リレー投稿 その19     

更新 2017年4月29日

リレー投稿掲載者の方へのリンク(今後、順次追加していきます)

  芦塚 薫さん  有馬 保生さん  伊賀上 知雄さん  井口(旧姓児玉)和子さん  伊東正裕さん  今村房雄さん  内堀 真史さん
  扇(旧姓清水)博子さん  大槻 伸一さん  小笠原 信一さん  尾形(旧姓村上)ますみさん  小川 泰志さん
  木村(旧姓佐々木)邦子さん   木村 徹さん  河野(旧姓黒崎)淑子さん  小林 憲一さん(2016/7)  小林 憲一さん(2014/9)
  坂江 康治さん  坂路孝夫さん  佐藤(旧姓荒川)陽子さん  茂原 祥一さん  島元三雄さん  杉本(旧姓山口)純子さん
  鈴木 博さん  須沼 洋さん  関屋 収さん  田中 克子さん  田中 保さん  茶室秀夫さん  土金德太郎さん
  土肥(旧姓鈴木)暁美さん  土肥(旧姓鈴木)暁美さん  中江 春人さん  中川 惠さん  長栄 邦夫さん  蓮見(旧姓琴坂)元子さん
  長谷川(旧姓羽賀)順子さん  服部芳雄さん  比地原 正明さん  比地原(旧姓関野)正子さん  福原 正和さん  藤本 均さん
  堀(旧姓尾形)恵美子さん  堀 勇良さん  三上 恵只さん  源(旧姓関根)恭子さん  夜久有滋さん  山岸 明さん  山口 達夫さん
  山下 道雄さん  山本(旧姓関)光子さん  吉川悦子さん  渡辺(旧姓萩原)順子さん

俳句との出会い、その魅力 田中 克子 2017年7月26日

 高校を卒業してかれこれ半世紀。それはあっという間のように感じられる年月で、一体私は何をして来たのかと
自問したくなります。それでいて思い返せば色々な事があったと語り尽くせないようにも思えるのです。
 そんな数十年、私が一貫して続けて来た事の一つに俳句があります。
学生時代、たまたま入会した俳句研究会でご指導いただいたのが、故山口青邨先生でした。
先生は高浜虚子の門下生で、有季定型を守るホトトギス系の方でした。当時俳句を作る女性が少なかったので、
女性にも俳句を広めたいと女子大に毎月1回教えに来て下さっていたのです。
学生より卒業生の方が多い俳句会でしたが、「女性は結婚したらまず家庭を守ることを第1に考えなければいけません。
結婚した女性が俳句を続けて行く事は、難しい時があるかもしれません。」と言われました。
確かに私も子供が生まれると暫くは、俳句会に出席することなど到底無理で、俳句を作ることも殆どできなくなりました。
 それでも何年か経つうちに、夫の転勤先で地元の俳句会に入れていただいたりして、細々と句作りを続けました。
一向に上達せず、時々しか句会にも出られない中で、何とか続ける事ができたのは、句帳と鉛筆さえあれば
どこでも句を詠める事、外出した時、季節の移り変わりを感じ、季語との出会いを楽しむ事ができたからでしょう。
 そして子共たちが結婚して家を出て夫婦二人の生活になった今も、長年の習慣から俳句を詠む生活を続けています。
俳句は奥が深く飽きることがありません。絶えず出会いや発見の喜びがあるのです。
 先日も両親のお墓参りの帰り道に立ち寄った亡き叔母の別荘で、庭の真ん中に大きな合歓の木があり、
密やかに花が咲いているのを見付けて、神様からのプレゼントのようにも思われました。今までに何度か訪れていても、
ほかの季節だったので、そこに合歓の木があることに気が付かなかったのです。
私は亡き叔母が合歓の花になって私を出迎えて下さったように思い、懐かしさで胸が一杯になりました。
今回の出会いがまた新しい句に結実するよう今推敲しています。
 私は合歓の花が好きで、今までに詠んだことが何度もありました
   合歓咲くやかすかな音も捉へんと
   合歓咲くや国境の縛解くがに
   合歓の花しづしづ楽を奏でゐて
 かつて家の近くで開かれた、俳人の講演会に出席した時、終了後に俳句の上達法について質問した人がいました。
「何か手っ取り早くわかるマニュアルがあれば教えて下さい。」
先生は笑いながら
「そんなものはありません。先人の句や歳時記を読み、社会のでき事にアンテナを立てて、周りの自然に触れ、
季語との出会いを詠む事をお続けなさい。」と言われました。
本当に上達への近道なんてなく、遠い道を時には回り道をしながら歩いているようなものだと思いつつ、
でも止められない魅力のある道を私は歩いているのだと思っています。                    

「私のルーティーン」 関屋 収 2017年4月27日

 「規則正しい生活が大切」とか「教育(今日行くところがある)、教養(今日用がある)が引退後の肝」などと、
暖かい助言を受けてスタート。何とか、「まあまあ」という自己評価で1年を過ごした。
 そこで始めた日課は、①起床、洗顔、②風呂掃除、③仏様、④朝食、⑤NHKの朝ドラ、
⑥ゴミ捨て、このデイリー・ルーティーンから毎日を始める。朝ドラは、ととねーちゃん、べっぴんさん、ひよっこ、
と続いているがなかなか秀作。流石、小林憲一さんのNHK、楽しませてもらっている。
仏様は、ご先祖との会話、起床の挨拶と朝食は妻との会話、これらも良し。声出しは心の健康の源。
風呂掃除は、身体の収縮とストレッチ、ゴミ捨ては、9階から階段で降りて、昇る、無理のない運動は身体の健康の源。
 先日、私と同じような境遇の仲間が10人集まって話をしたら、5人が風呂掃除を引き受けているという。
料理も流行っているようだが、私はまだ、そこには手を出していない。
昨年、父の日に、息子の嫁さんからリボンで飾られたきれいな袋入りのプレゼントが届いた。
ちょっと高級な風呂洗い用洗剤と、ハート形のスポンジだった。そのいたずらっぽい洒落っ気が嬉しかった。

 この1年ほとんど毎週欠かさずやっていることがある。言わば、ウィークリー・ルーティーンだ。
我が家から15キロ離れた芦兵衛(芦名ベーカリー)というパン屋へパンを買いに行く。相模湾、134号線沿いの
葉山と横須賀の境にある駐車場4台分を持った小粋なパン屋さんだ。一流のパン屋さんでパン作りの修業を積んだ
お兄さんと、やはり一流のレストランで料理やお菓子の勉強をした弟さんが、協力してパンを焼いて販売している。
食パン、ブドウパンは1週間分買い置きし冷凍庫へ。カレーパン、シラスピッツァ、クリームパン、
あんパンなどはその昼に食べる分だけ、出来立てのパンを買う。タルト系のパンやアップルパイは、
ケーキ屋さんを味でしのいで、各段安い。未明の3時ころから準備をして8時から売り出し、
午後3時には完売というのが通常だ。
 弟さんが三男の中学時代のバスケットのチームメート。始まりはその縁であったが、今は夫婦そろって、
芦兵衛のパンの大ファンとなった。ほぼ毎日の朝食の主食であり、週一回は昼食にこの焼きたてのパンをいただいている。
天気の良い日は、近くの立石海岸か、佐島の天神島公園などで、潮の香を嗅ぎ、潮騒を聞きながら食べるパンが
また格別である。
加えて、往復のドライブは四季を楽しませてくれる。六浦から神武寺、逗子の桜山を通り、湘南国際村へ。
134号線相模湾に出て、左折、立石海岸を右手に見て、1キロもなく芦兵衛に到着する。
帰りは、相模湾を左に見て、天気の良い時は江の島、富士山がくっきりと。御用邸の前を右折して、
葉山町役場の前を通って、往きの道に戻る。混むこともないので、片道30分足らずの贅沢だ。
今年の桜から新緑までと、海、そして芦兵衛の写真を紹介する。

逗子、桜山の桜並木 葉山町役場前のツツジ
佐島、天神島公園で磯遊び 立石駐車場から臨む相模湾
芦兵衛(芦名ベーカリー) 焼きたての魅力的なパンがずらり

身近に、小さな幸せがあることを、日々、学ぶ今日この頃である。平凡の非凡。

リレー投稿 鈴木 博 2016年11月6日

こんにちは 幹事さんから,何かを投稿するようご依頼があり気楽に引き受けましたが,結局時間があまりとれず
思いつくままに昔話をさせていただきます.

大泉を卒業し,大学に入学した年の12月からいわゆる大学紛争(正門バリケード付き)が始まりました.
大学に入って社会的なものに興味を持ち,その関連のサークルに入っていましたが,そばには中核派とか革マル派とか
民青の学生がいて随分議論をしました.この経験で信念を持っている人は相手の論理になかなかのってこないことがよくわかりました.
同じサークルに所属していてよく議論して頂いた先輩の中でユニークだったのは管直人氏でした.
穏やかでしたが活動的でいろいろなところで議論をされていました.すでに学内では目立つ存在でしたが,
まさか首相になるとは当時思いもしませんでした.この頃の経験から,国家というものをちょっと離れて客観的に観るようになりました.
しかしながら内ゲバなどという噂が流れてくると,もううんざりという状況でした.

大学院を修了して,電電公社の横須賀電気通信研究所に入社しました.大学時代に研究の面白さを知り,
じっくり研究をしてみたかったからです.しかしながら,時代の要請により公社から株式会社に経営形態が変り,
しばらくして所属する事業が分社化されて管理職はそのまま子会社であるNTTドコモの研究部門に転籍しました.
この間,研究のやり方は随分変わりました. 学生時代にたわいのない人生の悩みごとをがまんして聞いて下さった先生から
突然お誘いがあり,1996年9月に母校の東京工業大学へ転職しました.大泉卒業の先輩が何人かすでに教授をされていて,
要職に就いておられました.その先生方にいろいろな面で指導して頂きました.最近は大泉出身の池上彰先生が頑張っています.
「高校力」というものがあるのだなと思います.大学も時代の要請に従って国立から法人に移行しました.
法人化後はやはり大学の運営形態が大きく変わりました. 昨年定年退職しましたが,現在は知人のお誘いがあり
電気通信大学で特任教授をしています.勤務は週1日ですが,研究はほぼ毎日家でやっています.
いま話題のやってはいけない持ち帰りのサービス超勤になりますが,研究は仕事と趣味の境界があいまいなので,
こんな生活は電電公社時代から慣れっこです.先日ノーベル賞の受賞が決まった大隅先生は,大学でじっくり基礎研究をされてきましたが,
私のテーマは実用化に近いものだったので,実にあわただしい研究生活でした.
その研究に関しては,就職して3年程して移動無線通信の研究をやらないかと上司にいわれ,私にはまったく未知でありましたが
身を投じる決意をしました.それからほぼ40年間,携帯電話の研究をずっと行ってきました.
この分野でそのころからインターナショナルに研究を続けている人は,世界でも私ともう一人の日本人だけです.
やはり日本は変わった国なのかもしれません.個々のテーマは時代に沿って変わりましたがよく続いたものだと思います.
でもまだ数年は続けるつもりでいます. 私がやってきたことは,ディジタル移動無線通信という分野です.
現在では殆んどの方が携帯電話を持っていると思いますが,研究を始めたときは携帯電話はおろか自動車電話すらありませんでした.
アナログ自動車電話が開始される前に商用試験に駆り出され,7 kg もある移動電話機を自動車のトランクに載せて試験をしていたとき,
自分はこの移動電話機を個人で所有することは一生できないだろうと思っていました.当時,通話装置が数百万円でしたので,
自動車電話と呼ばずに自動車付き電話と冗談で呼んだこともあります.
幸い我々が研究していたディジタル通信技術が導入されて第2世代のディジタル携帯電話PDCが1993年に商用化されました.
アナログ携帯を第1世代,最初のディジタル携帯PDCを第2世代と呼んでいます.このときすでに研究を始めて15年以上が経っていました.
これでやっと庶民が使えるようになりました.その後も,インターネットに 384 kbit/s 接続でき,
かつ世界中で同じ携帯電話機が使えるよう第3世代システムWCDMAの高速通信の研究をしました.
これからはLTE(第4世代)の時代になりますが,1 Gbit/s も余裕で使えるようになります.
我々の研究レベル(第5世代)では 30 Gbit/s まで達成しているので,2025年以降はAIと一体化してもっといろいろできるようになります.
こんなに長い間研究をしていると,まだ研究することがあるのかと聞かれることがあります.
この質問は,新しいものを導入すると自分の業績が消えてしまったり,新規事業にお金をかけたくない人達,いわゆる抵抗勢力から,
もう20年前から言われ続けてきました.そのたびに「・・・を研究しなければ・・・」といい続けてきましたが,
実はそろそろ私も最近はクエスチョンマークが頭の中でチカチカしています.そろそろ私も抵抗勢力の仲間入りでしょうか?
定年退職したこともあり少し離れたところから第6世代を考えようと思っています.第6世代は普通の生活には直接関わらないかもしれませんが,
見えないところから世界に大激変を引き起すかもしれません.

さて,定年退職したので,まだ現役が続くワイフに大黒柱の地位を譲りました.そのため掃除やら,食事の準備・後片付けなどの
いわゆる主夫の役回りが増えています.また家でゴソゴソやっていることもあり確かに運動量は減っています.
退職したら動かなくなるので体が衰えないようウォーキングをしたら良いと,
退職前のライフワークセミナで「定年後 犬もいやがる 5度目の散歩」などの川柳とともに気楽に勧められました.
私の場合アルコールを飲む機会が減ったためか,退職したら 6 kg 痩せました.
はじめは癌になったかと心配でしたが 8ヵ月ほどで止まりました.捨てようと思っていた何年も前のズボンが図らずもはけるようになりました.
はじめはウォーキングの目標を1日1万歩にしていましたが,肥満へのリバウンドの気配がないのを口実に 8,000 歩にペースダウンしました.
幸い体長が 40 cm ほどの小さなトイプードル犬(セレーネちゃん)は,ウォーキングだけでなく3時間位たまに遠征しても嫌がらずに付いてきてくれます.
皆様も健康にお気を付けて,さまざまな形でご活躍されることをお祈りいたします.

近況報告 三上恵只 2016年9月23日

異常気象や世界情勢の変化で将来が不安な時代になってきていますね。
振り返ってみますと日本は我々団塊の世代以後急成長という名のもとに競争社会になってしまい何事も急ぐあまり
大事なものを失いながら歩んできてしまったように最近つくずく思います。
いつになったら格差社会が亡くなるのか今の政府のやり方では無理な気がしてなりません。
自分自身医師になってから患者さんと研究に追われる40年間を必死に過ごしてきました。後半の7年間は両親の介護も加わり
64歳でやっと無事に退職できました。
この間アメリカでの3年間は多くの方と触れ合い、助けられ、また自分を見直す事もできて余裕ある時間を過ごせました。
退職後は小見川総合病院名誉院長として週2日の外来、病院相談役と附属看護専門学校の校長の業務を行っています。
還暦まで生きてこられたことに感謝しつつまた働いた自分へのご褒美と考えて残りの日々は好きなことをやっています。
犬の散歩、ゴルフ、畑仕事(自分で作った野菜を調理して食べるのは最高)、ヘルマンハープ(弦楽器)の演奏、
細々と語学の勉強(老化のため単語が中々出てきませんが(´;ω;`))その他小見川病院仲間と友人(高齢なので殆どが患者さん)と
宴会等楽しんでいます。
まだ現役の家内とはグルメ廻りと、暇を見つけてオペラ鑑賞や国内旅行に、
正月休みとお盆を利用して海外旅行に出かけています。
一つだけ趣味で始めたヘルマンハープはご存知の方もいると思いますがドイツ人のヘルマンさんが息子でダウン症のアンドレア君が
弾けるようにと自身で開発された楽器で、とても簡単で楽器が苦手の私でも出来そうなので始めましたがとても癒される音色です。
日本ヘルマンハープ振興会は西宮が本部で東京では青山店がありますが11月から神楽坂に移る予定です。
興味ある方は日本ヘルマンハープ振興会のHPご覧下さい。
先日9月11日に青山店で初めてゲストの前で私の先生と連弾させていただきました。
今後は病院の緩和ケアー、小児がんの病棟等の他高齢者や障碍者の施設を廻って癒しの
演奏が出来れば幸いです。
健康で過ごせることに感謝の毎日です。

  


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