更新 2014年11月20日
大泉高校在学中、1年5組、2年3組、3年6組にいた有馬です。
部活は陸上部で、先月その陸上部で一緒だった芦塚君から突然の電話があり、20期のホームページのリレー投稿に寄稿してほしいとの依頼でした。
20期のホームページを見たことはありましたが、正直、リレー投稿については何も知らず、芦塚君から説明を受け私に依頼された意味を
初めて理解した次第です。管理人の小山君に怒られそうです。
そんな訳で今回寄稿(というほど大したものではありませんが)することになりました。
私は現在文京区千駄木(雑誌では谷根千―谷中・根津・千駄木―と紹介される今はやりの散策場所です)にある日本医科大学付属病院に勤務しています。
大泉を卒業し2年間浪人の後入学しました。医師免許を取得後、大学院、都内や地方の病院勤務を経て幸か不幸か(?)長く大学に残り
昨年の3月無事定年となりました。専攻は消化器外科で手術と患者さんの管理(あまりいい言葉ではありませんが)の毎日で、
病棟勤務をしていたころは休日も休みとは言えず、盆も暮れもないような生活を送りました。定年となり手術は行わなくなりましたが、
外来診療は今年の3月まで続けていました。現在もフルタイムの常勤医として勤務していますが、臨床から離れ管理部門で仕事をしています。
私は消化器外科医として40年近くいろいろな手術に携わってきました。当初は手術といえば全て開腹手術でした。
現在盛んに行われている腹腔鏡下手術は我が国では平成2年(1990年)に初めて行われ、第1例目は胆のう摘出術でした。
私は胆のう・胆管疾患を専門としていたこともあり、翌年から腹腔鏡下胆のう摘出術を始めました。
その後胆のう摘出術は90%以上が腹腔鏡下手術になり、外科医として過ごした期間の半分以上を腹腔鏡下手術と過ごしてきたことになります。
開始当初は三次元のものを二次元の画面で見て、また指で直接触れることができず鉗子という手術器具を介してしか手術ができなかったため、
非常にまどろっこしく、我慢と忍耐の連続でしたが、30~40例経験した頃から急につらさがなくなりました。
腹腔鏡下手術に順応できたようでした。また、始めたころは「こんな手術は外科医がやるもんじゃない、
盛んになるとは考えられない」と思っていましたが、しかし術後の患者さんを見ると元気で創部痛も軽く、
70、80歳のお年寄りが術翌日から起座していたり自力で歩いたり、また食事開始も早く開腹術術後との差は歴然で、
「これは理屈じゃない、やるしかないな」と思いました。
腹腔鏡そのものは検査機器で、婦人科領域や肝臓の検査用として以前から使用されていました。
腹腔鏡を使って手術が行われるようになったのはまだ歴史が浅く、1987年にフランスの婦人科医が検査の際に
たまたま胆のうを摘出してしまったのが始まりで、その2年後(1989年)アメリカで行われるようになり、
翌年我が国に導入され爆発的に普及しました。これは誰でもほぼ同じ治療が安価(認識は人によるかもしれませんが)で
受けられるわが国特有の「国民皆保険制度」と常に最高のもの(治療)を要望する国民性によるところが大きいのでしょう。
また、国が医療費抑制のため政策として推奨する短期入院に合致していることもあると思います。
腹腔鏡下手術は胆のう摘出術を筆頭に発展し、現在消化器外科領域では胆のう・胆管、大腸、胃、食道(腹腔鏡+胸腔鏡)、
肝臓、膵臓、脾臓、虫垂、小腸とほぼ全ての腹腔内臓器に対して行われており、開始当初は良性疾患のみ適応とされていましたが
現在は臓器によっては悪性腫瘍が大部分を占めています。私が所属した消化器外科では全手術の70~80%が腹腔鏡下手術で行われています。
最後に、ホームページの皆さんの寄稿文をみて、みな立派でとても同じものは書けないと思いました。
小山君からは「内容に決まりはなく、何でもいいんだよ」とのことで少し気が楽になりました。
次は陸上部から他の部に変わります。人選は小山君にお願いしました。
楽しい話ではなかったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。同期会で皆さんに会えることを楽しみにしています。
小林さんから、陸上部つながりで受け継いだ芦塚です。私の印象を「背が高く色が黒くて、恐そうな顔をした、しかし足はスラッとしていかにも陸上の
選手という人」と紹介していただき、ちょっと思い出したことがあります。
中学時代のことですが、不良っぽい上級生からちょっと顔を貸せと言われてカツアゲされそうになりビビッタことがありました。
自分としてはクラス委員で品行方正、真面目な中学生のイメージだったのですが、当時から色黒で目つきが鋭く(悪い?)生意気に見えたのかも知れません。
これは幼稚園の頃から外で遊ぶことが大好きで家に帰ると友達を誘って雑木林や野原を駆け回っていたので、これが色黒の初めでは?と思っています。
小学4年ぐらいになるとさらに行動的になり、近くの米軍家族用住宅地(通称グラントハイツ)の鉄条網をくぐって侵入し、中で遊んでいるアメリカ人の
子供に声をかけて一緒にボール遊びや鬼ごっこもどきをして仲良くなり、名前と電話番号、住所をサインしてもらい次回からは、正規の手続きで
ゲートの警備員(日本人)に友達の所へ遊びに来たからと電話をかけてもらい、堂々と中に入るようになりました。
何回かの訪問で母親とも知り合い家の中へ案内されたのですが、冷蔵庫などの家電製品の大きさにびっくりしました。テレビで放映されていた
あこがれのアメリカンホームドラマの家の中と一緒でした。
もう一つびっくりしたのは、当時の日本の子供は空地での三角べース野球が盛んでしたが、グラントハイツ内では、家の周りの芝生で親子が
アメリカンフットボールでのキャッチボールしていました。
私がうらやましそうな顔をしていたのでしょうか、彼の父親からボールの握り方や投げ方を言葉のわからない中でも身振り手振りで教わり、
うまく指に引っ掛けてあの楕円形のボールがバタバタすることなく真っ直ぐに投げられるようになり得意になっていました。
昭和35年ごろはまだアメリカンフットボールは日本ではほとんど注目されていなかったと思うので、先端を走っていたかもしれません。
こんな経験をしていたことが生意気に見えたかも?と思います。
話が横道にそれてしまいましたが、陸上競技に興味を持ったのは、小学6年の時で、中学3年の兄が練馬区の大会に出場するというので
応援に行くと、なんと100mで優勝してしまい、びっくりしたことでした。
それまで兄と一緒に生活していてそんなに運動神経が良いとは思っていなかったのでよくよく聞いてみると、中学の顧問の先生が
織田幹夫さん(小林さんの投稿の中でも出ていた陸上競技の世界では最もレジェンドな日本人初のオリンピック金メダリストです)と知合いで、
中学に指導で来られた際、走り方を褒められ、アドバイスを受けた事がきっかけで速くなったそうです。
私の方は、小学校時代から速い方ではありましたが学年一速いと言うほどではありませんでした。どちらかと言うと跳躍力に自信があり、
中学時代は、走り高跳びで学年トップだったと思います。
ただ陸上部に入っていなかったので、専門の練習などせずに勢いで跳んでいたことから大泉高校に入学してクラブ活動は?と思った時、
走り高跳びの専門練習をしたら記録も伸びるのではと思い入部したのですが・・・・・・?
顧問の山谷先生は、専門外で、指導を受けることなく自己流の練習だった事と、短距離練習の方が山本君や有馬君と一緒に練習が
できて楽しく競い合えたのでついついそちらの方をメインに練習したことで、言い訳じみますが高跳びも短距離も中途半端に終わってしまいました。
「よき指導者に巡り合ったらまた違った競技人生があったのでは?」などとちょっと思ったりもしました。と言うのも、わが娘も小学生のころから
跳躍力がありが中学に進学して私が特に勧めたわけでもないのに陸上部に入部しました。
幸い顧問の先生が非常に熱心な方で活気のある部活動だったので走り高跳びでは1年生から市の大会で頭角をあらわしたものですから、
妻と一緒に競技会へ足を運ぶようになりました。
幸い3年では埼玉県大会で2位となるなど結構活躍する場面を見て、娘の跳躍の瞬間やバーをクリアする時には自分が跳んでいるような
興奮を覚えた物でした。
高校進学後も競技を続けましたが、やはり県2位どまりで娘の競技人生は終わったのですが、部活動で疲れて帰って来たときなどに
足のマッサージをしてあげるなどしてスキンシップができたおかげで、年頃の娘からおやじ嫌いになることも無かったのでスポーツの共通性が
幸いしたと思っています。
振り返ってみると、娘がそこそこの活躍できたのは、兄もそうでしたが、優れた指導者との出会いが大きなポイントだったと思います。
そんな娘も今では中学の体育教師になって10年、今年から陸上部の顧問になりどんな指導者になるのか注目しています。
私の近況は、2年半前にこのリレー投稿した時と変わらず、週4日ほど人材コンサルタントの仕事をしていますが、休日は近くに住んでいる
息子と娘の子供たち(2歳5か月と2歳8か月)と公園などで遊んでもらいながら元気をもらっています。
今年3月の家族旅行で撮った写真を添付します。妻と長男の嫁さん以外は「ガタイがいい」家族です。
次回は陸上部の主将を務めた「クールガイの有馬さん」にお願いしました。
陸上競技部ということでバトンを引き継ぎましたが、テニス部から話を始めたいと思います。一年の時はテニス部に入っており、
上手くはなかったものの、テニスそのものは好きでしたし、昼休みにコートへ行ってローラーをかけるのも嫌ではなかった記憶があります。
嫌だったのは、大学生の先輩が毎日来ていろいろ指導することです。特に自分だけが怒られたわけでもないのですが、
その当時は高校生の部活に部外者の大学生が加わることが、どうも許せなかった。どうしてそんなに強い拒否反応を示したのか、自分でもわかりません。
今になってみると、大学生も高校生も同じような洟垂れ小僧だし、どうでもよかった事だと思うのですが、その時点では“むかつく”と感じていたようです。
ということで、二年生になる時点でテニス部は辞めてしまいました。しかし、何か運動はしたいと思っていたところ、誘われたのが陸上部です。
誘われたと言っても、短距離が速いとか跳躍力が抜群だとかいう有望選手として見込まれたわけではなく、一年で同じクラスだった
有馬君が陸上部のキャプテンをやっていて、「暇だったら来ない?」と声をかけてくれたのがきっかけです。いわば拾ってもらったようなものです。
持久力が乏しいため短距離を中心に始めましたが、大会に出られるようなレベルでもなく、人に付いていくのがやっと、といった状態です。
そんな中で夏の合宿に参加することになりました。合宿の場所は代々木のオリンピック村です。昭和41年の夏ですから39年の
東京オリンピックから二年足らず。陸上競技界で名もない都立高校の陸上部が(お前に言われたくない? ごもっとも)、国の最新施設を
どうして利用できたのかわかりませんが、きっと顧問だった山谷先生の力がものをいったのでしょう。
オリンピック村まで練馬からどういうルートで行ったのか、また部屋が二人部屋だったのか三人部屋だったのか、
大きさや壁の色も含めまったく記憶にありません。練習に使った近くのグランドが「織田フィールド」といい、三段跳び金メダリストの
織田幹雄氏に由来していること、東京オリンピックでは各国の選手が試合前の練習にこのフィールドを使用したことなど、みんな事後に知りました。
思えば、高校生の合宿にしてはずいぶん身に余る立派な施設でした。
そして、話はいよいよ~誰でも一度だけ・・・~へ突入します。
生まれてこのかた17年、大きいほうを催したときは個室へ入って、前を向いて座り、膝はしっかりと折って深くしゃがみ込むのが常でした。
これが小笠原流か裏千家流かはしりませんが、とにかくオムツがとれてから十何年、ずっとそうでした。
しかるに、そこにあったものは、しゃがみ込むには高すぎるし、前を向くにも壁が間近に迫っていて窮屈です。
あろうことか、前ではなく後ろを向いて座るようです。それでも、なんとか事なきを得たのは、きっと図解した利用方法が
壁にでも貼ってあったのでしょう。
“後ろ”を向いて、椅子に座るように中腰という姿勢は、前を向いて、しっかり膝を折ってしゃがみ込むというそれまでの“正式なフォーム”に
比べて何とも中途半端で力も入りづらいし、落ち着きません。少なくともあの時点では。それでも何とか乗り切ったのは、それ以上に
切羽詰った問題があったからに違いありません。
あれから40年(綾小路きみまろ風ですが)、今ではゴルフ場や映画館でも、洋式に空きがなくかつよっぽど緊急を要するときしか和式は使いません。
また海外旅行で何日か外国にいるとウォッシュレットが懐かしくなる始末です。昔、文化練馬、文化生活という言葉が流行りましたが、
文化生活とはこういうものですかね。昭和は遠くなりにけり。かなりインパクトのある『ひと夏の経験』でした。
陸上部には曽我、比地原の両君がいて、曽我君は3才ぐらいからの幼友達、比地原君も小・中学校いっしょということで、
すんなり溶け込むことができました。
同輩、後輩とも仲が良く、アットホームな雰囲気の中で楽しい部活ライフが送れました。
そう言えば、同じ陸上部の中に、背が高く色が黒くて、恐そうな顔をした、しかし足はスラッとしていかにも陸上の選手という人がいました。
おっかなびっくり“この人”と話してみると、声は優しく、しゃべり方も丁寧で、イメージとのギャップにびっくりした覚えがあります。もっと驚いたのは、
何年か前に金子君が主催するハイキングで何十年ぶりに会ったところ、しゃべり方や声だけでなくスリムな体型もまったく変わってなかったことです。
ということで、“この人”芦塚薫さんへバトンを手渡します。
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陸上競技部の比地原正明です。7月1日からスイスに来ています。1回目のツアーが終了して今週は2回目のツアーに入ったところです。
昨日からツェルマットに泊まっていますが、まだツェルマットは夏の賑わいは無く、日本人観光客が目立っています。
ヨーロッパのバカンスが始まる来週辺りから賑やかになってくるでしょう。
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昨日のツェルマットの駅前 |
今日は、毎週木曜日に催行されるゴルナーグラートのサンライズツアーに行ってきました。
朝4時に起きて、5時前に出発する電車で日の出前にゴルナーグラートの展望台に上がります。
昨夜からの雪でゴルナーグラートの積雪は10センチ程で冬のような寒さでした。
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雪の斜面を上る登山電車 | 雪のゴルナーグラートクルムホテル |
今日は雲が二層に分かれていて、ツェルマットの町は雲海の下。四千メートル峰の山頂は雲の中でした。
マッターホルンの朝焼けショーは見られないので、すぐにクルムホテルで朝食をとり明るくなってから展望台に登りました。
雪が降る氷点下の展望台からは周りの四千メートル峰の山頂は望めないものの、まるで冬にスキーに来たような気分です。
朝焼けショーは、まず東の四千メートル近い稜線から太陽の光が上がり、周囲の四千メートル峰の山頂が上から赤く染まってゆきます。
単独峰のマッターホルンは顕著に山頂から赤く染まってゆきます。上から四分の一ほど赤くなると次第に周囲が明るくなり朝焼けショーは終了します。
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先週の朝焼けマッターホルンショー |
今日のハイキングは雪で花が隠れてしまいフラワーハイキングにはなりませんでしたが、2時間ほど歩いて
リッフェルベルクまで下ると雪は消え、アルプスの三名花の一つエンチアンが咲き誇っていました。
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エンチアンの花 |
ゴルナーグラートは冬には電車を降りて駅前でスキーをはいて、そのままマッターホルンに向かって滑る素晴らしい所です。
滑走コースはきれいに圧雪され快適です。雪のアルプスの山々に囲まれて滑る醍醐味は何とも言えません。
この辺りのハイシーズンは夏ではなく冬の2月、3月なのです。冬になると夏に休んでいた全てのゴンドラ、リフトが動き出し、
イタリアのチェルビニアまで昼食にパスタを食べに行くのも簡単です。
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ゴルナーグラート駅前から滑り出す | チェルビニアからのマッターホルン |
今年は仕事の無い日はツールドマッターホルンやイタリアのドロミテを歩いて8月末に帰国します。新しい所を歩いて調査して、来年の企画に
繋げるのが一番の楽しみです。
次は同じ陸上競技部の小林憲一さんにお願いします。
バスケット部にいた茂原です。
試合ではベンチを主たる活動拠点としていました。たまに、ごくたまに、勝ち負けが完全に決まった試合の最後の数分だけコートへ出させてもらったけど、
何が何だか分からないうちに試合は終了。
大学では原子炉燃料の研究のまねごとを少々。3.11まで、何もしなかったことを後悔しています。
今は妻の連れ子の22歳になる娘と、2人で地元花小金井駅近くのパスタ屋で、週に一度のランが楽しみな生活。
「子供のころ、お父さん、あっち向いてホイあんまりやってくれなかったよね」「そうだった? いつも10回はやったじゃない」なんて想い出話が楽しい。
この娘、5分勉強したら頭から煙が出るという面白いやつ。それゆえに学力は低迷だったけど、人間の質がすこぶる高いので、尊敬している。
やや、こんなことを書いている暇はないのだ。
健康長寿の秘訣について、ぜひ皆さんに書いておきたいことがあるので、先を急ぎます(別に急ぐ必要はないけれど)。
花小金井駅前で鍼灸の治療院を開院して十四年になります。その経験を生かして書きます。
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「健康のために○○をする」「惚けないために○○をする」はどれほど正しくても滑稽です。それにどこか寂しい。
こうした老後の生き方は、人生への構えが小さい気がする。
理想の生き方は、楽しく、充実して生きたら、結果的にそれがボケの予防になっていた、健康法にも叶っていた、という生活。
健康情報などに右往左往せずに、泰然自若として生きたい。高齢者はかくありたいと思うからです。
そうした生き方を追求した結果を小冊子にまとめる予定です。長文は長い挨拶と同じで、避けたいので、ここでは1テーマのみを書きます。
近いうちに「東洋長寿研究所」というサイトも立ち上げます。
世の中の不幸な人を見つければ その人が惚けを防いでくれる
退職した皆様に、ぜひ目をとおしていただきたい1冊があります。むろん脳のためにもなる。
それは『ソーシャル・ビジネス革命』(ムハマド・ユヌス 早川書房)。
著者はバングラデシュの経済学者で、教育を受けていない農村の女性に融資をして自立(起業)を助けたり、街の物乞いの人々を
起業させて何万人も救ってきました(そのことでノーベル平和賞を受賞)。
この本には脳を刺激する言葉が詰まっています。起業をしなくても、以下のことを進めるだけで、惚けは予防できるでしょう。
9年間会社を運営した経験と、患者さんから教えていただいたことを綜合しました。以下、行動の順番に箇条書きにします。
① 情報収集――マスコミ(新聞・テレビ・ラジオ・雑誌)やネットなどで社会的に困っている人、不幸な人、不運な人をみつける。
遠くの図書館に通えば運動にもなって一石二鳥。
② 絞り込み――右のなかから、自分の関心が深い分野や、助けたい人々を絞り込む。
③ 組織をさがす――つぎに、この人々をすでに助けている組織(社会的企業やNPOなど)があるので、それを探す。
④ 参加――そこをいくつか訪ねてみる。その中で興味をひいたものがあれば行動に参加させてもらう。
起業までいかなくても、この段階まででも、十分に認知症の予防になるはずです。
なぜなら、惚けの予防に必須である人と話す機会が増えるし、出かけてゆくので運動にもなるから。また人の幸福を考えているわけで、
利他の心は幸福度を増し、それは身体を健康にする。これも多くの研究で分かっています。
というわけで、起業まで行かなくても、惚けの予防という目的は達成するはずです。
さて、タイトルの「困っている人が救ってくれる」の意味です。
賢明なる大泉の諸賢はもうお気づきでしょう。困っている人、不幸な人を見つける過程で脳はフル回転します。それが第一の理由。
もうひとつ、それよりも大きな理由はお役だち感が満たされること。人は「ありがとう」と感謝されるほど幸福感が増す。
このとき自尊感情も満たされる。そしてこれは惚けの予防になる。以上が多くの研究でわかっています。
つまり、助けた人に惚けの予防をしてもらうことになるというわけです。情けは人の為ならず、なんですね。
しかし④までいかなくてもいいのです。③まででも、健康レベルがアップする。いいかえれば、人助けをしている人を知って
「頑張っている人がいるのだな」と呟くだけでもいい。効果がある。
それでも実際に自分が行動した時と同じくらい効果があることがアメリカの多くの大学の研究でわかっています。
人間の心の不思議でしょうか。
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以下、小冊子に書く主要なタイトルのみを列挙します。
● 認知症
出世したツケは老後にヒタヒタと、脳の働き蝕みにくる
認知症 薬で対処する医師を 信じるなかれ いま発展の途上なり
悠々自適は脳の敵 使わないから惚けてゆく
男には手料理の効果絶大なり 脳の全部を使うから
●食事
栄養の知識はすべて不要なり 砂糖と塩をゼロにしたなら
サプリメント、たくさん飲むほど短命に
●運動
還暦を過ぎたら階段適齢期
自転車は健康長寿の敵なりき ボケと寝たきり早くするから
●西洋医学
病院の指導を受けたグループが かえって死んだという研究(有名なフィンランドの研究)
脳ドック 受けるメリット何もない怠惰か不安が待っているだけ
●薬
ピロリ菌除去することに疑義がある 害無限大の危険あり
鎮痛剤 胃に穴の穿く人もあり 飲まずに動けば痛みはとれる
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不妊専門の鍼灸師兼不妊カウンセラーとして、最後にもう一言。
諸兄姉には、不妊に悩むご子息がおられるかもしれません。しかし。
病院に期待しないでください。平均200万円をかけても、病院の治療で授かるのは5組に1組。それも今や頭打ちだからです。
妊娠の力を左右するのは卵子の生命力。しかし病院ではそれをアップすることができません。(100%の先生がマスコミや本、学会で
語っている事実)。
自力でしか授かることはできないのです。生活習慣病だからです。あるいは生活不活発病だからです。
その証拠には、大正時代には45歳以上で18000人も産んでいた(50歳以上でも3600人)。なのに、今は体外受精を受けても、
700人に満たないのです。
もし、ご質問などがありましたら、長寿でも不妊でも、こちらへどうぞ。info@lapole.biz
以上、茂原祥一でした。
今回はテニス部のリレー投稿ということですが、あーどうしよう。
広々としたテニスコートでボールを打ち合う姿にあこがれてテニス部に入部したはずでしたが、少々根性が足りなかったのでしょう、
途中で挫折してしまいました。
炎天下で汗をダラダラ流し顔を真っ赤にしての練習や試合でさんざんにやられ情けない思いをして足取り重く帰ったのはよく覚えています。
そんなハードな練習にもめげず部活動に情熱を注いだ私以外のテニス部の皆様、すごいです。
本当に強い精神力の持ち主であると尊敬申し上げる次第です。
こんな訳で部活動については偉そうなことは語れませんが、思い起こしてみれば、今までに、大泉の同期の方々とのちょっと笑ってしまう
ひょんな場所での心に残るばったりの再会がいくつかありました。それをご紹介しましょう。
まずその1
夫の仕事の関係で、結婚をしてすぐにロンドンに渡り、私たちの新婚生活はロンドンで始まりました。今からかれこれ40年ほど前のことです。
見るものすべて新鮮で、暇さえあれば車で、おとぎの国のような街並みや水仙の咲き乱れるのどかな田園風景など見て回りました。
今でもさまざまなことが懐かしく蘇ってきます。
当時の食生活はというと、ローストビーフもステーキもすぐにノーサンキュー状態になってしまい、少々苦労しました。
今ですと世界中どこに行っても寿司、ラーメンといった日本レストランやカップラーメンやとうふといった日本の食材を目にしますが、
当時はそんなものはほとんどなく、遠く離れた小さな日本食料品店にせっせと買い出しに行っていました。
ある日、その店の冷凍庫の中を「何かおいしそうなものはないかな」と覗いていると隣にも同じく冷凍庫の中を覗いている人が・・・
なんと中川紀代子さんだったのです。イギリスの方とご結婚し、すでにイギリスで生活していらしたようです。
私は生まれたばかりの長男を抱いていたと思います。
遠く離れた異国の地でばったりということでした。
その2
何年か前、家で子供たちに英語を教えていたことがありました。
ある日、その英語教室を運営している教材会社の研修会に出席したときのことです。そこに何やら見覚えのある方が・・・
なんと比地原(旧姓 関野)正子さんでした。同じ英語教室をやっていたわけです。新宿のとあるビルの一室での予期せぬ再会でした。
比地原さんはその英語教室を30年も続けているそうですが、これは大変なことです。やっぱり情熱と強い精神力があってこそだと思います。
私は私立高校の非常勤講師の方に移り、3年前に退職いたしました。
その3
現在私は、夫の母の介護やら孫の世話やらと雑用係をやっておりますが、そのかたわら、やりたかった趣味の世界にもあれこれと首を
突っ込んでおります。
ピアノの練習もその一つです。ボケ防止にはこれが一番と還暦祝いにピアノを新調してもらい電子ピアノ機能もつけ騒音公害対策もバッチリ。
夜、夫が酔っぱらってソファーで居眠りをしていても安心して練習ができます。4年ほど前から「大人のピアノ教室」に参加し、
技術的に少しでも子供に近づこうと練習に励んでおります。
そのピアノ教室にはじめて伺った時のことです。私の前にレッスンを受けていた方と「初めまして」と顔を見合わせた途端、
直感的に「え、どこかでお会いしたことのある方!どこだったかしら?」という感じがしました。相手の方は別に何もおっしゃらなかったので、
そのまま4年余り、ピアノの先生のお宅で月に2回お会いするたびにちょっと立ち話という間柄でした。でも私の頭の隅にはどこで・・・
という謎がずっとあったのです。彼女は去年、引越されその謎は永遠に解けないかと思われましたが、去年の夏のホテルメトロポリタンでの
同期会で突然解けました。
会場のホテルで彼女にばったりお会いしたのです。元3年5組の黒沢(田中)さんだったのです。クラスが違ったのでお話したことは
なかったと思いますが、45年余りの間も同期の皆さんの顔は何となく心に残っているものですね。柏の片隅のピアノ教室で出会った方が
同じ高校で3年間を過ごした仲間だったなんて本当に驚きました。
同期のいろいろな方々と今もお付き合いさせていただいております。何年会っていなくても、会えばはすぐに懐かしい楽しいお話が始まります。
本当にいいものですね。これからもよろしくお願いします。
20期の皆さまお元気ですか。テニス部繋がりということで土肥明美さんからバトンを受け取ったオチビです。
何を書こうかとパソコンに向かって愕然、大泉を卒業して45年も過ぎたのですね。
在校したのはたった3年だというのに。そこで、私の45年間をちょっと振り返ってみたくなりました。
大泉ではテニス部に所属。山本光子さん(旧姓:関さん)とペア。私は後衛でした。ちっとも旨くなくて、関さんには「ボールが返ってくると
ホッとする」と言われていましたが、楽しい思い出です。
大学は医学部を目指し、現役で千葉大、浪人で神戸大を受けましたが不合格。ここで医学部は諦めて工学部電気工学科に進学しました。
理科系の学部は必須科目が多く遊ぶ暇が無いと言われますが、社会人に比べたら暇なもので、冬にはスキーによく行きました。
1シーズン30日くらいはゲレンデで過ごしたでしょうか。
4年生になる時に、「これからは研究するぞ」と一丁前に心を入れ替え、大学院の修士課程を修了するまで、夏休みも冬休みも無く、
朝から晩まで大学で過ごしました(たいしたことはできませんでしたが)。
その後、大手の化学会社に就職。27年間一貫して研究畑に居りました。その間、31歳の時に結婚、息子と娘が生まれました。
(子供達はまだ独身なので私はお婆ちゃんではありません。)夫となった人が北大でスキーをやっていたこともあって、まだ歩けないような
子供を連れてスキーを再開。以降、足が悪くなる50歳少し前まで毎年欠かさず滑りに行きました。
私が就職したころは、まだ女性の立場は男性と同じではなく、出世の道も閉ざされていました。私が30歳を過ぎるあたりから
女性の総合職の話が持ち上がり、私と同年配の女性達がその先陣でした。
ここで私がいい加減なことをしたら後続の女性達に害を及ぼすと思い、夢中で働いたような気がします。私は20代後半から35歳ぐらいまで、
研究テーマの面でも上司の面でも非常に恵まれて、基礎研究、それも凄く面白いテーマを担当させて頂きました。
その結果、企業では珍しいことなのですが、何報も論文を投稿することができ、その成果を基に母校で博士号を取得しました。
私の30代は、結婚して、子供を育て、会社員をしながら土曜も日曜も無く実験と論文を書いてと、想像を絶する忙しい日々でした。
若いから出来たのだとつくづく思います。博士号を取得した後の10数年間は会社への恩返しと思い、基礎研究ではなく
製造に関係するテーマを担当しました。
40歳になってやっと企業人らしい研究をしたように思います。
50歳になったころ、担当していたテーマが一区切りしたことがきっかけで、大学で研究してみたいと考えるようになりました。
幸い博士号を持っていたので、企業を辞めて大学の博士研究員に転職、現在に至っています。
8年ほど前から、夫と年に1回、10日から2週間の海外旅行をしています。2人で予定を立て、航空券と宿を予約して出かけるのですが、
電車が不通になったり、バス乗り場が判らなかったりと言葉の通じない国々(全く英語が通じない国って意外と多い)でドタバタの連続です。
これまでに2人で周った国々はイタリア、フランス、ドイツ、チェコ、オーストリア、スペイン、ポルトガル、トルコ、ギリシャ、スイス、ルクセンブルグ、
ベルギー、オランダですか。
私の少ない経験から感じることは、①有名な観光地より知られていない普通の町の方が美しい、②スピード旅行ではなく一ヵ所に
ある程度滞在した方が楽しい、です。
まだまだ行きたい所は沢山あるので、今年から年に2回に増やそうかと思っています。
写真1は2013年10月にリスボンからスペイン南部を列車とバスで旅行した時に滞在した、ポルトガル最南端の町ファーロの大聖堂の屋上から
海を眺めた景色です。
強い日差しの中、人が居なくて静寂な空間の向こうの海辺を単線のローカル列車が走っています。(この写真では見えていない。)
写真2~4は2014年2月に、移動せず一ヵ所に留まる旅をしてみたいと思い、シチリア島の州都パレルモで1つのホテルに6泊した時の写真です。
毎日、同じお気に入りのカフェでワインやお茶を飲んだり、ホテルのレセプションの女性(長くいると友達になれる)に綺麗な場所を
紹介してもらったりして出かけました。
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写真1;ポルトガル最南端の町ファーロの大聖堂の屋上から | 写真2;毎日行っていたお気に入りのパレルモのカフェで | |
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写真3;パレルモのキアラモンテ宮殿の学芸員の人と | 写真4;パレルモ旧市街のバザール |
では、そろそろ同じテニス部の長谷川さん(旧姓:羽賀さん)にバトンタッチします。