更新 2010年7月11日
こんにちわ。内藤君よりご指名をいただきました菊地 久です。ご無沙汰しております。
1年(花崎先生)、2年(乙黒先生)、3年(杉田先生)でした。
皆さんとあの桜並木でお別れしたその後の私です。
現役の時は、当然のことのように都内の学校を受けました。準備不足(学力不足)で見事浪人となりました。小学校は大泉小、中学は大泉中、高校も大泉高校でしたので、あこがれの電車通学で予備校へ通いました。迷いながら、「そうだ!地方へ行こう」と急に思い立ち、秋田大学鉱山学部へ。私でも入れそうでかつ希少価値のありそうな所、日本唯一の学部。かつての繁栄が忘れさられようとしている雰囲気のキャンパスでした。それは、秋田には鉱山が沢山あり、江戸時代から銅などの採掘をしておりましたが、われわれが学校に入った頃は、どこの鉱山もほとんど閉山に近い状態でした。
秋田は雪国のイメージ。試験は東京会場で受けましたので、3月末にはじめて、秋田駅に長靴を履いて降り立ちました。そこには雪のかけらもなく、駅前のレコード屋からは、「夜明けのスキャット」がながれておりました。そして長靴姿は私ひとりだけ。
夜も6時ごろになると、ほとんどの健全な店が閉まり、開いているのは飲み屋だけ。市内には、東北一といわれた飲屋街「川反」と呼ばれている所があり、非常ににぎわっておりました。どこへも歩いていけるのが、地方都市です。雪の降る街を、街灯に照らされた路地を歩いたり、特に何になりたいわけでも、何をやりたいわけでもなく、中途半端な気持ちをひきずりながら、ふらふら街を歩きまわっておりました。そんな時間を過ごし、卒業を迎える頃は、地方都市での生活もいいかもと思いはじめましたが、一人息子でもあり両親のことを考えて、再び東京へ舞い戻ってきました。
就職したのは、ひばりケ丘にある工場。職場は、専攻が冶金(夜勤ではありません、ほかでは金属工学とよんでいます。)でしたので、鍛造の職場へ配属になり、やめるまで関連の職場におりました。いわゆる鍛冶屋の世界。まだこんな仕事があったんだという感じでした。塩をなめながら仕事をするような職場もあり。仕事が終わると全員職場の風呂に入って帰る。また、11月8日は、鞴祭り(火の神様に感謝する祭り)を工場全体で派手にやっておりました。お酒が入るものですから現場ではすぐに喧嘩が始まります。工場の柱に縄でしばりつけられている人もおりました。
はじめは大泉の実家から通勤しておりましたが、約30年前に現在の入間市仏子へ引っ越してきました。昔(今でもそうですか)遠足/ハイキングにやってくる所です。遊びにこられる方はご注意ください。駅前にはなんにもお店がありません。ましてやパチンコ屋なんかありません。
家の前は、一級河川入間川、裏は加治丘陵。すぐそこに奥多摩、奥武蔵の山々が眺められ、豊かな自然に囲まれた別荘みたいな環境です。夜は川のながれる音をききながら寝ます。子供を育てるのにも絶好の所です。地方生活の経験があったので抵抗なく引っ越せたのでしょう。
同期会で、昔と変わらないわね!と同級生の女性に言われ。そうだよなと素直に受け入れられました。考え方は、10代のまま変わっておりませんね。気持ちも20代です。どんどん若返っております。危ない状況かも?
計画的に人生を歩むのが苦手で、行き当たりばったり出たとこ勝負、もちろん勝負もしませんけれど。なかなか思うようにいかないのが人生、人間死ぬこと以外はたいしたことはないとたかをくくり、ケセラセラでやってきました。立派なことを言っている人を見ると、「ほんとかよ?」とつい思ってしまういやな私です。
55歳のときに、なにか違うことを最後にやりたいと思い、会社をやめました。かみさんには散々おこられましたが。現在のマンションの管理会社に最後の就職をしました。体力と気力があれば、68歳まで働ける職場です。給料に見合ったストレスのない職業です。職場も自宅がある入間市の隣の所沢市にあり、電車に乗っている時間はわずか15分くらいです。
従来の職場では、話をする相手はそんなに多くはありませんでしたが、この仕事では、いろいろなマンションの様々な方々とお話ができ、「なるほど」と思ったり、「大変な人生を歩んできたんだ」と感動したりする一方で、「何を考えているの?」 これでよく会社が勤まるよなとか、ほんと様々な刺激のある楽しい仕事です。様々な考え・性格の方とそれなりにうまくやる。これまでの人生経験がものをいう仕事です。我々の年代には、コミュニケーションのある、やりがいのある職業かもしれません。最後の仕事として、ほぼ満足した日々を送っております。
特に先の計画がある訳でもなく、自宅周りの自然の中を散歩していると、それだけでなんとなく気持ちが落ち着き、その日暮らしを続けております。
とりとめのないことでお許しください。
やまのたかねに、さくはなは、とこしえかけて、かおるべし
次の同期会で!再会!
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自宅前の入間川と桜並木 | 埼玉県騎西町にて | |
後藤和光君よりリレー投稿の次の番をわたしに、との話があり、気楽に承諾しましたがなかなか手につかず大変遅くなり失礼いたしました。
私は生まれてから現在まで、会社生活で6年ほど豊橋と関西で生活をした以外は、この上高田の地でずっと生活をしております。子供たち3人も私と同じ幼稚園、小学校を出て、息子は大泉高校も一緒です。
そんなことで、周りに知人も多く、近所づきあいも結構ある街です。結婚した昭和50年代、60年代まではお葬式も自宅で行い、接待も近所の奥さん連中が手伝い、回りに比べ年の若かった女房はいっもこき使われていたようです。ちょうど結婚した55年頃だったと思いますが、隣の小父さんから、秀樹もそろそろ青年部に入らないか、とお誘いを受け、子供のころ近所の人にお世話になったのだから、今度は子供たちがお世話になるのだし、少しはお役に立てばと思い青年部に入ったわけです。
青年部という組織は町会の下部組織なわけですが、老人会は多くの町会にあり又全国の連合会も在りますが、意外と青年部のある町会は少なく上高田の8町会の内では2町会しかありません。又私の所属している町会はその名も厳めしく上高田隣人協力会と称し、昭和3年から戦後のマッカーサーの町会解体にも関わらず現在も続いている古い町会で、戦前には青年部もあったようですがその後消滅し、昭和54年に現在の青年部が再結成されたようです。
30歳で加入し60歳でまだ青年部とは馬鹿みたいと殆どの人が思われると思いますが、結構大人の遊び場所として楽しいものですよ。
加入資格は三丁目に住んでいる男に限られ、又口コミで勧誘しているためOBを含め総勢で30名あまり、8割は地元出身者が占めています。
年齢層は50歳代、60歳代が8割を占め、若手を勧誘しているのですがなかなか成果があがりません。子ども会のお父さん方にも声掛けはしているのですが即加入という状況にはなっておりません。職業は自営業者と職人が6割、サラリーマンが4割というところです。
人員構成はこんな所ですが、活動は結構行っています。毎月第三土曜日が定例会で牛後7時半から9時半ごろまで真面目な話や四方山話をして楽しんでいます。行事は祭りが1番で毎年6月の準備から始まり最後の打ち上げの9月いっぱいまで結構時間と体力とお金が掛かっています。
その次は餅つきです。毎年成人の日に老人と子供のための餅つき大会を行っています。もち米70キロを未だに薪を使ってかまどで蒸し、餡子もち、黄粉もちを約500名の人に無料でお持ち帰りいただいています。又最近は獅子舞を招いて子供たちの健康と成長を祈り楽しんで頂いています
その次が毎年12月27日から翌年の1月31日まで行っている火の用心の夜警です。この期間中20日以上は青年部が責任を持って行っています。1回目が9時30分から2回目が10時30分から回っていますが、最近は夜遅い人も多いせいか、人通りは結構まだ在ります。
又、5年ほど前から12月27日から30日の4日間は小学生、中学生の子供たちと一緒に火の用心を行っています。「マッチ一本火事の元」と言ってもマッチを知らない子供たちですが、回っている最後のほうでは大きな声を出し楽しんでいるようです。
その他、1月には1泊2日の新年大山詣り、4月のお花見、8月の納涼パーべキュー大会、年2回のポーリング大会等を行い、当然のことながら町会主催の防災活動、防犯活動、町会旅行等、又町会定例会にも積極的に参加しています。
団塊の世代が定年を迎え、定年後は地域社会への参加をと言うような文章を新聞、雑誌等に見かけますが、何のことはなく似たようなことを実践してきたようです。孫も3人おり60歳過ぎて青年部もないようですが、会社も嘱託として働いている現在その存在は私にとって大きな位置を占めていることを改めて感じている今日この頃です。
今までこのリレー投稿に参加された皆様に比べ内容も文章も拙いものでしたが最後までお読みいただきありがとうございました。
大泉高校の20期OBの方、久しぶりです。藤本さんより引き継がれましたので、一筆啓上いたします。
藤本さんとは太極拳の教室で偶然一緒になり、はや8年目です。
中国太極拳の大御所李天驥先生の愛娘である李徳芳先生が日中友好協会の縁で日本で教室を開き22年、たまたま縁があってその教室で藤本さんとお会いしました。
太極拳は奥が深くなかなか上達しませんが、ストレッチ、老化防止にお爺さん、お婆さんに交じって習っています。興味のある方はお声掛けください。
毎週日曜日の午前中の石神井公園駅北口のピアレスを本拠地に汗を流しています。
太極拳の話はさておき、私ごとで恐縮ですが、本日は孫の話をしたいと思います。
昨年孫ができ、この4月より息子家族と一緒に住んでします。
皆さんの中にもお孫さんがいらっしゃる方も多いと思いますが、男性では早い方と思いますので、何かの参考になるかもしれませんので、おじいさんとなった孫初体験中の話をしたいと思います。
「孫は目に入れても痛くない」と良く聞きますが、昨年までは全く親ばか、いや爺ばかの話と思っていましたが、ここでまだ1歳にならない孫と暮らしてみると、なるほど可愛いものと実感しています。
まだ可愛さが新鮮なところなので、なぜ可愛いのか?と分析してみたりしています。
*まず笑顔。
自分の子供が20歳を超え、会社では新入社員でも18歳を超え、赤ちゃんを24年前に抱いたきり。アラ60歳のおじさんにとって赤ちゃんとどう接して良いのやらと思っていたところ、あやすとニコッと微笑んでくる存在に心配も溶け、一気におじいさんに!
どうして微笑むことを知っているのか?不思議です。
欲がない微笑み。絶対的に信頼されることの喜び。
*第二に好奇心と進歩
何にでも興味を持って、日々進歩していく様。
寝返りから始まり、ハイハイとなり、伝い歩きを始め、何でも興味を持って触ってみて、持ってみて、噛んでみて、投げてみて、日に日に手も器用になって、昨日できなかったことが今日できていること。
今日はバイバイができるようになった。手にとったものを人にあげる「ドーゾ」ができるようになった。と人とのコミュニケーションも少しずつできてくる。
毎日が驚きの連続。子供って毎日が新鮮です。
*唯我独尊から考えさせられること。
唯我独尊で純真無垢、私利私欲のない世界。
1歳の子供はまだ自我がなく、競争のない世界、比較のない世界。疑うことのない世界に住んでいるようです。まさに唯我独尊の世界ですね。
我々が過ごしている世界と比較してみると、何か拍子抜けしてしまったり、気付かなかったとっても大事なこととか、考えさせられたりします。
この単純で真剣な毎日の暮らしの中に、楽しみ、喜び、すべてがあるようにも思います。
これが忘れていた愛情リッチな世界かなとも考えさせられてしまします。
孫と暮らしてみて、いよいよお爺さんの世界に踏み込みつつある近況です。まだ65歳まで現役ですが、仕事にも良い効果はあるように思います。
孫との同居はお勧めです。体力もいりますが。
どなたか最近お爺さんになられた方がいらしたらお爺繋がりで一筆お願いしたいところですが。
卒業してから何年も経つと、母校との縁の濃淡がでてくるかもしれません。私は濃い方かと思います。数年間を除いて毎日西武線で母校を眺めて通ってきましたので。
中村由美子さんからバトンが届いたので、私と同様、毎日のように見ている方にはつまらないと思いますが、最近の母校と西武線大泉学園駅周辺について記してみます。
まず多くの方が利用したであろう大泉学園南口の現在。高校への線路沿いの道から駅方面を振り返ると<p01>のような感じ。画像左側の高層ビルは「ゆめりあ」タワーと称する賃貸住宅です。
現在南口は環状のペデストリアンデッキができ、地上とデッキの二層構造になっています。
駅周辺の、ごちゃごちゃしていた小規模な店舗などを整理して、平成14年中に南側に、ゆめりあフェンテという商業ビル、ゆめりあタワーを建設、北口側にゆめりあホールをつくりました。
地上の南口です<p02>。ここからエスカレーターでペデストリアンデッキのレベルまで上がれます。デッキに面した橋上の南口です<p03>。
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特徴的な建屋があり、箱根土地(後のコクド)の大泉学園都市分譲計画との関連もあったので旧北口の画像はよく目にすることがあります。これに対して平凡な建屋の南口の画像はあまり残っていないようです。
高校生の頃は南口を入り構内踏切を渡って、ホームへの階段を上っていました。駅舎の左に床屋などが並び、大判焼きのお店もあったと記憶するのですが、いかがでしょうか。
現在は改札も橋上にあり、南北自由通路に面しています<p04>。正面に見えるのは松本零士の作品に出てくる車掌さんというキャラクター。大泉学園駅の名誉駅長になっています。練馬区は日本アニメ発祥の地―というアピールを展開しており、北口には銀河鉄道999の壁画も出現しています<p05>。<p06>が現在の北口で、この画像のさらに左側に銀河鉄道999の壁画があります。
以前は<p07>のような味わいのある駅舎でした。<p07>は、この北口旧駅舎が使用停止になってから取り壊されるまでの間に慌てて撮影したもので、駅名看板が取り外され、左側には新設橋上駅舎がちょっとだけ顔を出しています。この古い駅舎の内側に大泉高校美術部による「海の幸」の模写が飾ってあったように記憶しますが、定かではありません。
先ほどのゆめりあタワーですが、平成14年9月にモデルルームを公開したことがありました。私も見物しましたが、その時撮影した母校の画像が<p08>です。あまり鮮明でない画像ですが、西武線脇の正門から続く桜並木がわかるでしょうか。一番大きな建物は私たちの頃はなかった講堂だか武道場のはずです。
左側の西武線ですが、この画像の範囲は将来高架になります。
小山さんによる、お便りその7「石神井公園駅が高架になりました 小山恵一郎 2010年2月7日」にあるように、石神井公園駅付近の上り線のみ2月から高架になりました。東側は練馬高野台(私たちが高校生の頃はなかった駅)から高架がつながりました。西側は中途半端な位置に仮設スロープをつくって、ここまでが一期工事(平成23年度完成予定)とされています。
平成6年9月に大泉東小で説明会<p09>が開かれましたが、どうやら二期工事(平成26年完成予定)部分で外郭環状道路と交差するようです。その調整があるので交差部分の着工が遅れたのではないでしょうか。
最終的には大泉学園駅ホーム東端の踏切は残りますが、母校正門前の道とは立体交差になります。
冒頭で、毎日母校を眺めている―と記しましたが、将来は高架の車窓から見ることになるのでしょう。その頃までには併設中学の関係で現在のグラウンドが校舎群に、校舎側がグラウンドになるそうです<p10>。
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最後に、小山さんから今のでも昔のでもいいから画像を添付するように―と指示されましたので修学旅行の時のものを添付します<p11>。中央が私です。左右のお二方は既にリレー投稿に登場しておられますね。
次回は卒業して、ずいぶん経ってから知り合った同期生・岡本謙蔵さんにお願いしましょうか。
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私が英文ジョークの面白さに惹かれたのは、もう20年以上昔です。当時通っていた英会話学校でネイティブスピーカーと話す時、「ね、こんなジョーク知っている?」と切り出してリラックスしてから本題に入りました。その頃ブッシュといえば湾岸戦争を始めたパパ・ブッシュ、東西ドイツの統一に続くソ連邦の崩壊、それ以降はクリントン大統領スキャンダルや、ダイアナ妃がジョークの対象になった時代でした。ジョークネタ探しはもっぱら書籍や人伝えで、新しいジョークを毎日インターネットで拾える現在とは隔世の感があります。それでも20年前のジャック・ニクラウスジョークのオチが、そのままタイガー・ウッズジョークになっているのを読むと、微笑みを禁じえません。現在までに5,000話近い英文ジョークを集めましたが、気に入っているものの一つをご紹介しましょう。
Three professions
A surgeon, an architect, and a politician were arguing whose profession was the oldest. The surgeon said, “Eve was made from Adam’s rib. That was the world oldest surgical operation.” “I agree,” said the architect. “But prior to that, order was created out of chaos. That was definitely architectural job.” “Sure,” interrupted the politician, “but somebody else created the chaos first.”
三つの職業
外科医と建築家と政治家が、誰の職業が一番古くからあるかという議論になった。
外科医:(旧約聖書によれば)イブはアダムの肋骨から作られたとされている。これは
世界で一番古い外科手術と言えるんじゃないかな?
建築家:それは同意するよ。だけどアダムとイブが出現する前に神は混沌とした世界
から(昼夜、天と地などの)秩序を築かれたわけで、これはまさしく建築家
の仕事と言えるんじゃないかな?
政治家:そりゃそうだ!だけど最初にその混沌状況を創った人がいるわけでしょ?
(=つまり政治家が一番古い職業なのですよ)
ジョークには様々な機能がありますが、最大の機能は“コミュニケーションの潤滑油”でしょう。初めて会った人と話す時や、会話が行き詰まった時にジョークをサラっと入れると緊張がほどけてリラックスします。バートランド・ラッセルは「笑いは最も安く、最も効き目のある特効薬、笑いは世界共通の薬である。(Laughter is the most inexpensive and most effective wonder drug. Laughter
is a universal medicine. )」と言っています。私は7年前に「英語のジョーク」というホームページを起ち上げ、ほぼ毎日1話ずつペースで追加更新していますので、よろしければぜひ一度訪れてみて下さい。
http://homepage3.nifty.com/kazgoto/
「雨氷」をご存知ですか?先日、八ヶ岳で近年にない珍しい現象がおきました。
まさに木がクリスタルのように美しくなり、高原から八ヶ岳の山々までそれが続いていました。
2月の、横浜でも寒かった時期に、この雨氷という現象がおきました。
雨氷は、地上が氷点下、上空が0℃以上という条件の時できるそうです。
上空は暖かいため雪ではなく雨となり、地上は氷点下なので木に降った雨が瞬時に凍って、
まさにクリスタルのようになるそうです。八ヶ岳中の木々がキラキラと輝いている光景は、
土地の人にとっても誰もがはじめてだったそうで、感嘆の声をあげていました。
60歳も間近に迫って、老後?は空気の良いのんびりした所に住んでみようか…加えて
10年位前から「鳥見」に興味を持ったため、そこにいるだけでいろんな鳥さんたちに会いたい!と云う思いで、2年くらいあちこちを回り(長野、山梨、群馬、栃木、千葉、埼玉)棲家探し。ここもいい、あそこもいい。けれど結局たどり着いたのが、ここ飯能でした。なぜなら、都会暮らししか経験のない私め、車の運転ができないとなると日常のもろもろの生活に支障をきたすことは自明でありまして、交通の便が良く半分都会的要素を持ち、かつ環境も良い、都会にも近いという便利さに屈した!?のです。
飯能は歴史もあり、自然もあり、想像以上に良いところでした。天覧山、名栗川(入間川)近くは低山、青梅やその他地方と飯能を結ぶ峠ありで少し歩けば川遊びや森林浴を楽しむことができ、富士山、秩父・丹沢の山々は澄んだ空気をもたらしてくれています。鳥もかなりの種類を観察することができて、双眼鏡は必需品。庭にも木の実を食べに数種やってきます。ちょっと散歩すればその時々の鳥たちと会うことができ、季節感あふれる懐かしい情景も楽しんでいます。が、小さな山や、雑木林、草原がどんどん開発され、丸坊主になってきています。自分たちの住まいするところもそうして開発されてきたのですけれど、できるだけ、できるだけ自然と、生き物たちと上手に共生できればと思っています。
昨年からいずみ会の仕事をしていますので、大泉にでるのも楽ですし、それ以外はこうやってのんびりの日々。極楽極楽……なのではありますが、いま、一番気になっていることは愛猫(なっちゃん、13.5歳)が癌であとわずかしか生きられないことです。毎日傷口の包帯を替え、いつもどおりの暮らしをさせてあげることが私たちにできることかなと、見守っています。あ~あ、せつないで~す。考えるだけでじわぁ~っと来てしまいますが…気を取り直して。
そうです!今年は10月に開かれる総会・懇親会のお世話役が「0の会」われわれのお当番です。10月の多分後半に母校で開催されますのでまたお会いいたしましょう!いろいろな仕事がありますのでお声をおかけいたしますね。ご協力よろしくお願いいたします!
とりとめもなく書きました、荒井(高尾)真理子でした。次は中村由美子さんにお願いしようかな??