
最後に、20期を支えてくださっている方々ありがとうございます。
では、2年3組で一緒だった小島(松原)由利子さんにバトンタッチします。
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ヒノキの切り株で椅子づくり | 山の中でみつけた猛毒トリカブト、可憐な花でした! | |
高校時代
1年4組(花崎先生)、2年8組(花崎先生)、3年7組(小山先生)だった羽生田です。 高校時代は地歴部に所属し、武蔵野の民家の萱葺き屋根の形状分布などを地味~に研究していました。今でも良く覚えていますが「入母屋式」と「寄棟式」の分布ががきれいに別れていて、それが江戸時代武蔵野への新田開拓(XX新田の地名はほとんど)の歴史と関係しているということを足で検証した、自分で言うのも何ですが結構画期的な研究でした。民家(農家)を一軒一軒訪ね、屋根の形と先祖はどこから移住してきたか地道に尋ね歩きました。今は亡き3年6組讃井君が部長で私が副部長、同学年の男子は他に同じく3年7組だった大久保研二君だけで、あとは下級生も含め女子がほとんどの、ある意味では恵まれた!(^^)!クラブでした。右はたぶん1年の文化祭時の写真で、人生で一番スリムな時期だったかも知れません。今や昔の面影は全くありませんが(^^;)...
その後も地味に細長い人生を送りつつ現在に至りますが、
結構派手な人生を送った(と私は思っている)加納君からリレー投稿の依頼が年末に)ありました。何を書いていいやら思いつきませんので、その地味人生の一端と今をご報告しようと思います。たまたま仕事が忙しかったのを自分の口実にして、依頼された納期を1ヶ月遅れてしまい申し訳ありません。まず最初に謝ってしまいますm(_ _)m。その代わりと言ってはなんですが、管理人の小山さんの手間をあまり煩わせないように、写真のレイアウト、参照先のリンク等も自己完結してお送りします。JustSystems Homepage Builderではなく、Dreamweaverを使いましたので、もしかするとかえって手間を掛けてしまうようでしたらご容赦下さい。これまた先に謝ってしまいます。m(_ _)m
大学時代
昭和44年全日本ジュニア選手権クルー(右端) 早稲田大学時代、高校の時とはがらっと変わり、昨年創部50周年を迎え、同好会であるにもかかわらず"超"体育会系(だった)「理工ボート部」に入部しました。大泉のボート部だった人以外でボート競技を本格的に経験した方はほとんどいないと思いますが、非常にハードなスポーツです。理工キャンパスで私を勧誘した新人コーチから「夏合宿後には辞めるうちの1人だろうと思ってた。」と後に言われましたが予想に反し、100人近くいた新人から2年以降も活動した20人程度残った根性組の一員となりました。とは言え3年で脱落してしまい、ホントの意味での根性組ではなかったのですが(>_<)。そう、その同期根性組の1人にT芝の現社長S氏がいます。
私のごくごく個人的な意見ですが、 ボート競技は陸上競技に例えて言うと400mあるいは800mを4人5脚あるいは8人9脚で全力疾走する感じです。リレーとか駅伝を除けば陸上競技は基本的に個人競技です。
自分の体調に合わせ、ペースを変えることは可能なのだと思います(陸上経験者の異論はあるかも知れませんが)。団体競技であるリレーや駅伝でも然り。ところが、ボートは全員が同じペースで行動しないと船が前に進みません。そう言う意味ではたぶんシンクロナイズドスイミングの団体が近いかも知れません。
ボート部時代の2年間は、人生の中でも貴重な経験であり、この時鍛えた結果が今の健康と年に似合わぬ体力につながっていると思っています。今でもOB会やら、同期の仲間とは年に数回の飲み会と、最近はリタイヤ組が多くなり、ゴルフ合宿(飲み会)もはじまり強い絆が継続しています。
そして2年の時、大泉でもボート部だった3年6組の中村章君が入部してきた偶然にはびっくりしました。大泉高校20期の偶然はまだ続きます。
機械設計とテニスそしてITとの関わり
就職は親が高齢のため(と思いこんでいただけで、実はとても長生きだった母は昨年97才で他界)転勤や海外勤務のなさそうな「第二精工舎」(セイコーの腕時計メーカ、現セイコーインスツル)という会社に就職しました。そこで、また偶然3年7組で同級、名簿が隣同士の服部芳雄君が同期入社だったのです。
配属は時計の設計部門、本当はロボットがやりたかったのですが、機械科卒の同期もおそらく50人以上はいて、残念ながら希望は叶いませんでした。そんなこともあり、入社後すぐに参加したテニス部での活動の方が仕事より熱心な入社後の2-3年間でした。そのテニス部で、なんとまたまた偶然に3年7組岡本謙蔵君のお兄さんと一緒になりました。テニスではもう一つ、30才を過ぎてから自宅近くのテニスクラブに入ったのですがそこでの飲み仲間が3年6組山口達夫君(2年8組で同級)の職場での親しい先輩でした。
時計は当時機械時計から水晶時計とデジタル時計への大きな転換期で、伝統技術より技術革新を重視したのが日本の時計メーカ、一時期世界を席巻するのですが、それは数年後、写真フィルム5本のオマケにデジタル時計が付いてくる時代をもたらしました。今また、伝統技術の域である機械時計に価値が見いだされているのはみなさんご承知の通りです。もちろん私の古巣でも頑張ってはいますが。
時計設計を卒業し、当時会社が進めていた多角化部門の電子機器事業部門へ移り、今度はエンジニアリングワークステーション用グラフィックディスプレーの設計や、海外の企業や兄弟会社だったセイコーエプソンとの協業でカラー複写機の開発を担当しました。残念ながらインクジェットの画質が格段に進歩したことにより時代のあだ花に終わってしまいました。上はその時に作ったパンフレット、25年くらい前1988年のことでした。
一方で、大学時代にちょっとかじったプログラミングに興味を覚え、設計の傍らコンピューターを使った技術計算や、コンピュータを使った設計システム(CAD)導入などITを部門内で自ら手を挙げ活用推進してきたことがその後のITがらみの仕事につながってきました。
情報システム子会社を経て今へそしてこれから 1997,8年頃にいた事業部門の基幹業務システムが再構築となりERPの導入プロジェクトマネージャーを引き受けたことがきっかけで情報システム子会社に移りました。そこで関連会社へのERP導入を進め、一通り終わった後は、ERP導入を社外向けビジネスとして立ち上げることになりました。
同じ頃、仕事が大きく変わったこともあり、新しい知識の吸収のため社外の勉強会に積極的に参加していました。
・アシスト社ソリューション研究会
・バリューチェーンプロセス協議会(NPO)
・ITコーディネータのNPOグループ
今もずっと継続しており、それぞれの理事やら幹事や監事をやらせてもらっていますが、この10年前からの会社以外のネットワークが今の仕事につながっています。
そう、たぶんこの頃だったと思いますが、ほとんど行かない東京駅でたまたまトイレに入ったところ3年7組の鈴木豊君とばったりでっくわしました。
情報システム子会社の方は定年を前に退社し、友人と小さなコンサルティング会社をやり始めてもうすぐ5年になります。上記の社外勉強会で取り組んできた技術や参照モデル、見える化ツールを使いながら、いろいろな企業でIT導入以前の業務の見える化と業務改革をお手伝いさせてもらっています。もちろん定年などないので必要とされる限り仕事を続けるつもりですし、上記二つのNPOもこれから忙しくなりそうで、悠々自適の身分はまだ先のようです。
テニスもかれこれ40年継続していて、その間20年以上通っていた、千葉県でいちばん古く、昭和20年に設立されたエバグリーンテニスクラブ(習志野市)が、津田沼駅前再開発のあおりで閉鎖されてしまいました。今はちょっと遠いのですが京成線志津駅(佐倉市)にある総武グリーンテニスクラブに、ほぼ毎週テニスとアフターテニスのために通っています。上はそこでの写真です。
また、昨年1月に映画「ソーシャルネットワーク」を見たのをきっかけに昔のパソコン通信時代を思い出したような気分でFacebookを使い始めました。mixiと違い(と言ってもこちらは使っていないので、違うと言われている)基本的に実名ですので、私はリアルの知人のみとのコミュニケーションにFacebookを利用しています。お互いの近況がちらほらとかいま見え、かつ興味のある話題であれば参加でき、これから我々年寄りには絶好の"ゆるい"コミニュケーションツールだと感じています。まだ使ったことのないみなさんにも是非お勧めします。まだどんなものかご存じない方はgoogleのドキュメントに私が置いた「Facebookのお勧め」を見ていただければと思います。私のページは下記ですので、アカウントお持ちの方は是非「友達リクエスト」お願いします。
http://www.facebook.com/hhaniuda?sk=info
3.11以降
もうすぐ3.11から1年になろうとしています。東電からの賠償金をもらった金子君以外にも被害にあわれた方いらっしゃるかも知れません。改めてお見舞い申し上げます。幸い私の知り合いに直接の被害者はいませんでしたが、考え方を少し変えるきっかけになりました。1年後近辺によくあると言われる大きな余震もまだですし、関東近辺の部分的な地磁気の乱れ、いつ起きてもおかしくない南海、東南海地震、これから先何が起こっても不思議はありません。人生悔いが残らないよう、やり残しのないよう、少しあわてようかと思い直しまし。、昨年は仕事の隙間をぬって4月に「ベトナム・カンボジア」、8月に「ねぶたと竿灯祭り」、9月に「ポルトガル・スペイン」に行ってきました。今年も2月に「札幌雪祭り」といずれも旅行好きで家に滅多にいない家内のアレンジでした。それぞれの写真を掲載します。写真は全部合わせて1万枚を超えてしまい、未だに整理し切れていません。
さて最後に、加納君から次の投稿は絶対女性との指示があったので、地歴部で一緒だった吉田(堀田)明子さんにお願いしました。
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2011/04 暁のアンコールワット(カンボジア) | 2011/04 アンコールトム(カンボジア) | |
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2011/08 青森ねぶた祭り | 2011/08 秋田竿灯祭り | |
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2011/09 ドンキホーテが攻撃した風車(スペイン) | 2011/09 バルセロナの市場(スペイン) | |
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2012/02 小樽雪明かりの路 | 2012/02 札幌雪祭り | |
金子研一君よりバトンを受けた芦塚です。高校時代3年間を同じクラスで過ごした唯一の人であり、 最近もハイキング同好会でいろいろなコースに連れて行ってもらい楽しませていただいたことから何となく受けてしまいました。
私の高校時代を振り返るとつい苦い思い出が浮かんで来ます。高3の11月12日放課後のクラス対抗ラグビーでのこと、自分までボールが回って来たのでパスを考えずにがむしゃらにトライをしようとし、後一人を抜く際にタックルされて右膝の靭帯と半月板損傷をしてしまい結局1ヶ月以上の入院等で、3学期はほとんど出席できず、確か学年末試験を受けられず、お情けで卒業させてもらいました。
主治医からは、もう激しい運動はだめと言われながら、5年後に社会人になって昼休みにサッカーもどきをして再発し、半月板の摘出手術となり、また1ヶ月以上の入院とリハビリで散々でした。ただ
幸いな事に無理しない様にすれば、人並みレベルのスポーツはできる様になりました。
しかしその後もケガが付きまとい。30代前半に縄跳びの連続後ろ2重回しで着地に失敗して腰椎捻挫(ぎっくり腰)、40代後半にスキーでアイスバーンを転倒して左上腕骨頭の骨折、50代後半では原付バイクで歩道の植え込みに突っ込んで肋骨のひび、とその度に思った反省が生かされずにケガが付きまとっています。原付事故の時は1週間後に娘が深夜の居眠り運転で電柱に激突したとの知らせを聞いて長男と現場へ駆けつけたら、パトカー、救急車に消防車まで来ていて、午前2時を廻っていたのに大勢の野次馬が集まり、その間をぬって娘の様子をみると意外に元気そうなのでほっと一息、ただ車の方はフロントが滅茶苦茶で廃車となりました。翌日念のため病院で診ていただくと私と同じ肋骨骨折と親子仲良く同じ病院に通院しましたが、娘ははやばやと完治したのに私の方は、半年以上かかり年の差を感じた次第です。60代からは、けがの治りがますます悪くなるでしょうから現在は無茶なことをしないように気をつけていますが、この先どんなケガが待っているやらちょっと心配です。
家庭生活では、子供が1男1女、今は二人とも独立して所帯を持っています。つい先だっての2月2日に娘が男子を出産しやっと孫を持てる身分になりました。予定日より11日遅れで心配したのですが無事に誕生しほっとしています。2月6日に退院して1ヶ月間我が家に里帰り中で毎日孫の顔を眺めるのが楽しみです。息子の方も5月下旬が予定日でさらに忙しくなりそうです。
仕事の方は、大学卒業後に半導体のデバイスメーカーに入社し、後工程から前工程まで製造技術畑をあゆみ、地方工場への出張や転勤などを繰り返した後、25年勤めて早期退職し、派遣会社のコンサルタントなどを経て、専門学校(鍼灸指圧マッサージ)に3年通って資格を取得しました。高校卒業したばかりの若者から、60を超えた人たちと一緒に人体のしくみ、ケガ、病気、健康、養生について学んだことが今後の健康を考える上で良い経験になりました。ただ、治療院を専業で運営するだけの資金力、体力面、市場性などの厳しさ考えて、副業レベルでやっています。現在は、週4日間を有楽町にある知り合いの会社でキャリアコンサルタントとしてのお手伝いを、2日間は出張型の鍼灸指圧マッサージの仕事を、残りの1日は近所の仲間とテニスを中心にリフレッシュの時間に当てています。
健康面では、老眼、難聴、歯周病と言った体の衰えが出てきましたが、新宿―有楽町間を70分のウォーキング通勤しているので、足腰の持久力だけはまだ何とか残っています。昨年の大震災の時も、有楽町から清瀬まで6時間かけて歩いて帰宅しました。この時は自分ひとりの力だけでなく、途中へばってきた時に杉並区役所前で頂いたビスケットと飲み水で元気をいただいたおかげです。いざと言う時の助け合いの大切さを実感しました。これからは人との係わり合いを大切に持ちつつ家族や友人に迷惑を掛けない「ケガを起こさない人生」を歩んで行くつもりです。
次の投稿をハイキングメンバーである長谷川(羽賀)順子さんに渡します。
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初ひ孫の誕生を喜ぶ母との3ショット | ウォーキングの終点となる朝の日比谷公園内雲形池の「鶴の噴水のツララ」 | |
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テニスコート上にて | ||