紀行文 その4  

更新 2008年4月2日

エジプトへ行ってきました 源(旧姓関根)恭子 2008年4月2日

4月になる前に桜が満開になってしまいました。
ご無沙汰しておりますが、お元気ですか。
よろしかったら、私のエジプト行、読んでくださいね。

夫とエジプトに行ってきました。
3月19日、エジプト航空に乗り午後2時半成田を出発、14時間後の現地時間夜9時半にカイロ到着。
カイロ空港は、夜の闇にまぎれているもののとにかく広い!!!

翌日未明の3時半、まだ暗い中カイロ空港に向けて出発し、ルクソールまで飛行機で移動。いよいよエジプト観光の始まり。
ナセル大統領の様な髭が立派なエジプト人ガイドのアーテフさんが早速案内を始めます。
ナイル川の東岸が現世、西岸が来世の世界とのことで、お墓は全て西岸にあるとか。
太陽の沈む方角があの世と言うこと?西方浄土の考えはここから来たの?
王家の谷へ歩いて行く途中、中国では王の墓を造った人はすべて殺されたが、エジプトでは墓作りには技術がいるので、終わったら目隠しをしてどこに埋めたか分からないようにして戻されたと、早速お国自慢が入ったガイドが始まりました。

まだ、7時台なのに日差しが強く、まさに真夏。赤茶けた山に囲まれた中を歩いて墓の一つに入りました。

王様の墓は生前作り始め、死んだ時に未完成でも中断して中にミイラを入れ、入口が分からないように塞いでしまうとのこと。
それでも殆どの墓は盗掘され、有名なツタンカーメン王は若くして亡くなったので、まだ作り始めてもいなかったので、神官用に用意してあった墓に入れたとのこと。
小さく、他の王様の墓を作る時に掘り出した土の下になっていたこともあり、奇跡的に盗掘を免れたとのことです。山の中腹にはルクソールでのテロの後に出来た軍隊の見張り場所が点在していました。

次に訪れたのがハトシェプスト女王葬祭殿。エジプトでは美人は「牛の目の様にきれい」と言われるとかで、美の女神は牛の耳を持っています。
古代エジプトは多神教でしたが、その後キリスト教が勢力をもつと、神殿の像を破壊して、自分たちの教会として十字架を刻んだとか。
その後訪れた多くの遺跡でもキリスト教徒による破壊の跡が見られました。今の私たちにとって幸いなことに、ナイル川の氾濫で砂に埋もれた部分は破壊を免れたということです。

出口近辺には木綿のスカーフや絵葉書をもった売り子が群れて口々にワンダラー(1$)、ワンダラー。そして日本人とみると、「一寸見るだけ」「さらばじゃ」

午後は古代エジプト最大のカルナック神殿を観光。硬く巨大な花崗岩の柱が134本も立っている大列柱室に入ると改めて巨大さにびっくり。
また、その石柱を積み上げるのに下の部分が出来ると埋めて砂で坂道を作り上の石を運び上げたと聞き、その作業の労力と時間の膨大さにびっくり。

夕飯を食べた後再びバスで今度はライトアップされたルクソール神殿へ。涼しくなったルクソール神殿には、多くの観光客が。団体ツアーが多いのか、各国語のガイドの声が行き交います。
神殿入口にはラムセス2世の坐像、その手前にはオベリスクが1本立っています。
オベリスク2本の内1本は、19世紀に時計と交換してフランスに渡ったとか。パリのコンコルド広場のオベリスクはナポレオンの略奪品と思っていたのですが、違っていたのですね。
空を見上げると、冴え渡った月が、昔と同じ光を投げかけていました。

翌朝、アスワンへ。テロ以降アスワンへ向かう観光バス等は、武装警官(ツーリストポリス)の先導、護衛を受けて、隊列を組んで行動(コンボイ)するとのこと。
車窓から見える家は日干し煉瓦を積み上げ屋根は植物等で葺いただけ。

雨が年1回位しか降らないエジプトでは日除けの屋根で十分とのこと。子供が結婚すると上に部屋を作っていくとか。
増築用の鉄柱が飛び出ている家も多く、私の目からは工事中の家に人々が住んでいるよう。
農家では今でも牛や馬、ロバが労働力とのことで、ロバにまたがっている親子の姿も見かけられました。
バスが時々苛立たしそうに、プップーと警笛を鳴らすのでどうしてかと思っていたら、そこのけそこのけ観光バスが通る、と言ったところだったのでしょうか。夕方の自由時間にアスワンの街に行った時、道路に信号が見当たらず、車の途切れた合間を縫って人々が横断していく光景が見られました。

次の日の朝、まずアスワンの石切り場に未完のオベリスクを見に行きました。カイロより大分南に下がったせいか暑さがまた一段と厳しい。
花崗岩の岩を登り、切り取る途中の大きな角柱が…。これが未完のオベリスク。
花崗岩の切断は、石等で小さな穴をあけ楔型に切った濡らした木片を差し込み、木片の膨張を利用して岩にひびを入れていったのだとか。
道具のない分、頭を働かしたのかと古代の人の知恵にびっくり。途中横断するようにひびが入ったので使わずに残されたのだとか。

警護の為に若いお巡りさんが2人バスに乗りこんできました。砂漠の中をノンストップで、アブシンベルへ。
ガイド曰く、昨日は普通の道だったので、時速100km位しか出せなかったが、今日は130km位出せますよ…。
砂漠と言うので日本の砂丘を考えていたら、工事現場の空き地が広がった様な感じ。
約3時間でアブシンベルに到着。
アブシンベル神殿はラムセス2世が作った太陽神ラーを祭った大神殿とハトホル女神を祭った王妃ネフェルタリのために作った小神殿がナイル川の堰止湖ナセル湖に面した小山の上に建っています。
アスワンダムの建設で埋没する神殿をユネスコが中心になって元の場所から引き揚げたもの。
そういえば、小学校の時、神殿救援キャンペーンのポスターを見た記憶がよみがえりました。

その後、アスワンダム、ギザのピラミッドと駆け足でエジプトをめぐってきましたが、昔の人は道具のない分、知恵を出したのだなと、その技術力に感心したエジプト観光でした。

やじうま的北京旅行 佐藤(旧姓荒川)陽子 2008年3月9日

昨年6月に友人と二人で4泊5日で北京を訪ねてきました。北京赴任中の友人にもお世話になりました。

まず、中国はとても広い。北京のホテル前の道路は片道4車線で滑走路にも使える。さらに歩道寄に自転車専用道路が敷かれている。
オリンピックを前に道路も線路も建物もどんどん作られていましたが、線路などはまだ土盛りの段階で果たして列車が通れるのかしら?建築用クレーンの数にも驚かされました。

万里の長城はひざが悪いので半ば諦めていましたが、何と、麓から行きはリフト、帰りはスライダーで滑り降りました。
城壁の中は石畳ですが、馬が走れるように設計されているようで緩やかな階段でした。一番大変だったのはトイレへの険しい道のりでした。

その夜はフットマッサージに出かけ、帰りに火鍋屋によりましたが、言葉が出来ないのでジェスチャーとボーイの片言英語でどうにか美味しくいただきました。
スープには体によさげな薬草が入っていました。たれは醤油ベースでしゃぶしゃぶでした。

3日目には二人だけで故宮博物館へ行きました。
まずは地鉄駅を目指しましたが、途中通勤の人達とすれ違いますが、女性はスラッとして美しく日傘をさしています。
3元(50円位)を握り締めて切符売り場へ。天安門広場で下車。表へ出たら、マァ広い事、広い事。方向もわからずウロウロしましたが、30分くらいかけてやっと天安門まで辿り着きました。
故宮博物館見学には日本語の説明イヤホーンがあり、100元で借りました。ところが、オリンピック前の修復中で肝心の建物には入れず説明だけを聞く羽目になりました。
宝物の多くは台湾に持ち出されているので建物と玉座だけが残されています。

天津へ
北京からノンストップの特急で一時間で着きます。三大港の一つで、天津甘栗も天津絨毯もこの港から輸出されたのでこの名前があるだけで、産地ではないとの事。
駅の雑踏が好きなのでこの列車の旅は楽しかった。ホームには列車出発の20分前にしか入れない。飛行機に乗るときのように手荷物検査がある。
トイレには驚きました。ドアがありませんでした。

私が旅に出て気になる物: 1)駅2)郵便局3)ポスト4)公衆電話5)消火栓
今回中華料理屋になかった物 1)杏仁豆腐 2)マスタード 3)醤油?餃子には黒酢)

カンフーショーのバレーダンサー プラットフォーム
天壇園からのクレーン

一日一捨の山登り 比地原(旧姓関野)正子 2008年2月24日
  (新ハイキング誌 2008年2月号 掲載)

「村人の魂に魅せられ、ネパールの山奥に住みついたひとりの日本人」というサブタイトルの本の中に「一日一捨」という言葉を見つけたのは、私が2度目のヒマラヤトレッキングから帰国したばかりのときだった。
 私たちは氷雪のアンナプルナなどの名峰を求めて、テント泊をしながらゆっくりと村々を回りながら進んでいった。ヒマラヤトレッキングの感動がヨーロッパなどのトレッキングと大きく違うのは、行く先々の村の人々の生活を直接肌で感じられることや、同行するシェルパ達との交流にある。不便で何もない貧しい村々で出会ったお年よりの満ち足りた表情や、子供たちの明るい笑顔に強く魅せられた。それは私たちがとうに失ってしまった50年以上も昔の懐かしいものに似ていた。
 その素朴な生活や思いが、今もヒマラヤの麓で朝に夕に神々しい雪峰を仰ぎつつ生きる村人達の中にいきいきと残っていることを目の当たりにした。
車の入らない山岳地帯に美しい段々畑を作り、氷雪の山々に見守られながら自給自足で生きる人々の姿は、物は持たなくても人は幸福に生きていけることを教えてくれた。
 8000メートルを超すダウラギリが思わず両手を合わせたくなるように正面に聳え、アンナプルナやマチャプチャレなどの輝く氷雪の稜線が眼前に現れた時、私はその連なりに向かって言葉を失いながらも心の中で呼びかけていた。「やっとここまでたどり着きました。ありがとうございます」。そのときの私は、人間界の欲はもちろん自分を飾る心の服も守る鎧も捨てた、何も持たない自分だったと思う。
まるで神の前に謙虚にあるがままの自分をさらけ出すように。神も仏も信じていない私なのだけれども。山と対峙するときは、物も肩書きもいらない。ただ驚きと感謝で一杯になった心があればいい。ちっぽけなままの自分でいい。自分の魂以外は何もかもがここでは消えてしまい、一番純粋な自分がそこにいる。そういうときに山からのメッセージを感じ取ることができる。それが感動だと思う。
 そのときの思いを予感しつつ、一歩一歩登るごとに普段身に付けているものを少しずつ捨てていく。捨てるというより自然に消えていく。まずは欲しがる気持が弱くなってくる。山のふところ深くに身を置くと、もう何も欲しくなくなっている。物も他人の評価も自分の成果もどうでもよくなってくる。耳を澄ませてみると、聞こえなかった風の流れが聞こえてくる。悠久の流れのなかのほんの一瞬、大きな自然界のなかのほんの一点、そこに自分が居ることを認識することができる。
 私たちが山をおり日常生活に戻った後も、同じ所に悠然と聳え続けるあの山々に今遥かな思いを馳せる。文明社会の中で、戻ることのできない所まで走ってきてしまった自分達だが、物ではなく感動で生活を満たし、一日一善よりむしろ一日一捨で生きていけたらよいと思う。山での思いを忘れずに。欲深の自分だからこそ余計にそう思う。
出典 垣見一雅 著『OKバジ』 発行 サンパティック・カフェ  発売 星雲社

紅葉の京都 三東(旧姓渡辺)恵利 2008年1月8日 

明けましておめでとうございます。
今年も よろしく お願いします。
本来の趣味のダイビングにはなかなか行けそうに有りませんが昨年の11月に京都に行きましたので 写真を送ります。
何度となく行っている京都ですが、哲学の道や銀閣寺に出向くことは始めてでした。すばらしい紅葉にも恵まれて久しぶりの京都を堪能してきました。前日は祇園の中村楼で舞妓さんとも会いました。とても可愛らしい子達でした。
娘の出産待ちで何時ダイビングに行けるか分かりませんが次回はぜひ海の中の写真をおくりますね。
50代最後のの年を有意義に過ごしたいと思ってます

バンコク旅行 佐藤(旧姓荒川)陽子 2007年9月22日

妹と二人でバンコクへ行ってきました。
3泊5日なので、食べる事とショッピングを楽しもうと意気込んでいました。でも、円安の上に物価も上がっていました。
東京でも美味しいタイ料理がたやすく食べられるようになったせいか、現地で食べてもそれほど感激しなくなりました。
交通は、スカイトレイン(王様の誕生日に開通)と地下鉄(王妃様の誕生日に開通)が出来て渋滞に巻き込まれずに移動が出来るようになったので非常に楽になりました。

スカイトレインのICカードと地下鉄のToken 旬の果物 ランブータン (タイでは、ンゴと呼ばれています)
町のフカヒレ屋で

黄金仏寺

妹家族はバンコクでは、必ず黄金仏寺にお参りをするのだそうで、今回は地下鉄を利用して行きました。
インド人の団体に出遭いました。驚いたことに彼らもお寺の売店でTシャツを沢山買い込んでいました。
ここの両替所には日本円が表示されていなくて、米ドル、ユーロ、ポンド等に並んで、インド、韓国などの通貨が掲示されていました。

黄金仏 中国人街を背景に
ファランボン駅

ホテルの窓から見た風景です。
その名の通り、インペリアルクィーンズパークが見えます。その昔は気象庁がありました。
今は、町の人々が朝夕健康の為に集っています。太極拳、セパタクロー、ジョギング、エアロビクスなどなど。
夕方6時に公園を歩いていたら、王様の歌がかかり、皆直立不動でした。国民の王様を尊敬する気持ちは変わっていないのだと改めて思いました。その王様も今年は80歳になられます。

クィーンズパーク スカイトレインとエンポリアム
(デパートやブランド品の店が入った ショッピングモール)
八重山諸島
 (行きの機内で見た沖縄の八重山諸島。西表島には雲がかかっています)


アジアは楽しい 土肥(旧姓鈴木)暁美 2007年6月27日

ひょんな事でタイのチェンマイに行ってきました。金曜朝発の月曜朝帰りの3泊4日でした。
チェンマイはそれ程都会化されず、それ程僻地でもない町で、外国の感じがしません。食事も強烈な辛さは1回(それは強烈でした。一口食べて後はひたすらビールで冷ますだけ。その後のお皿は何を食べても味がしません。)だけで、あとはフレンチだったり中華風だったりでした。市場には蛙の丸焼きやゲンゴロウの甘露煮やら、またトンちゃんの頭が並んでいたりで、ちょっとグロな部分も。果物はドリアンは勿論、マンゴスチンも釈迦頭も満喫。一つ、見たことの無い果物(形は、毛が生えた小さ目のパパイヤ、色はこげ茶。ちょっと臭いが味はアボカドがスイートになった感じ。アレはなんという果物かしら)を初体験しました。5個で20バーツ。タイ式マッサージも2時間を2回体験しました。ぎゅうぎゅうされますが、痛いというより気持ちよくってよだれたらして寝入ってしまいました。その他、象さんに乗ったり首長族のお姉さんに会ったりしましたが、見世物化されていて、ちょっと可哀想。生活からくる逞しさは感じられませんでした。
でも旅行はどこへ行っても楽しい。忙しかったけれど、介護生活をしばし忘れ、エンジョイしちゃいました。
どなた様か、アジアにいかれる機会があったら声をかけてください。

ヒマラヤトレッキング 比地原(旧姓関野)正子 2007年4月14日

比地原が会社勤めから解放されて半月後、本人と旅行会社の共同企画による11日間のヒマラヤトレッキングツアーが実施されたので私も同行してきました。私には2回目のヒマラヤです。比地原はその後約一ヶ月ほどネパールに残ります。

参加者は私たちを入れて10人ですが、それに対するネパール人のサポーターは34人。ガイド頭一人に、シェルパというガイドが4人、日本食の上手なコックが1人にキッチンボーイが6人、荷物運びのポーターが22人。私たちを入れると44人の大所帯ですがヒマラヤトレッキングでは普通の数です。調理器具、食器、燃料、食材、テントと個人の荷物など一切のものを運んでくれます。

雪に閉ざされた8000メートル峰を間近に見ようと自分の足だけを頼りに村々を回りながら奥へ奥へとと進んで行くのですが、ヒマラヤトレッキングの感動がヨーロッパなどの山の感動と大きく異なるのは、村の人々との交流にある思います。村々で出会ったお年寄りの満ち足りた表情や子供たちの明るい笑顔に魅せられます。、あれ程貧しくて何も持っていないのになぜあんなに豊かな気持ちでいられるのでしょうか。ヒマラヤの神々しさとともに生活していると物欲が強くならないのかもしれません。物は何も持っていなくても人は幸福に生きていけるんだということに気づかされます。

トレッキングの朝は熱いネパール茶と洗面器のお湯を届けてくれるシェルパの声で始まります。出来立ての朝食を私たちがゆっくり食べているあいだにテントなどを担いでポーターたちはもう出発していきます。私たちの出発後キッチンボーイは食器を洗って荷物を担いで私たちを追い越して先に昼食地へ行って食事を作って待っていてくれます。夕食も同じです。メニューは、カツ、てんぷら、巻き寿司、コロッケ、焼きソバ、ぎょーざ、そうめん、味噌汁などなど和食というより家庭料理です。こんな山奥に来てまで総手作りの美味しいものをいただいて、良いんだろうかと申し訳なくなります。

今回のコースはヒマラヤ山脈の西方面で、8000メートルを超すダウラギリが正面にどっしりと聳え、アンナプルナやマチャプチャレなどの氷雪の稜線が連なりエベレストは見えなくてもそれ以上の大迫力で眼前に迫ります。朝日に映える神々しい姿を前にすると言葉を失います。途中日本の数倍のシャクナゲの大木が満開で山を赤く染めていました。歩きながら見られるのも、またずっとこうして歩いていけること自体も喜びです。

最後の晩に開かれたパーティは働き者で正直な人たちらしい、つつましく心温まるものでした。小さな太鼓があるだけですが歌と手拍子に合わせて日本人もネパール人も一緒に盆踊り風ゴーゴーを踊ったり、幸せなら手をたたこうの替え歌で隣のポーターの肩をたたいたり。振り返れば本当によくやってくれました。私たちは日本に生まれたというだけでこんな贅沢をしていいんだろうかという自責にも似た思いを抱きました。
 
彼らのことを思う時、私達特有の余計な考えが浮かびます。彼らだって金が欲しいし、便利なものを知らないだけだし、日本人が金持ちだから一目置いているし、教育を受けていないので仕事に選択肢がないなど。確かに当たっていますがでも彼らの親切や正直や屈託の無さは本物です。決して車の入って来ない山岳地帯に美しい段々畑をつくり氷雪の山々仰いで自給自足で生きる人々は街の人とは価値観がちがうようです。これがいつまでも続くと良いと思います。これからは私も一日一膳ではなく 一日一捨を目指したいです。